家畜小屋の隅でロッコは藁の上に寝そべって、高い位置にある窓から星空を眺めていた。
頭痛、吐き気、眩暈、そして眼底を襲う激痛、それらが過ぎるのを願って、ただジッとしている。
眼球をえぐられた傷口から流血が止まらず、包帯がわりに巻き付けたぼろ布に赤色が染み出していた。
負傷は左眼だけではなく、掴まれたり押さえ付けられたりした箇所がそれだけで青や黄色の痣が浮いて斑模様に変色している。
肉体の強度が人間とはまるでちがう、掴まれてしまえばその怪力に抵抗するという発想が起きないほどだ。
そもそも生物がちがう、人間と二足羊のあいだで妊娠したという話はない。
それでも人間は執拗に二足羊を性処理の道具に利用する。異性に抱く劣情とはまたちがう、明確な優劣を刻み付けるための作業だ。
同族の異性よりも二足羊を支配することに執着した。
ロッコにとってそれらの行為は躾の一環という認識でしかない。
されるがまま、なすがまま、不満や怒りはなく、ただ左目はもう使い物にならなくなったというだけ。
──あつい、いたい、眠れない。
休息して体力の回復につとめたいけれど頭痛がおさまらない。
眠れたところで目覚めないかも知れない、そう予感させるくらい具合がよくなかった。
星空を眺めてまぎらわせながら、痛みが過ぎるのをただ待つことしかできない。
──星が流れた。
ふと、嵐のようにすべてを薙ぎ払った野良と、暗がりに煌めいた白刃があたまを過ぎる。
鮮烈だった。
問いかけてきた黒毛の雄、その意志を湛えたするどい眼光がつよく脳裏に焼き付いている。
凶暴な、それていて怒り狂った人間や野犬とは明確にちがう、冷たく燃える輝き。
──あれはなんだったのだろう?
眠れずにいると、外から喧騒が聞こえてくる。
それ自体は不思議がるほどのことでもない、誰かが癇癪でいさかいを起こすのは日常茶飯事だ。
いつものこと、なのにロッコは不思議な高揚感に戸惑いをおぼえる。
あの日以来、喧騒を聞けば胸がザワつく、その感覚の正体が『期待』であることをロッコは知らない。
彼女は期待していた、ふたたびあの日が訪れることを。
──!?
開けっぱなされた家畜小屋の入口から、とうとつになにかが転がり込んできた。
飛び込んできたのは二足羊の雄、歳はロッコよりかは幾つか上に見える。
その姿を見るとロッコの心臓が跳ね、衝撃に「うあっ!?」と声を漏らした。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
その雄は『あの二匹』とはまた別の個体だけれど、自分たちよりも『あの日の野良』に近いと感じた。
しっかりとした衣装を身にまとい、ロッコ達には無い目的意識を持って動いている。
二足羊の雄、その名をイツツキと呼ぶ。
イツツキは機敏な動きで身をひそめると、外の様子をうかがいながらロッコのほうをふりかえる。
「ゴメン、驚かせた? すぐ出て行くから静かにしててねっ!」
軽い口調で言ったが彼の心中には穏やかではない葛藤があった。
目のまえの幼い雌が声を上げるまえに殺してしまうか否か、人間の首をいくつも落としてきた刃をにぎる手に力が入る。
ロッコも察していた、外の喧騒の原因は彼であり人間たちに追われて身を隠しているのだと。
殺すべきか否か、叫ぶべきか否か――。
「クソっ」イツツキが吐き捨てる。
どちらかが動くよりもはやく、小屋の外に複数の人間があつまっている気配を感じた。
ロッコを黙らせたところで奴らがこの家畜小屋を素通りすることはないだろう。
イツツキは野生動物めいた身のこなしで天井へと駆け上がった。
梁に手足を掛けてはり付くと息を殺す、脱出の機をうかがうつもりだ。
そしてロッコのほうを一瞥、家畜の少女が人間に肩入れすることは疑うべくもない。
──なんでじっとしているんだ?
大声をださないことを不思議に思いながら、イツツキは窓からの脱出を思案する。
しかし家畜小屋の屋根にのりあげたら外から丸見えだ。
このまま入口の真上の死角に身をひそめつづけるか、それも中に入ってきた連中が入口を振り返ればおしまいだ。
力づくで囲いを突破しようにも、彼の腕前は兄と呼んで尊敬する人物より大分劣っていた。
絶対絶命。
そんな言葉が頭をよぎらせてなお、楽観的なイツツキは平常心をたもっている。
──十や二十ていどだ、いけるか?
そうやって闘争心をたかぶらせさえしていた。
人間の代表がひとり家畜小屋を覗き込む、ロッコの主人だ。
高級品である二足羊を興奮状態の男たちにさらすのを嫌ってみずから確認に訪れた。
イツツキに焦りが生じる。
小屋の主人に見つかるまえ、家畜に居場所を明かされるまえに不意打ちをするべきか。
即時の判断に迫られていた。
「不審者が来なかったか?」
主人がロッコに確認する、彼からは暗がりに彼女の姿しか見えていない。
家畜の少女はかならず自分の存在を主人に伝える、そういうふうに躾られている。
イツツキは覚悟を決める。
これくらいの窮地、兄たちならば自力で切り抜ける、ならば自分もそうできなければ。
真下にいる豚野郎がもう一歩うち側に入ったら、瞬時に殺して外に駆け出して突破口を切り開く。
すべてを相手にする必要はない、身のこなしには自信があり囲いを抜けさえすれば逃げきれる。
イツツキは殺していた息をふかく吸い込み、身を乗り出す。
ロッコが口をひらく。
「はい、来ました」
いざ。と、イツツキは天井にへばりつくために収めた直刀の柄に手をかける。
しかしロッコの返答は予期せぬものだった。
「──来て、すぐに外へ。裏手のほうへ走って、あとは知りません」
「!?」
飛び出しかけたイツツキが思い止まる、想定外の展開に額からは汗がにじむ。
家畜の少女が主人をたばかって自分を庇った。
それは有り得ないことだ、少なくともいままでは無かった。
イツツキは戸惑いながら飛び出し掛けていた体制をグッと堪える。
主人は疑うこと無く誘導に従い、外の衆を鼓舞すると連れ立ってこの場を離れて行った。
イツツキは連中が遠ざかるのを待って、屋根の梁から地面へと着地した。
「ふぅ……、おどろいた」
イツツキは率直な感想を漏らしてロッコに向き直った。
実際、ロッコが先んじて彼の仲間たちに出会っていなかったなら、この結果はなかっだろう。
本人にも理解できていない。
なぜそうしたのか、それは奇跡的な偶然だった。
それゆえに若いイツツキは彼女に興味を示した。
「あっ、肌と髪の色がジキ兄貴とおなじだ、めずらしいね」
くわえて偶然にも彼の尊敬する人物とロッコはおなじ種類だった。
「とにかく助かったよ、ありがとう」
見逃してくれた礼を伝えた、ロッコのそれは下手すれば自らの命を危険にさらす行為だった。
ロッコは首をひねる。
「それは、どういう意味ですか?」
「え、どれが何が?」
そして、感謝される事の意味を知らないと言う彼女の状況をイツツキも理解はできなかった。
「──ていうか、怪我してるじゃんか!」
放置しておけば命を脅かしかねない負傷、それが決め手だ。
礼だけを伝えて立ち去るつもりだった。
しかし彼女は言葉を解し、尊敬する人物と同種で、放置したら危うい傷を負っている。
「ンン――――ッ」
イツツキは思案し、そして決めた。
「よし!」
そのいきおいにロッコは「え?」と、戸惑う。
「来なよ、怪我の治療をしよう」
返事を待たず、イツツキはロッコを胸のまえに軽々と担ぎ上げた。
「どこへ、連れて行くのですか?」
見知らぬ少年にロッコは訊ねた。
「ん? 俺たちの家だよ。まあ、うるさく言う奴もいると思うけど、助けてもらった恩は返さないとね」
イツツキは答えると、ロッコを抱えて家畜小屋をあとにした。