例えば、それまでチヤホヤされていたサークルの紅一点が新しい女子の加入と同時に唯一無二の存在ではなくなった。
例えば、子供が産まれた後、それまでは無二のパートナーであったはずの嫁にとってのナンバー1が旦那ではなくなってしまった。
自分はどちらの経験もないとは思うのだけれど、きっとこんな感じに違いない。
当人たちに聞けば否定するとは思うけど、だって空中に矢印が見えるんだもん! 一向にこっちを向く気配のない矢印がっ!
喪失感だ。べつにチヤホヤされたいとかではないけど、いや、正直なところされたいけど。
ボクは床が抜けるような錯覚に襲われる。
「はわわわわ……」
なによりもその落差に驚愕した。積み重ねたものの脆さに対する絶望と、失うことへの恐怖にパニックを起こしていた。
「イリーナ、どうしたの?」
孤独に打ちひしがれるボクをティアンが気遣った。
そうだ、ティアンからの矢印がこっちを向いているのになにを恐れることがある! その矢印ひとつあれば他はどうでも良いじゃあないか!
「ええ、私の得意魔術はスケールが大きすぎてコロシアム規模の決闘では機能しにくいのは確かですが、いざ機能すれば世界のありかたを変えてしまいかねない革新的なものなのです」
余裕を取り戻したボクは会話に復帰する。
「ちょっと寒くない?」
「えっ、そうですか?」
アルフォンスが首を捻った。彼は室温のことだと思ったみたいだがそれは勘違い。
美人をまえにして露骨に舞い上がっている恥知らずの態度を責めたのだ。
しかし、テイアンはさすがの天然ボケである。
「お風呂に入る?」
そして、断る理由はない。
「うん、一緒に入る」
「では、私も御一緒します」
間髪入れずアルフォンスが便乗した。
すごいやつだっ!! アルフォンス!!
冗談なのか本気なのか、挙手した指先がピンと天へと伸びていて怖い。
「その場合、おまえは浴槽につかるのではなく沈むことになる。そして二度と浮き上がることはない。
かわいそうなアルフォンス。その後、彼の姿を見た者は誰もいなかったとさ、めでたしめでたし」
その湯は真っ赤に染まるであろう。
「なぜですかっ!! 勇者様だけズルイですっ!!」
「必死じゃん、こわいよっ!?」
信じがたいことにコイツは本気だ。本気で混浴したいと思っているのだ。
ボクはティアンがお風呂の準備をしているあいだに、アルフォンスを穏便に説得しなくてはいけなくなった。
「ジェロイ、キミにこれを託す」
試合用にとティアンから借りた、今日までオブジェクトと化していたレイピアだ。それをジェロイに貸し与えた。
「アルフォンスが不審な行動をおこしたら躊躇せずに殺すのだ、疾く殺すのだ」
「わかった」
頼もしすぎる即答。この子はこの子で心配な部分があるな。
「わかった。じゃ、ありませんよ。人の命をなんだと思っているのです?」
恐れ知らずのアルフォンスも思わず予防線を張るほどだ。
ジェロイは仕事人気質な感じがするので、やる時にはやりそうなすご味がある。
お姉ちゃんのために一人減らそうと思い立ったなら、きっちり一人始末してしまう子なのだ。
「さて、ボクたちがキャッキャウフフしているあいだ」
いや、実際にキャッキャウフフはしないけど。
「二人はサボらずウロマルド対策を練ること」
練った結果、なにも名案が出ていないというのが現状なのだが――。
「ちょっと待ってください勇者様……」
アルフォンスが眉間を押さえながら墓場から蘇る亡者のように手を伸ばしてくる。
「なに?」
と、聞きながらボクはその手をはたき落とした。
「許されませんよ、あんな美しい少女と入浴するなんて」
その意を瞬時に理解しボクは即答した。
「ボクの魂は男性かもしれないから?」
「キャーーーーーーーーッ!!!」
アルフォンスが謎の怪鳥音を発した。
「うるさいっ!!」
ボクはアルフォンスの顎をわしづかみにして黙らせた。
「やだぁぁぁぁ!! 確信犯じゃないですかぁぁぁぁ!!」
その瞳からは大粒の涙が零れ落ちている。なんだか触りたくなかったのでボクは慌てて手を放す。
「女同士なんだから問題ないだろ。つか、実際どうなの? ボクは男性だった?」
それが明確でなければ、アルフォンスが嫉妬するのは見当違いじゃあないか。女同士で風呂につかってくるのだ。
「私はお姿を拝見したことがないので確証はありませんが、勇者様の自覚の問題でしょう!」
その通り、アルフォンスにも断定はできないしボクは記憶喪失だ。そしてボクの正体のヒントである最強剣士という設定は、創作の話だった。
演劇なら沖田総司や源義経に女性をキャスティングすることだってある。つまりボクは直前まで男性役を演じていた女優で、召喚の影響で自分を男性と勘違いした可能性も否定できない。
舞台上の役者。それなら、アルフォンスがボクを最強剣士と勘違いして召喚した辻褄だって合うのだ。
「ボク、本当は女性だったかもしれない!」
「なんたる卑劣ッ!」
ボクが男だった可能性は少なくとも百パーセントではない。だからグレーゾーン! ボクが女の子とお風呂に入るのはギリギリセーフ! そうだよね!
「――羨ましぃぃ……。羨ましくて恨めしぃぃ……。世界にこんな不公平があるというのならば、私は神を呪います。呪詛の念で神を殺したぃぃ……ギギッ!」
怨念と呪詛の力で悪魔が生まれ落ちようとしている。マジに怖いので煽るのはこれくらいにしとこう……。
「じゃあ、ちょっくら乳首みてくるわ!」
「アアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
さよならアルフォンス、ボクは身をひるがえすと悪魔の悲鳴を背に受けながら浴室へと向かった。
立ち去った後、果たしてジェロイによる悪魔退治が始まったかどうかは定かではない。
けど実際、これ以上四人で机を囲んでいても打倒ウロマルドの名案が浮かぶ気がしない、煮詰まってきたときにこそ気分転換が大切だ。
机に向かっていてなにも出てこない時は、散歩、風呂、トイレ、そういうときにふとアイデアが浮かぶもんでしょう。
でも、エッチなことを考えていたら駄目だ。気が散るだけでなにも生まれないからね。
つまり、いまから風呂に入る今日はもうなにも生まれないってこと。
リラックスは力を発揮させてくれるけれど楽園は人を堕落させるのだ。
――明日、本気だす。
今日したことといえば、あれも通じない、これも通じないって無駄なアイデアを排除していったくらいだ。
でも、それ自体は無駄じゃあなかったと思う。
なにより、今日はぜランを倒して王様をやり込めた。これ以上の成果を望むのはぜいたくってもんよ。
怠ける訳にはいかないけれど焦る必要もない。フォメルス王はティアンの特別扱いを解除したと言ったけど、ティアンの順位は変わらずの七位だ。
ウロマルドの残留はコロシアムを盛り上げるとかと思えば以来、一桁台の変動はすっかり停滞してしまった。
がむしゃらに上を目指している下位の闘士と違い、上位の闘士らには報奨と自由がリアルにイメージできてしまう。つまり、慎重になってるって話しだ。
あとひとつ勝てばティアンを自由にしてあげられる。そう考えるボクと同じく皆もそれぞれに自分の夢のために負けられない。
ウロマルドの強さが上位闘士のやる気を奪っている。だからボクが試合を組むまでまだ猶予があると考えられるはずだ。
そういう意味でも王様は話題を提供し続けるボクに感謝をするべきなんだよね。
ボクより強い連中が尻込みして場を停滞させているなか絶対王者に挑戦するってんだから。
まさに、コロシアムの救世主ですよ。
本当は皆、ウロマルドに負けてほしい――。
選手たちにとっては目の上のタンコブだから、観客にとっては負けてくれた方がドラマチックだから。
絶好調の状態のウロマルドを心底尊敬して、憧れて、応援して、その上で負けてほしいと思っている。
最強のまま負けてほしい、経年で下り坂になってから倒されても釈然としない気持ちになるだけだ。
ピークにある王者を倒した者だけが真実の最強だ。
皆、大好きなウロマルドの敗北を目の当たりにして悲嘆にむせび泣いたり、新しい時代の幕開けに興奮したりしたいんだ。
ウロマルドが最強すぎて今日も何ごともなく勝ちました。そんな試合にはもう飽きている。
そろそろ倒し頃――。
ボクらのヒーロー、ウロマルド・ルガメンテが負けたショックで酒が飲みたいんだ。
面倒なのは、負けてほしいくせに皆がウロマルドを応援するだろうってこと。
観客ってのは勝手なもんだぜ。皆の声援を味方につけた絶対王者がどれだけ無敵か――。
「イリーナ、お風呂の準備ができたわ」
ティアンの呼びかけにボクはポポイと服を脱ぐ。
「いま行くーっ」
次の相手は人類最強――。
だけど今日は考えるだけ無駄だ、もうなにも思い付かない。だってエッチなことを考えているときはなにも思いつかないからね!