開始から三十秒、ボクたちのあいだに動きはない。
グラディウスとバックラー、基本装備での対決ならばとっくに試合終了のドラが鳴っていた頃だ。
盾でドンって押して、転んだところを剣でザクーッってされて三秒で殺されていたと思う。
一瞬を永遠に感じられるだなんてまるでポエムな表現だけど、どちらかといえば体育会系の感覚だ。
たったの三十秒で精神と肉体の両方がこんなにも疲弊するんだから。
ボクは集中力の限界を感じ始めていた。相手がなにをする分からないという恐怖、それが死に直結しているのだからなおさらだ。
シンドイのはお互いさま。じゃあ、なぜゼランが動き出さないのかって言うと、見慣れない武器を警戒しているのと戦槌が足を引っ張っているから。
ボクが始め戦槌を選択したのは単に人を刺すのが怖かったからで、もともと決闘に向いた武器ではない。
戦槌は対全身鎧用の武器だ。鉄で全身を覆った騎士に刃が通らない際に、鎧の上から衝撃で殺すための武器。
しかし、コロシアムは戦場ではなく『劇場』だ。闘いがただの殴り合いに終わらず多様な技術戦になるように重装備はしない。
グラディエーターの装備は兜こそ威圧感のある物もあるが、鎧は部分のみのほとんど裸同然だ。
それに対して打撃武器の利点は刺突や斬撃に比べて乏しい。
ボクが短剣に分類されるグラディウスを相手にリーチの優位を生かした戦槌も、細剣相手には振りの遅いただの棒だ。
予備動作の隙間に余裕で刺し殺せ――。
「――おわぁっ!?」
ゼランが急に前傾したので、ビックリしてレイピアを振ってしまった。
フェイントだ。ゆったりした動きからの急速な動作に引っ張られた。
悔しいくらいに緩急の作り方がうまい、おかげでリーチを計られたかも。
力比べで勝てない以上、相手のミスを誘ってつけ込んでいかなければ勝機はない。
そこは渡り合えっていく必要のあるところだけど、ゼランも細かいフェイントでボクの攻撃を誘ってくる。
情けないことにボクはそのいくつかに反応し、手を出してしまっている。
それでも命をつないでいられるのは、レイピアによる攻撃の速度と射程が彼の想定を上回っているからだ。
――バッシングの嵐の中、随分と冷静じゃないか。
それは称賛に値する。普通ならこの理不尽な状況に激昂し、重い武器を不用意に振り回してもいい場面だ。
世界中が敵を愛していて、自分を憎んでいる――。
そんな状況、ボクなら実力を発揮できないどころか泣いてしまうに違いない。
人に嫌われるのは悲しい、ゼランにはそういった感情はないのだろうか?
「痛ッ!?」
ゼランの攻撃が徐々にヒットし始めた。
打撃武器が四肢を捉えただけなので死にはしない。だとしても、痛みは動きを鈍らせる。
ゼランは攻め時を逃さない。強い一撃がボクの肩に直撃する。ボクはハンマーの激しい衝撃を受けて転倒した。
「――んんッ!」
即座に立ち上がり、相手の追撃を止めるために剣を構える。
――駄目だ、一方的になってきた……。
ボクの仕掛けは全部機能しているのに駆け引きで勝てない、拳銃でナイフに負けているような惨めさだ。
必至になって武器を持ち上げた。足が震えてもはや踏ん張りが利かなくなっている。
割れた額から血が滴り、それを見た観客が悲鳴を上げた。
傷自体は転がった時に自分のダガーで付いたものだけど、一方的になってきた状況も相まって観客を絶望させただろう。
「ハァ……ハァ……」
満身創痍、ボクは肩で息をする。
「おまえ、何やってんだ……?」
ゼランは腑に落ちないといった様子。
「頑張れ! イリーナ!」「負けないで! ゼランを倒して!」「ゼラン! 死ね! くたばれクソ野郎!」
さすがにゼランもこの雑音には苛立っている。それが積極的な攻めに出ていた。
惜しむらくは、その隙に乗じる腕前がボクにないこと。
ゼランはすでにレイピアの特性を把握している。
叩くことも斬ることも苦手なレイピアは、間合いの内側に入ってしまえばなにもできない。
武器の構造上、フェンシングみたいにしならせて背中を突くような器用なまねはできないし、ボク相手に懐に入るのはそう難しくない。
しかしゼランの侵入、それを妨害しているのがこの左手のダガーだ。
接触したら機能しなくなるのはゼランの戦槌も同じ、取っ組み合いになれば断然ナイフのほうが有利だ。
比べて彼の両手持ちの武器はお荷物になる。
ゼランが取っ組み合いを有利に行うためには、武器を捨てて接近し、ダガーを奪ってしまうのが理想的だ。
ゼランならばそれも可能だろう。
しかし、レイピアとダガー二つを相手に、一つしかない武器を捨てる決心はなかなか着くものじゃあない。
「あっ……!?」
ボクは唐突に脱力し地面に片膝を付いた。ダメージの蓄積で踏ん張りがきかず、立っていることができない。
観客席からは悲鳴、慟哭、絶叫。外から見たボクは、それほどまでに追い詰められているようだ。
「ボクは……ハァ、負けないっ!」
息も絶え絶えに雄たけびを上げた。
「もう止めてくれ!」「ギブアップして、イリーナ!」「ギブアップだ!」
観客の声に反して立ち上がる。
「ボクは、絶対に、負けないっ!! コイツを倒して、コロシアムの頂点を取りに行くんだっ!!」
構えた剣先は震えて目標が定まらない。
ゼランが叫ぶ。
「何やってんだおまえッ!! やめろッ!! いい加減にしろォォォッ!!」
世界から孤立した彼の声は誰にも届かない。その意図を理解できるのはステージ上のボクだけ。
追い込まれているのはボクじゃなくてゼランであることを、ボクと彼しか気づいていない。
ボクはゼランを挑発する。
「ひひっ、そろそろ本気だしてくださいよ、お猿様?」
ゼランが苛立っているのは、その手応えのなさに対してだ。
鉄の上から人体を粉砕するための武器である戦槌、その豪快な攻撃をボクは何度も叩き込まれている。
しかし、実のところ観客から見て取れるほどのダメージをボクは受けていない。
相手の武器が確定しているのを想定し、ボクの防具は鉄鎧ではなく、衝撃を吸収することに長けた厚手の革鎧を選択した。
演出として胴体への装着はしていないけれど、腕や脛に装着したガードを緩衝材にして派手に転ぶことでダメージを逃がすことができる。
突けば必殺の追撃が可能な刃物類と違い、ハンマー類は予備動作が必要になる。転がって起きるだけの猶予は十分に稼げる。
つまりボクのダメージは微量であり、振る舞いとのギャップにゼランは怒り狂っているのだ。
ここは舞台――。
ダメージを受けた演技に説得力を持たせるための転倒、ダガーで額を切って血を流したのも演出、肩で息をするのも全部が芝居。
「なんのために、そんなことをしやがるんだ?」
過剰で不可解な行動は合理主義であるゼランの動揺を誘った。
「観客をハラハラさせて、見せ場を作るためさ」
結果が全てであるゼランにとって、そんな演出は心底どうでもいいに違いない。
「馬鹿にしやがって!!」
とうとう平静を保てずに激昂した。
ボクはクスリと笑う。おかしかったからじゃない、これまで常時上手だったゼランに対していまなら煽りが効くからだ。
「手加減してくれてありがとう。そっちは律義に棒切れ持って参上したけど、こっちは初めっから約束なんて守る気ないから!」
「……こ、の、この、こ」
ゼランは怒りに顔面をブルブルと震わせた。
いつでも仕留められたのに、生かしたまま持ち帰りたい欲求に負けてトドメをさせずにいる。
真剣勝負の場であまりに失礼じゃあないですかね?
なんて、自分の性格の悪さに正直、ドン引きですよ。
ボクは最後の駄目押しをする。
「いい加減に目ぇ覚ませよ! この、スケベ猿ッ!」
それによって、ゼランの怒りが頂点に達する。
「望み通り、ぶち殺してやるよ!!」
――さて、クライマックスだ。
ボクはさっきまでと違うスタンスで構える。
両足を肩幅に開き、つま先の向きを九十度に、上半身の軸は真っすぐにして腰を落とす。
切っ先は相手の鼻先の高さを目掛け、肘から先は地面と並行に、肩はリラックスだ。
ゼランが怒りのままに戦槌を地面に投げ捨てた。間合いを詰めて肉弾戦にもつれ込むつもりだ。
戦槌が着地すると同時、ボクはダガーを持つ左腕で顔を庇う。
「――痛っ!!」
ナイフが突き刺さり鈍い痛みが左手に走った。やっぱり、サブウエポンを潜ませてやがった。
予想はできていた。こちらが約束を守る気はないと宣言したことで、ゼランがそれを使わない理由がなくなっただけだ。
結局、双方が約束を破っていただけの話。
5メートルの距離から放たれたナイフは顔を庇った左腕に突き刺さり、ボクはダガーを手放してしまった。
それを絶好のチャンスと判断し、ゼランはボクからレイピアを奪うべく間合いを詰める。
4メートル。ダガーを落とすと同時、全身を前に倒すように利き足を蹴りだす、軸足で体を前に押し込み、腰の位置を変えずに腕を前へと伸ばした。
3メートル。通常の剣では届くはずのない距離で、レイピアの切っ先がゼランの喉に触れていた――。
平民である彼は貴族の決闘を想定して作られたレイピアへのなじみがなく、また現代競技を規範とした動きを想定できない。
これが初撃だったならば警戒されて通用しなかったかもしれない、戦槌を構えていればそれで防がれていたかもしれない。
だけど、ゼランは台本の上を歩いた。
この一撃に到るまで、レイピアをグラディウス同様に扱いリーチを詐称した。ダガーを落としたのは失敗ではなく付け入る隙を与えるためだ。
全ては脚本通り、ボクの劇作通りだ。
切っ先は突進してきた男の喉に吸い込まれるようにして貫通して行く。手応えに感想を抱く間もない、剣は太い首にスッと飲み込まれていった。
ゼランは細い呻き声を上げ、眼球を見開いている。届くことを知らなかった攻撃にさぞや面食らったことだろう。
そして今日、自分が命を落とすこともしらなかったに違いない。
「ゼラン、あの世でクロムに謝って来いよ――」
もはやボクの声がとどくかも分からないし、死後に二人が同じ場所に行き着くとは到底思えないけど、そう言わずにはいられなかった。
ゼランは言い返してこない、あの減らず口が息漏れの音だけを耳障りに鳴らしている。
間もなく死ぬのだろう、ボクが殺したんだ。
「――!?」
安堵した刹那、ゼランの武骨な指がボクの手首に食い込んだ。
恐怖に身がすくむ。隠し持ったナイフで脇腹を抉られる、そんな錯覚に背筋が凍る。
慌ててその手を振り払う、とたんにゼランは地面に崩れ落ちた。
一言も発することなく、ピクリとも動くことなく、細剣の刃を首に貫通させて稀代の殺人鬼は絶命していた。