* * *
初めての殺し合い直前――。
くしゅん! ぶべっぇくしゅ! ……がはっ、げぼぁっ!?
女子のクシャミ音でボクは目覚めた――。否、それと同時に自らもクシャミをしたため反動で目を覚ましたみたいだ。
どういう訳か室内はやけに埃っぽく、複数人が同時に咳き込んだとしてもなにも不思議ではない。
疑問なのは、なぜそんな埃まみれの空間で眠っていたのか。そしてクシャミをした女子が何者なのかである。
朦朧とする意識で辛うじてまぶたをこじ開け、一ミリ程度の隙間から景色を眺める。
――うわっ、やたら殺風景だな……。
石壁に囲われた室内でありながら、床は土がむき出しの地面だ。
ボンヤリとした視界には単一色の世界しか映らず、ほとんど皆無と呼べるほどに飾り気がない。
――いったい、ここはどこなんだ?
ボクはなぜ、土の上に布を敷いただけの硬い床に寝そべっているのだろうか。
こんな寝心地で数十分も放置されては床擦れを起こすし、関節も悲鳴を上げてしまう。
クシャミから思考を巡らすこと、十数秒。
「やった、成功した! そうでしょう?!」
起き抜けの頭にはいささか、いや、明らかに刺激過多なトーンで男が呼びかけてきた。
「――ようこそおいでくださいました、異世界の勇者様っ!!」
「チッ」と、あまりの不愉快さについ舌打ちが出てしまった。というのも、起床直後の働かない頭にこの『むちゃ振り』は到底許されない。
つまりは『目を覚ましたらそこは異世界、あなたの第一声は?』という大喜利だろう。
まったく気乗りがしないのだが、かといって無視することで対応力やセンスを疑われるのは不本意である。
――そうだな、赤ん坊のまねでもすれば適当か。
ようこそ勇者様! バブバブゥ……。 って、おいっ! 世界救えねえだろコレ、どんだけ長期計画だよっ! でオチると――。
「お目覚めくださいませ、勇者様!!」
意気揚々と前フリをする出題者に向かって、ボクは答えた。
「返事ガ無イ、タダノ屍ノヨウダ……」
沈黙――。
スベった!? 赤ん坊は張り切りすぎかと、直前でネタを変えたのが裏目に出たか!!
「……勇者、様?」
「…………」
気まずさのあまりボクは死んだ振りを継続する。放っておいてという意思表示だ。
しかし、出題者はボクの二の腕を掴むと強い力で強引に上体を揺さぶった。
「勇者様っ!! お加減はいかがですか!! 勇者様っ!!」
――ざっけんなっ!! 正気かっ!? いま解答がスベったばかりだぞっ!!
ボクは耐えかねて彼を制止する。
「待て待て、その設定で展開するのはキツイ、次のお題で……」
「勇者様! 事態は急を要するのですよ!」
「……ん? おお?」
いまだ焦点の定まらぬ目で、ボクは彼を見据える。
眼前には見知らぬ外国人の顔があった。膝を付き合わせて座っているので定かではないが、かなりの長身に見える。肩を掴む手のサイズと握力にも迫力がある。同時にそれらは、明らかな違和感。
目の前の人物。この空間。置かれている状況。その全て、何もかもに覚えがない――。
「…………あんた誰?」
ボクが尋ねると彼は揚々と答えた。
「はい、申し遅れました! 私はアルフォンス・アカデミック・アーサー・フォン・イヌと申します!」
名前を覚えることをボクは即座に諦めた。
「あの、外国人ですか……?」
それにしてはあまりにも日本語が流暢だ。いや、単に達者なだけかも知らんが。
「ここは私の母国ですので、正確にはあなた様こそが異世界からの来訪者ということになります」
彼は頑なにその設定を続けるつもりらしい。見回せば、自分の周囲にはご丁寧に魔法陣の様な物が描かれており、アルフォンスと名乗った男の衣装も凝った物だ。
まさかこれは――。
「……大喜利じゃなくてコント?」
「なんの話しです?」
だとすれば、彼が『勇者、勇者』と頑なに設定を貫こうとする理由も理解ができる。
不可解なのは、四方を石で囲まれた小さな格子窓が設置されているだけのこの空間だ。
ボクはカメラを探した。ギャラリーの姿はなく、この小芝居を誰に向かって発信しているのかが謎だった。
――そういえば、あのクシャミ。
ふと思い出した。ボクは確かに女性の声を聞いたはずだ。なのに、ここにはボクと彼の二人しかいない。
「あのさ、あんたの他に女の子の声が……」
質問中に覚えた違和感。喉の調子を確認しようと咳込む動作の延長で喉元に手をやった。
「――おっ?」
何やら前腕の内側が弾力のある障害物に押し上げられている。
――ちょっと待て。
胸部と前腕の間に挟まった弾力のある物体の正体についてボクは考える。アレであることはすぐに理解できたが、それ以上の問題に対して閉口する。
――え、太った?
それにしては腕が異常なまでに細い。
「………………」
俯いたまま黙り込んでいるボクに向かって、アルフォンスが助け船を出す。
「お困りですか?」
「うん、おっぱいが付いてる……」
われながら馬鹿みたいな返答だ。
――駄目だ駄目だ!! もの凄く混乱してきた!!
確認すべきは、この男の正体や置かれている状況なんかよりもむしろ『ボクの素性』その物だった。
視界に入るものばかりを追っていたが、気が付いてみればボクは自分についてなにひとつ知らないし、名前も覚えていなければ、性別にすら確信が持てずにいる。
「女子なんだから、おっぱいはあった方がなにかと有利でしょう」
――は? なに言ってんだコイツ。
「いや、そうじゃなくてさっ! ボクが女の子?」
目覚めた直後には自分が何者かだなんて疑問にも思わなかった。いざ確認するまでは男と認識していた節だってある。
だのに、いざ記憶を手繰ろうとすれば潮が引くように遠ざかって消えてしまい、手掛かり一つ掴めやしない。
――ボクは誰だ?
「お察しします、取り乱すのも無理はありません。どうでしょう。まず、おっぱいを揉んでみては、おっぱいを揉めば気持ちが落ち着くかもしれませんよ?」
「……う、うん!」
なんてアホな提案だろう。しかし、それに異を唱えないくらいにはボクもパニクっていて、促されるままに自らの胸部を揉み始めた。
いったい自分は何者で、これはどういう状況なんだ――。
「……ハァ」
眠りに就くまで、なにをしていたんだっけ?
「…………フゥ」
――家族の顔は? いや、自分の顔すら思い出せない。
「どうです、すこしは落ち着きましたか?」
アルフォンスが尋ねた。しかし、ボクが状況を整理できることはなかった。
「駄目だ! ものっすごいドキドキする!」
おっぱいに対する興奮が尋常じゃない! その時点で自分が女性だなんてとうてい思えない!
「――畜生ッ! 感動的に柔らかいよッ!」
けれどそのおかげか、一発で目が覚めたし頭も回り始めた。同時に『これは夢だ、もう一度寝よう!』的な結論に逃避できなくなってしまう。
錯乱していても話は先へと進まない。ならばすることは一つ。ボクはかしこまってアルフォンスへと向き直る。
「どうか、状況を説明して下さい!」
土下座でごさる!
「ええ、無論ですとも」
真摯に頼み込むと、アルフォンスは快く了承してくれた。
「――前提として、ここはあなたのいた世界とは異なる別の世界であることをご理解ください」
「はい!」
少なくとも、この環境が一過性のネタのために準備できるようなセットでないことは確かだ。
――ボク、マジ異世界に召喚されたのか?!
「あ、足は崩していただいて構いませんよ」
「はい! ありがとうございます!」
記憶喪失を自覚すると途端に心細い。彼の物腰が柔らかく、善人そうなのがせめてもの救いだ。
思えば親切な彼に対して、しかも初対面の相手にボクの態度は横柄だったと反省する。
アルフォンスさんのなさる説明にボクは黙って耳を傾けた。
「現在は大魔術師であるこの私が、一族に代々伝わる秘術を用いてあなたをこの世界へと召喚した状態です」
――なんだ、おまえのせいか。
へりくだる理由はその一文で霧散した。なにより自分で『大魔術師』とか言うセンスがダサイと思った。
「正直、迷惑です!」
「まあそう言わずに、大天才魔術師である私だからこそ成せた、これは奇跡の所業なのですよ?」
でも、その魔法とやらが失敗したから記憶が消し飛んだんじゃないの天才魔術師。と、ボクは思った。
「こういうの、ボクじゃなくて他に希望者がいたんじゃないの?」
「いいえ、あなた様が適任でした」
「ボクが、本当に……?」
言われても記憶がないのでピンとこないけど、もしかしたらボクは何かしらの専門的な職業で、その手腕を見込まれたからこそこうして呼び出されたのか。
何にしても根拠のある人選だというなら大分気が楽だ。『この国を支配する悪の魔王から囚われのお姫様を救い出せ!!』
みたいなミッションだったら困惑するしかないけど、得意分野で活躍して欲しいということならば気負う必要はないだろう。
「それと性別の齟齬に混乱しているようですが、それは気にしないでください。その肉体は『魂の依代』として一時的に拝借したもので、あなた自身ではありません」
「えっ、あ、そうなんだ!?」
つまり、この世界の人間に別世界のボクの魂を憑依させているという理屈らしい。なるほど、身に覚えのないおっぱいな訳だ。そりゃあ焦る。
「――要はイタコだな? ボクが知ってる異世界召喚物とはちょっと違うけど」
知ってるもなにも、詳しくないジャンルだ。
「サモナーというよりはネクロマンサーの分野ですね」
「サモ……ネクロ、何だって?」
疎いジャンルだけに専門家の言っている事がいまいち理解できていないが、まあいい。回りくどい話はこれくらいにして、本題に入ろう。
「――で、ミッションのクリア条件はなんなの?」
それによって自分の特技、または職業が推測できるだろう。そこから記憶の回復が見込めるかもしれない。
「それはですね――」
「剣闘士199番、217番!! 戦闘準備をしてゲート前に集合しろ!!」
アルフォンスの回答を別方向からの怒声が遮った。威圧感満載の暴力的な音色に心臓が跳ね上がった。
「……け、剣闘士?」
ボク、知ってるよ。それって古代ローマの『コロッセオ』とかでやったガチで殺し合う競技の選手だよね?
アルフォンスはさも当然というよう答える。
「私達のことです。私が199番、勇者様が217番です」
「ちょお!? おいっ、待てっ!!」
抗議しようとしたけれど、係員らしき屈強な男のけんまくは尋常ではない。速やかに指示に従わなければ、ただちに殺すぞという迫力だ。
「参りましょう、勇者様!」
「えっ、殺し合いに!?」
「ええ、殺し合いに!」
――おまえ、なんて清々しい笑顔だよ!
殺し合いを始めますって、現世でのボクの専門が殺しってこと? そんな馬鹿な!?
事態を把握するほどに自分の正体が分からなくなっていく。
それ以上に暴力怖いよ、痛いのやだよ!!
「待って!! 心の準備が!!」
怖気づくボクをアルフォンスが無情にも急かす。そして告げる。
「ミッションのクリア条件は、殺戮のコロシアムで頂点を勝ち取ることです!」