(1)墓の図面のパピルス
第5話で話に出たハトシェプスト女王葬祭殿の設計図は見つかってはいませんが、我らがトトメス3世(在位:紀元前1486/1479~1425年)の時代を下ること、300年余り後の第19王朝ラムセス4世の墓の平面図のパピルスが残されています。
このパピルスは、ルクソール西岸のデル・エル=メディーナ(Deir el-Medina)で発見され((2)のリンクの地図参照)、現在はイタリア・トリノのエジプト博物館に展示されています。
ラムセス4世の墓の平面図を描いたパピルス(recto=表側):
https://collezioni.museoegizio.it/en-GB/material/Cat_1885
この図は実際のラムセス4世の王家の谷第2号墓(KV2)と比較すると、ほぼ28分の1の縮尺で各部屋の寸法も記されていますが、詳細に見ると各部屋の幅と奥行の比率が間違っていたり、側室や
(2)ハトシェプスト女王葬祭殿
ハトシェプスト女王葬祭殿は、治世7年頃からデル・エル=バハリの崖下に建てられました(下記のリンクの地図参照)。いつまで造営が続いたのかは諸説があり、治世15/16年頃、または治世20年頃までと言われています。
テーベ(ルクソール西岸)の地図:
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Karte_grabst%C3%A4tten_theben_west.png
ハトシェプス女王葬祭殿は、第11王朝のメンチュヘテプ2世葬祭殿の隣に建てられており、似た構造を取っています(リンク参照)。ハトシェプストが自らの葬祭殿をメンチュヘテプ2世と同じ建造場所と似た構造にしたのは、もしかしたらエジプトを再統一して中王国時代の祖となった偉大なファラオにあやかりたかったのかもしれません。
デル・エル=バハリの3葬祭殿の位置関係(左:メンチュヘテプ2世、中:トトメス3世、右:ハトシェプスト):
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Deir_el_Bahari-map.png
南方から見下ろしたハトシェプスト女王葬祭殿(右)とメンチュヘテプ2世葬祭殿(左):
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Templo_funerario_de_Hatshepsut,_Luxor,_Egipto,_2022-04-03,_DD_13.jpg
ハトシェプス女王葬祭殿とメンチュヘテプ2世葬祭殿の真ん中にはトトメス3世の葬祭殿が後に建てられましたが、それは彼の治世の最後の10年間だったので、ハトシェプストの生前にはありませんでした。この葬祭殿は彼にとって2つ目で、最初の葬祭殿はメンチュヘテプ2世葬祭殿の参道が始まる場所から400メートル程南西およびラメセウム(ラムセス2世葬祭殿)から北東に300メートル程の場所――今日のクルナ(Qurna)――に建てられました(下記のリンクの地図参照)。
テーベ(ルクソール西岸)の地図:
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Theban_Necropolis_Map.jpeg
ハトシェプス女王葬祭殿の背後の崖を挟んだ向こう側には、新王国時代の歴代ファラオの墓のある王家の谷のあるワジ(涸れ川)があります。この崖の上をつたい、王家の谷とデル・エル=バハリを行き来できるのですが、古代の人々もそうしていたことでしょう。でも今(少なくとも10年以上前から)は禁止されています。
第2テラス南柱廊にはプント遠征の様子を描写したレリーフ(南壁のレリーフ:下記のリンク)があります。第2テラス北柱廊にはハトシェプストの誕生神話と即位場面のレリーフが施されており、彼女はアメン・ラー神の子として描写され、ファラオとしての正当性を強調しています。
ハトシェプスト女王葬祭殿第2テラス南柱廊の南壁に描写されたプント遠征の様子(部分):
https://kakuyomu.jp/users/Tazu_Apple/news/16818093089097199238
第3テラスの奥にあるアメン神の至聖所(上記のデル・エル=バハリの3葬祭殿の位置関係のリンク参照)は岩盤に掘り込まれて造られています。手前の方の部屋がアメン神の聖なる舟を納める聖堂(下記リンク参照)で、その奥が至聖所です。そのまた奥にある至聖所はずっと後の時代のプトレマイオス朝時代になって造られたものです。
ハトシェプスト女王葬祭殿のアメン神の聖舟祠堂(写真正面に西壁、その奥に至聖所を臨む):
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Totentempel_Hatschepsut_Heiligtum_Amun-Re_Barkenhalle_05.jpg
ハトシェプスト女王葬祭殿のアメン神の聖舟祠堂の西壁上部右側には、アメン神像の前で跪いて供物を捧げるトトメス3世が描写されています。反対側にはハトシェプストが同様に描写されていたはずでしたが、破壊されていて見えず、彼女のカルトゥーシュも空のままでです。
このアメン神の聖舟祠堂は、(美しき)谷の祭でアメン神の聖舟が東岸のルクソール神殿からカルナック神殿を経由して西岸の葬祭神殿に運ばれる時の目的地の1つとなりました。各葬祭殿に寄った聖舟の行列は、再びカルナック神殿を経由してルクソール神殿へ帰って行きました。
(3)センエンムウトの墓(TT71とTT353)
センエンムウトはテーベに2基の墓、第71号墓(TT71)と第353号墓(TT353)を造りました。古い説では、TT71を最初の墓、TT353を2番目の墓と呼んでいましたが、今日では2基ともほぼ同時に造営されたとみなされています。建設の年代ははっきりしていませんが、ハトシェプストとトトメス3世共同治世7年の後半頃から少なくとも治世11年頃までは工事が続けられていたようです。
TT71は、シェイク・アブド・エル=クルナの丘の上にあります。岩盤に掘り込まれた横に長い前室とその奥にある縦に長い奥室から成る逆T字形の墓(T字形墓)です(図15/下記リンク参照)。前室の前にある岩盤表面のファサード(墓の正面の壁)の幅は約30メートル、前室も約26メートルもの幅があって8本の柱で支えられており、第18王朝時代のテーベで最も大きい私人墓の1つです。
センエンムウトのテーベ第71号墓(TT71)の平面図:
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TT71.jpg
また、ファサードの上の岩盤には、未完成の方形彫像(用語リストと閑話1を参照)が作り付けられており、閑話1で既に紹介したベルリン・エジプト博物館所蔵の方形彫像のように、おそらくネフェルウラーを抱いて座るセンエンムウトの姿を表しています(下記のリンク参照)。
ネフェルウラーを抱えて座るセネンムウトの方形彫像(ÄM 2296、ベルリン・エジプト博物館)
https://smb.museum-digital.de/object/566
TT71の壁面装飾はほとんど破壊されていますが、僅かに残った壁画としては、前室西壁の北端(平面図のKeftiuと書かれている部分)にクレタからの朝貢場面や、天井の装飾パターン(図16/下記リンク参照)、天井直下の壁のハトホル女神フリーズ、その下に描かれている走る兵士達などが挙げられます。
センエンムウトのテーベ第71号墓(TT71)の天井画断片:
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Senenmut-CeilingPaintingsFromTombChapel03_MetropolitanMuseum.png
TT71には地下の玄室がありませんが、墓内部からは約1230個もの破片に砕かれた赤茶色の珪岩製の棺が見つかりました。TT71は故人を弔う供養用の墓で、完全に地下に掘られたTT383が実際の埋葬用の墓だったと思われます。なぜこんなに棺が細かく破壊されていたのかは謎ですが、センエンムウトが治世16年頃に記録に登場しなくなったのは、亡くなったからではなく、ハトシェプストの寵愛を失って用意されていた棺が破壊され、墓のセンエンムウトの名前も削られたからではないかとも言われています。
復元されたセンエンムウトの棺(31.3.95, 65.274, 1971.206、メトロポリタン美術館):
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Senenmut-BrownQuartziteSarcophagus_MetropolitanMuseum.png
センエンムウトのもう1基の墓テーベ第353号墓(TT353)は、ハトシェプス女王葬祭殿のすぐそばに位置しており(下記リンク参照)、当時のハトシェプストの寵愛がうかがわれます。
デル・エル=バハリの3葬祭殿の位置関係(左:メンチュヘテプ2世、中:トトメス3世、右:ハトシェプスト):
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Deir_el_Bahari-map.png
この墓は、ハトシェプス女王葬祭殿の参道の北北東、センエンムウトの石切り場と呼ばれている石切り場の西端に入口を開けています(下記リンク参照)。
センエンムウトのテーベ第353号墓(TT353)の入口(左)、その右側はネスパアカイシュウティのテーベ第312号墓(TT312):
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Felsengr%C3%A4ber_Deir_el-Bahari_08.jpg
古代エジプトの墓は、通常、地上部分と地下部分に分かれていますが、TT353は地下部分のみで成り立っています。参道北側に位置する入口から、全長約90メートルの細長い通路が地下に延びて3つの墓室を繋げ、TT353はハトシェプス女王葬祭殿の第1テラスの地下にまで達しています。
TT353の平面図と断面図:
https://www.maat-ka-ra.de/english/personen/senenmut/sen_t353.htm
入口から地下通路に10メートル程入って行くと、唯一装飾のある最初の部屋A室に突き当たります。その部屋の入口のすぐ手前の奥に向かって右側の壁にセンエンムウトの横顔と碑文「アメン神殿長官、センエンムウト」が描かれています(下記のリンク先の最初の写真)。
テーベ第353号墓(TT353)に描かれたセンエンムウトの横顔(最初の写真):
Ken Griffith, Egypt Centre Collection Blog, “Senenmut's Astronomical Ceiling” (2024/4/23):
https://egyptcentrecollectionblog.blogspot.com/2024/04/senenmut.html
TT353のA室の天井には、古代エジプト最古の星座図が描かれています(下記リンク参照)。真ん中の碑文にはハトシェプストの即位名マアトカーラー𓍹𓇳𓁦𓂓𓍺(ラー神の
テーベ第353号墓(TT353)の天井画の複写(48.105.52、ニューヨーク・メトロポリタン美術館):
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/544566
(4)赤い祠堂
赤い祠堂(下記の1番目のリンク参照)は、オペト祭や(美しき)谷の祭などの行列で運ばれるアメン神の聖なる舟(下記の1番目のリンク参照)を納める祠堂です。黒っぽい閃緑岩の入口や土台を除き、赤っぽい珪岩で出来ているので、この名があります。
カルナック神殿敷地内の野外博物館で1997年に再建された赤い祠堂(アメン神の聖舟祠堂):
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Karnak_Rote_Kapelle_05.JPG
赤い祠堂に描写されたアメン神の聖舟:
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chapelle-rouge-barke.jpg
赤い祠堂は、ハトシェプストによって治世17年頃から建造され始めましたが、生前に完成せず、トトメス3世が完成させました。しかしながら、治世の最後の方になって取り壊しています。
元々はカルナックのアメン・ラー神の至聖所に設置されていたと思われますが、1897年から1995年までにかけてカルナック神殿の第3塔門の修復の際に赤い祠堂の石材が第3塔門の充填材として使われているのが見つかりました。1997年に復元され、今日、カルナック神殿敷地内の野外博物館に建っています。