午前七時。いつもよりも一時間遅れで、ディングレイは目が覚めた。
気のせいかもしれないが首が痛く、おまけに毛布も少しばかり重い。
「うおっ」
毛布を引き上げようと視線を落とした彼は、思わず驚愕の声を零した。
毛布ではなく、そこにいたのはケーリィンだった。ディングレイのガウンを羽織った彼女が、彼の胸の上でうつ伏せになり、スースーと寝息を立てている。
「そうか……あのまま寝ちまったのか」
ディングレイは昨晩の出来事を思い出し、思わず苦笑をこぼす。
泣き出した彼女にキスをして、抱きしめて目いっぱい甘やかした。そのまま彼女が眠りに落ちたので、起こすべきかと思案している内に、自分も寝入ってしまったようだ。
どうやらお互い、疲れていたらしい。
ソファの前にあるローテーブルには、冷めたミルクティー入りマグカップが昨夜のまま置かれている。
これは相当な茶渋が付いていそうだ。食器洗い担当であるディングレイは、この後のことを考えてしばし仏頂面となる。
また首が痛いのは、ソファのひじ掛けに無理やり頭を載せていたためのようだ。
しばしの躊躇の末に、ディングレイはケーリィンの寝顔を盗み見る。
ここで見ないのは、何とももったいない気がしたのだ。これがラッキースケベであろうか。
間近にある彼女の顔は、平素よりも一層あどけなく見えた。
大きな瞳も閉じられているため、長い金色のまつ毛が際立っている。小さな鼻や、ぽってりとした唇も可愛らしい。
全体的に小作りな顔だな、と改めて考えた。
「んぅっ……」
どこか艶っぽい声と共に、ケーリィンが華奢な肩を揺らした。途端、蜜に似た彼女の香りがディングレイの鼻先をくすぐる。
暖炉もすっかり消えているため、寒さに震えたらしい。ディングレイはそれに気づき、慌ててガウンで首元まで覆ってやった。
だが、その善意がかえって眠りを妨げてしまったようで。
ぼんやりと、彼女の蜂蜜色の瞳が開かれる。そして
「ひぇ?」
周囲を見渡し、気の抜けた疑問符を呟いた。次いで、自分が下敷きにしているディングレイに気付き、
「きゃあっ! ごめんなさい!」
一気に意識が覚醒し、慌てて跳ね起きる。
その様がおかしくて、ディングレイはつい噴き出した。
「いや、別に構わねぇよ。大して重くもなかったしな」
途中まで、「いつもよりちょっとばかり重い毛布」と思い込んでいたくらいだ。
「いえ、でも、こんな……恥ずかしいです……」
消え入りそうな声と真っ赤な顔が、なんともいじらしい。上半身を起こしたディングレイは、当然のように彼女を膝へ乗せる。
「リィン、寒くなかったか?」
ディングレイが彼女の顔を覗き込んで尋ねると、ぶんぶんと素早く首が振られた。
「すっかり寝付いちゃって……ごめんなさい……」
「いいって。熟睡できたなら何よりだな」
あっけらかんと彼が返したところ、何故か恨めし気な視線が向けられた。
「どうして」
「ん?」
「どうして、レイさんは平気なの」
ケーリィンは真っ赤な顔で、目も潤んでいる。
実のところディングレイも赤面しているのだが、北向きの談話室は薄暗く、また褐色の肌のお陰でごまかされていた。
「平気なわけねぇだろ」
だから彼は苦笑して、ケーリィンの手を取る。それを、自身の胸元に当てた。
素早く脈打つ鼓動が、彼女の手のひらにも伝わる。
「ドキドキ、してるの?」
驚いた様子で上目に伺う彼女と、額を重ねる。
「するに決まってんだろ」
ディングレイが照れくささでぶっきらぼうに答えると、へにゃり、と緩んだ笑みが返って来た。彼の大好きな笑顔だ。
つられてディングレイも、口角を持ち上げた。
「レイさん、あのね」
「ん? どうした?」
「恥ずかしかったけど、嫌じゃなかった……です」
「そっか」
ささやき声で言葉を交わしながら、二人は互いに目を伏せて唇を近づける。
――しかしそんな砂糖菓子のような時間をぶち壊しにする騒音が、外から聞こえて来ていた。
「大変じゃ! 部屋に二人がいないんじゃよ!」
「おっ、落ち着いてください、ロールドさん!」
朝食を作るため、本邸にやって来たらしい。ロールドの悲痛な声と、それを宥めるインジュの声がする。
「やべぇ」
ディングレイがぼやくと同時に、談話室の扉が開け放たれた。
果たしてロールドたちが見たものは、寝乱れた夜着姿で抱き合う、どう見ても事後な舞姫と護剣士であった。
途端、ロールドが下世話な笑みを浮かべる。
「あらまぁ……昨夜はお楽しみじゃったようで。ワシもお引越しした甲斐があったよ」
彼のニヤニヤ顔とその言葉に、ケーリィンの顔が真っ赤に染まった。
「違う! キスしかしてねぇぞ!」
同じく赤面のままディングレイががなると、ロールドはしょっぱい表情に変わった。
「なんじゃい、つまらん。それだけ短気で、よく我慢出来るのう」
「なるほど。細君は別腹というわけですね」
傍らのインジュは何故か神妙な顔で頷きつつ、眼鏡の位置を正している。その後ろから、ひょっこりとキリが顔を出した。そして父を見上げる。
「パパ、さいくんって?」
「奥さんのことだよ」
「え! ケーリィンちゃん、ディングレイの奥さんなの?」
どうやらキリにとっては、初耳であったらしい。ディングレイとケーリィンは顔を見合わせつつ、頷く。
「まあ、間もなく奥さんになってもらう予定だな」
彼の回答に、キリは丸い頬をぷっくり膨らませた。
「やだぁ! ケーリィンちゃんはあたしのお姉ちゃんだもん! ディングレイにあげないから!」
そして叫ばれたのは、予想外の言葉であった。
ケーリィンは目を瞬き、キリに尋ねた。
「え? だってレイさんを恋人にするって、昨日言ってましたよね?」
きょとん顔の舞姫へ、不貞腐れたキリは持論をぶつける。
「だってカレシは、いつか捨てるものでしょ。マーちゃんが言ってたもん。でもお姉ちゃんは、ずっといっしょなんだから!」
マーちゃんとは誰なのか。友達だろうか。いや、それよりも。
なんという暴論であろうか。これにはインジュも、理知的な目をひん剥く。
「キリ! 男をとっかえひっかえなんて、パパは許さないぞ!」
「とっかえひっかえじゃないよ。ちぎっては投げ、ちぎっては投げだよ」
「同じだよ、キリ! 同じなんだよ!」
平行線の、父娘の攻防がその後も続く。
ディングレイは苦笑して、インジュの苦悩を眺めていた。
「口も減らねぇわ、図太いわ、あいつは将来大物になりそうだな」
そしてニヤリと悪い笑みを浮かべ、ケーリィンへそっと耳打ちをする。
「俺が嫉妬する番だったみたいだな?」
この言葉に、赤面に戻ったケーリィンがうつむいた。
だがその口元は、ほんのわずかだが緩んでいた。
彼女に関しては
空色の目を細めて心底嬉しそうに笑い、彼女の目尻に口づけを落とした。
「ひゃっ」
愛らしい声が、ケーリィンから上がる。しかし彼女も、照れくさそうにはにかみ返した。
そして舞姫の妹を自称するキリも、彼の「横取り」を見逃すはずもなく。
「あー! ディングレイばっかりずるい!」
「こら、キリ! 邪魔しちゃいけません!」
インジュに抱きかかえられつつ、ごねるキリに苦笑する二人は、昨日のぎこちなさとは打って変わって甘い空気に包まれていた。