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8:いつもと違う朝

 午前七時。いつもよりも一時間遅れで、ディングレイは目が覚めた。

 気のせいかもしれないが首が痛く、おまけに毛布も少しばかり重い。

「うおっ」

 毛布を引き上げようと視線を落とした彼は、思わず驚愕の声を零した。

 毛布ではなく、そこにいたのはケーリィンだった。ディングレイのガウンを羽織った彼女が、彼の胸の上でうつ伏せになり、スースーと寝息を立てている。


「そうか……あのまま寝ちまったのか」

 ディングレイは昨晩の出来事を思い出し、思わず苦笑をこぼす。

 泣き出した彼女にキスをして、抱きしめて目いっぱい甘やかした。そのまま彼女が眠りに落ちたので、起こすべきかと思案している内に、自分も寝入ってしまったようだ。

 どうやらお互い、疲れていたらしい。


 ソファの前にあるローテーブルには、冷めたミルクティー入りマグカップが昨夜のまま置かれている。

 これは相当な茶渋が付いていそうだ。食器洗い担当であるディングレイは、この後のことを考えてしばし仏頂面となる。

 また首が痛いのは、ソファのひじ掛けに無理やり頭を載せていたためのようだ。


 しばしの躊躇の末に、ディングレイはケーリィンの寝顔を盗み見る。

 ここで見ないのは、何とももったいない気がしたのだ。これがラッキースケベであろうか。


 間近にある彼女の顔は、平素よりも一層あどけなく見えた。

 大きな瞳も閉じられているため、長い金色のまつ毛が際立っている。小さな鼻や、ぽってりとした唇も可愛らしい。

 全体的に小作りな顔だな、と改めて考えた。


「んぅっ……」

 どこか艶っぽい声と共に、ケーリィンが華奢な肩を揺らした。途端、蜜に似た彼女の香りがディングレイの鼻先をくすぐる。

 暖炉もすっかり消えているため、寒さに震えたらしい。ディングレイはそれに気づき、慌ててガウンで首元まで覆ってやった。


 だが、その善意がかえって眠りを妨げてしまったようで。

 ぼんやりと、彼女の蜂蜜色の瞳が開かれる。そして

「ひぇ?」

 周囲を見渡し、気の抜けた疑問符を呟いた。次いで、自分が下敷きにしているディングレイに気付き、

「きゃあっ! ごめんなさい!」

一気に意識が覚醒し、慌てて跳ね起きる。

 その様がおかしくて、ディングレイはつい噴き出した。


「いや、別に構わねぇよ。大して重くもなかったしな」

 途中まで、「いつもよりちょっとばかり重い毛布」と思い込んでいたくらいだ。

「いえ、でも、こんな……恥ずかしいです……」

 消え入りそうな声と真っ赤な顔が、なんともいじらしい。上半身を起こしたディングレイは、当然のように彼女を膝へ乗せる。


「リィン、寒くなかったか?」

 ディングレイが彼女の顔を覗き込んで尋ねると、ぶんぶんと素早く首が振られた。

「すっかり寝付いちゃって……ごめんなさい……」

「いいって。熟睡できたなら何よりだな」

 あっけらかんと彼が返したところ、何故か恨めし気な視線が向けられた。

「どうして」

「ん?」

「どうして、レイさんは平気なの」

 ケーリィンは真っ赤な顔で、目も潤んでいる。


 実のところディングレイも赤面しているのだが、北向きの談話室は薄暗く、また褐色の肌のお陰でごまかされていた。

「平気なわけねぇだろ」

 だから彼は苦笑して、ケーリィンの手を取る。それを、自身の胸元に当てた。

 素早く脈打つ鼓動が、彼女の手のひらにも伝わる。

「ドキドキ、してるの?」

 驚いた様子で上目に伺う彼女と、額を重ねる。

「するに決まってんだろ」


 ディングレイが照れくささでぶっきらぼうに答えると、へにゃり、と緩んだ笑みが返って来た。彼の大好きな笑顔だ。

 つられてディングレイも、口角を持ち上げた。

「レイさん、あのね」

「ん? どうした?」

「恥ずかしかったけど、嫌じゃなかった……です」

「そっか」

 ささやき声で言葉を交わしながら、二人は互いに目を伏せて唇を近づける。


 ――しかしそんな砂糖菓子のような時間をぶち壊しにする騒音が、外から聞こえて来ていた。

「大変じゃ! 部屋に二人がいないんじゃよ!」

「おっ、落ち着いてください、ロールドさん!」

 朝食を作るため、本邸にやって来たらしい。ロールドの悲痛な声と、それを宥めるインジュの声がする。


「やべぇ」

 ディングレイがぼやくと同時に、談話室の扉が開け放たれた。


 果たしてロールドたちが見たものは、寝乱れた夜着姿で抱き合う、どう見ても事後な舞姫と護剣士であった。

 途端、ロールドが下世話な笑みを浮かべる。

「あらまぁ……昨夜はお楽しみじゃったようで。ワシもお引越しした甲斐があったよ」

 彼のニヤニヤ顔とその言葉に、ケーリィンの顔が真っ赤に染まった。


「違う! キスしかしてねぇぞ!」

 同じく赤面のままディングレイががなると、ロールドはしょっぱい表情に変わった。

「なんじゃい、つまらん。それだけ短気で、よく我慢出来るのう」

「なるほど。細君は別腹というわけですね」

 傍らのインジュは何故か神妙な顔で頷きつつ、眼鏡の位置を正している。その後ろから、ひょっこりとキリが顔を出した。そして父を見上げる。


「パパ、さいくんって?」

「奥さんのことだよ」

「え! ケーリィンちゃん、ディングレイの奥さんなの?」

 どうやらキリにとっては、初耳であったらしい。ディングレイとケーリィンは顔を見合わせつつ、頷く。

「まあ、間もなく奥さんになってもらう予定だな」

 彼の回答に、キリは丸い頬をぷっくり膨らませた。

「やだぁ! ケーリィンちゃんはあたしのお姉ちゃんだもん! ディングレイにあげないから!」

 そして叫ばれたのは、予想外の言葉であった。


 ケーリィンは目を瞬き、キリに尋ねた。

「え? だってレイさんを恋人にするって、昨日言ってましたよね?」

 きょとん顔の舞姫へ、不貞腐れたキリは持論をぶつける。

「だってカレシは、いつか捨てるものでしょ。マーちゃんが言ってたもん。でもお姉ちゃんは、ずっといっしょなんだから!」


 マーちゃんとは誰なのか。友達だろうか。いや、それよりも。

 なんという暴論であろうか。これにはインジュも、理知的な目をひん剥く。

「キリ! 男をとっかえひっかえなんて、パパは許さないぞ!」

「とっかえひっかえじゃないよ。ちぎっては投げ、ちぎっては投げだよ」

「同じだよ、キリ! 同じなんだよ!」

 平行線の、父娘の攻防がその後も続く。


 ディングレイは苦笑して、インジュの苦悩を眺めていた。

「口も減らねぇわ、図太いわ、あいつは将来大物になりそうだな」

 そしてニヤリと悪い笑みを浮かべ、ケーリィンへそっと耳打ちをする。

「俺が嫉妬する番だったみたいだな?」

 この言葉に、赤面に戻ったケーリィンがうつむいた。


 だがその口元は、ほんのわずかだが緩んでいた。

 彼女に関しては目端めはしが利くようになったディングレイは、当然それを見逃さない。

 空色の目を細めて心底嬉しそうに笑い、彼女の目尻に口づけを落とした。

「ひゃっ」

 愛らしい声が、ケーリィンから上がる。しかし彼女も、照れくさそうにはにかみ返した。


 そして舞姫の妹を自称するキリも、彼の「横取り」を見逃すはずもなく。

「あー! ディングレイばっかりずるい!」

「こら、キリ! 邪魔しちゃいけません!」

 インジュに抱きかかえられつつ、ごねるキリに苦笑する二人は、昨日のぎこちなさとは打って変わって甘い空気に包まれていた。

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