夕食の主役は、リズーリが持って来てくれた、巨大マスのグリルだった。
香草と岩塩で味付けされたマスを囲みつつ、リズーリとレーニオも加えてのささやかな晩餐が開かれる。
家庭持ちのインジュは、既に自宅に戻っていた。手土産としてマスの切り身と、レーニオが配達してくれたワインを持っての帰宅だ。
「インジュ君の奥さんは、お魚が好きらしいからね。竜神としても嬉しい限りだよ」
リズーリはにこにこと楽しげだ。整体が上手くいったので、殊更上機嫌であるらしい。
ケーリィンは、レーニオの腰が心配であったものの、それも杞憂に終わったようだ。
「くそう。八つ当たりでマスに文句言ってやろうと思ったのに、文句のつけようがないぃぃー! 悔しいっ」
レーニオは口ではそう文句を言いつつも、脂の乗ったマスの旨味にニヤけていた。元気そのものの様子に、彼女もやっと安心する。
夕食を終え、ほろ酔いの二人が帰路に着くのを見届けた頃には、とっぷり夜も更けていた。
そしてロールドもまた、離れに戻る。何の気まぐれかリズーリも掃除を手伝ってくれたおかげで、離れは玄関から寝室に至るまで、新居同然に磨かれていた。
「それではワシは、朝までこっちでのんびりするからの。お前さんたちも、たまには二人でのんびりなさい」
「そんな、気を遣わなくても良いのに」
ケーリィンはつい、拗ねるように言ってしまった。彼女の頬を、ロールドのしわだらけの優しい手がちょん、とつつく。
「まあまあ。老い先短いじじいのワガママと思って、付き合っておくれ」
そんな言葉を交わして彼を見送る時、ケーリィンは切ないような寂しいような、苦い気持ちになった。
聖域を出る時ですら、そんな感傷に襲われなかったのに。
入浴を終えた彼女は胸に未だ居座る幼い嫉妬心と、そしてロールドとの間に生まれた距離感への寂しさを忘れるべく、図書室にこもった。
本を読むためではない。本を整理するためだ。
落ち込んだ時、掃除に打ち込むのはケーリィンの癖だった。
しかしそんな習性も、婚約者にはお見通しであったらしい。
三十分ほど、彼女が本の並び替えに打ち込んでいると、図書室の扉がノックと共に開かれた。
「やっぱり、落ち込むと掃除に走るんだな」
苦笑するディングレイは、マグカップの乗ったトレイを片手に持っている。
思考や行動を見透かされ、ケーリィンの白い肌が赤くなった。
「あの……えっと……」
へどもどする彼女を、ディングレイの鋭い眼差しが貫く。
「リィン。談話室で、ちょっと話さねぇか?」
提案の形を取っているが、有無を言わさぬ響きも伴っていた。
ために、彼女に拒否など出来るわけもなく。
ケーリィンはうなだれ、彼に続いて一階へ降りる。
談話室では、暖炉の火も起こされていた。準備万端である。
ただ今のケーリィンには、その万端さが恐ろしかった。
二人で無言のまま並んで、革張りのソファに腰かけた。
彼手ずからのミルクティーを受け取りながら、何を言われるのだろう、とケーリィンは内心冷や冷やしていた。
(もしかして、婚約が嫌になったんじゃ……)
不安から、そんなお先真っ暗な予想まで脳裏に浮かぶ。
しかし
「頼む、リィン。不満があるなら教えてくれ」
予想外にも、ディングレイは頭を下げた。
全く想定していなかった展開に、ケーリィンは泡を食う。
「えっ? 不満だなんて、そんな……」
彼女はおろおろと、ディングレイと、そして周囲を無意味に見渡した。
「爺さんとレーニオから聞いた。結婚前の女性は、色々不安を抱え込むもんだと。俺は人生経験があんたよりずっと浅いし、足りないところも多い。だから情けないが、不安や不満を教えて欲しいんだ」
頭を下げたまま、ディングレイは淀みなくそう乞うた。練習したのだろうか、とケーリィンは場違いに考える。
そして一拍遅れで、彼女もおずおずと口を開いた。頬はすでに真っ赤だ。
「あの、未熟なのは、わたしも同じなんです……結婚が不安じゃなくて、いえ、不安ももちろん少しはありますけど……それよりも、実はその、嫉妬……しちゃいまして……」
「嫉妬?」
怪訝そうな顔が持ち上げられ、ケーリィンをまっすぐ見つめる。
薄氷にも似た鋭い瞳と視線がかち合うと、ますますケーリィンの顔は赤くなった。耳や、ネグリジェの衿から覗く首筋まで、赤く染まっている。
「……キリちゃんに、恋人にしてあげると言われているのを見て、嫉妬したんです……その、ごめんなさい!」
先程のディングレイのように頭を下げつつ、最後は悲鳴混じりの声になった。言葉にすると、なお気恥ずかしさが高まったのだ。
「……わたしは、最低です。キリちゃんにそんな気持ちを持ってしまって、舞姫失格です」
うつむいたまま、ケーリィンはそう懺悔する。涙もにじみ、つい鼻をすすった。
しかし返って来たのは、優しく頭を撫でる感触だった。
「それじゃあ、俺も護剣士失格だな」
「どうして……?」
彼の言葉に思わず顔を持ち上げると、優しげなディングレイの笑みが近くにあった。不意打ちに、ケーリィンの胸が高鳴る。
「誰に対しても優しいあんたが、俺にだけヤキモチ焼いてくれたって知って、喜んでる」
ケーリィンにしか見せない、聞かせない、彼の柔和な表情と声音に、彼女の瞳からぽろりと涙の粒が零れ落ちた。
「でも、相手は小さな女の子だよ……?」
鼻声で問いかけるも、
「でも焼いたのは、俺に惚れてくれてるからだろ?」
軽やかに言ってのけられた。こういう時の彼は、ケーリィンにとことん甘いのだ。
ケーリィンの目尻から流れ続ける涙を、ディングレイの無骨な指がそっと拭う。
その感触も嬉しくて、彼女は飛び付くようにして彼に抱き着いた。
「おっと。舞姫様も随分と、甘えん坊になっちまったな」
どこか嬉しそうな彼の声が、少しばかり悔しくて。
ぐりぐりと、ケーリィンが厚い胸板に頬を押し付ければ、優しく髪を梳かれた。ささやかな嫌がらせも、彼の許容範囲であるらしい。
ディングレイの手にうっとり目を細めつつ、ケーリィンは唇を尖らせる。
「レイさんなんて、きらい」
「おい。なんでそうなるんだよ」
途端、ちょっとばかり不貞腐れた声が返された。ケーリィンが胸板から顔を離して視線を持ち上げると、彼の表情も、声と同様に拗ねていた。
ディングレイの腕の中からじっとその表情を見つめ、ケーリィンは続ける。
「だって、駄目なわたしも大丈夫だよって、受け入れてくれるから……レイさん、わたしに甘すぎます。ちゃんと叱って下さい」
わがままな彼女の言い分に、ディングレイは苦笑した。
「未来の愛妻家ってことで、そこは大目に見てくれよ」
そしてケーリィンの額と瞼へ、そっと口づけが落とされる。
「ぴゃっ」
気恥ずかしさで彼女がつい声を上げると、くつくつと、ディングレイは喉を鳴らして笑う。
「それに、最初に受け入れてくれたのは、あんたじゃないか」
「わたし……?」
「ああ。リィンは、ボロボロでみっともない俺でも良いって、受け入れてくれただろ? だから泣き止んでくれよ、奥さん」
返事は、言えなかった。告げる前に、彼女の
「んっ……」
持ち上げられると同時に、彼女の唇に彼のものが重なった。
柔らかな感触とぬくもりに、ケーリィンは陶然と瞳を閉じる。
次いで言葉の代わりに、大好きだという気持ちが伝わるよう、彼の首へ腕を回した。
かすかな衣擦れと淡い吐息と、暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く室内で、ついばむような優しい口づけが繰り返された。