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7:未来の愛妻家

 夕食の主役は、リズーリが持って来てくれた、巨大マスのグリルだった。

 香草と岩塩で味付けされたマスを囲みつつ、リズーリとレーニオも加えてのささやかな晩餐が開かれる。

 家庭持ちのインジュは、既に自宅に戻っていた。手土産としてマスの切り身と、レーニオが配達してくれたワインを持っての帰宅だ。

「インジュ君の奥さんは、お魚が好きらしいからね。竜神としても嬉しい限りだよ」

 リズーリはにこにこと楽しげだ。整体が上手くいったので、殊更上機嫌であるらしい。


 ケーリィンは、レーニオの腰が心配であったものの、それも杞憂に終わったようだ。

「くそう。八つ当たりでマスに文句言ってやろうと思ったのに、文句のつけようがないぃぃー! 悔しいっ」

 レーニオは口ではそう文句を言いつつも、脂の乗ったマスの旨味にニヤけていた。元気そのものの様子に、彼女もやっと安心する。


 夕食を終え、ほろ酔いの二人が帰路に着くのを見届けた頃には、とっぷり夜も更けていた。

 そしてロールドもまた、離れに戻る。何の気まぐれかリズーリも掃除を手伝ってくれたおかげで、離れは玄関から寝室に至るまで、新居同然に磨かれていた。

「それではワシは、朝までこっちでのんびりするからの。お前さんたちも、たまには二人でのんびりなさい」

「そんな、気を遣わなくても良いのに」

 ケーリィンはつい、拗ねるように言ってしまった。彼女の頬を、ロールドのしわだらけの優しい手がちょん、とつつく。

「まあまあ。老い先短いじじいのワガママと思って、付き合っておくれ」


 そんな言葉を交わして彼を見送る時、ケーリィンは切ないような寂しいような、苦い気持ちになった。

 聖域を出る時ですら、そんな感傷に襲われなかったのに。


 入浴を終えた彼女は胸に未だ居座る幼い嫉妬心と、そしてロールドとの間に生まれた距離感への寂しさを忘れるべく、図書室にこもった。

 本を読むためではない。本を整理するためだ。

 落ち込んだ時、掃除に打ち込むのはケーリィンの癖だった。


 しかしそんな習性も、婚約者にはお見通しであったらしい。

 三十分ほど、彼女が本の並び替えに打ち込んでいると、図書室の扉がノックと共に開かれた。

「やっぱり、落ち込むと掃除に走るんだな」

 苦笑するディングレイは、マグカップの乗ったトレイを片手に持っている。


 思考や行動を見透かされ、ケーリィンの白い肌が赤くなった。

「あの……えっと……」

 へどもどする彼女を、ディングレイの鋭い眼差しが貫く。

「リィン。談話室で、ちょっと話さねぇか?」


 提案の形を取っているが、有無を言わさぬ響きも伴っていた。

 ために、彼女に拒否など出来るわけもなく。

 ケーリィンはうなだれ、彼に続いて一階へ降りる。

 談話室では、暖炉の火も起こされていた。準備万端である。

 ただ今のケーリィンには、その万端さが恐ろしかった。


 二人で無言のまま並んで、革張りのソファに腰かけた。

 彼手ずからのミルクティーを受け取りながら、何を言われるのだろう、とケーリィンは内心冷や冷やしていた。

(もしかして、婚約が嫌になったんじゃ……)

 不安から、そんなお先真っ暗な予想まで脳裏に浮かぶ。


 しかし

「頼む、リィン。不満があるなら教えてくれ」

予想外にも、ディングレイは頭を下げた。

 全く想定していなかった展開に、ケーリィンは泡を食う。

「えっ? 不満だなんて、そんな……」

 彼女はおろおろと、ディングレイと、そして周囲を無意味に見渡した。


「爺さんとレーニオから聞いた。結婚前の女性は、色々不安を抱え込むもんだと。俺は人生経験があんたよりずっと浅いし、足りないところも多い。だから情けないが、不安や不満を教えて欲しいんだ」

 頭を下げたまま、ディングレイは淀みなくそう乞うた。練習したのだろうか、とケーリィンは場違いに考える。

 そして一拍遅れで、彼女もおずおずと口を開いた。頬はすでに真っ赤だ。

「あの、未熟なのは、わたしも同じなんです……結婚が不安じゃなくて、いえ、不安ももちろん少しはありますけど……それよりも、実はその、嫉妬……しちゃいまして……」

「嫉妬?」


 怪訝そうな顔が持ち上げられ、ケーリィンをまっすぐ見つめる。

 薄氷にも似た鋭い瞳と視線がかち合うと、ますますケーリィンの顔は赤くなった。耳や、ネグリジェの衿から覗く首筋まで、赤く染まっている。

「……キリちゃんに、恋人にしてあげると言われているのを見て、嫉妬したんです……その、ごめんなさい!」

 先程のディングレイのように頭を下げつつ、最後は悲鳴混じりの声になった。言葉にすると、なお気恥ずかしさが高まったのだ。


「……わたしは、最低です。キリちゃんにそんな気持ちを持ってしまって、舞姫失格です」

 うつむいたまま、ケーリィンはそう懺悔する。涙もにじみ、つい鼻をすすった。

 しかし返って来たのは、優しく頭を撫でる感触だった。

「それじゃあ、俺も護剣士失格だな」

「どうして……?」

 彼の言葉に思わず顔を持ち上げると、優しげなディングレイの笑みが近くにあった。不意打ちに、ケーリィンの胸が高鳴る。


「誰に対しても優しいあんたが、俺にだけヤキモチ焼いてくれたって知って、喜んでる」

 ケーリィンにしか見せない、聞かせない、彼の柔和な表情と声音に、彼女の瞳からぽろりと涙の粒が零れ落ちた。

「でも、相手は小さな女の子だよ……?」

 鼻声で問いかけるも、

「でも焼いたのは、俺に惚れてくれてるからだろ?」

軽やかに言ってのけられた。こういう時の彼は、ケーリィンにとことん甘いのだ。


 ケーリィンの目尻から流れ続ける涙を、ディングレイの無骨な指がそっと拭う。

 その感触も嬉しくて、彼女は飛び付くようにして彼に抱き着いた。

「おっと。舞姫様も随分と、甘えん坊になっちまったな」

 どこか嬉しそうな彼の声が、少しばかり悔しくて。

 ぐりぐりと、ケーリィンが厚い胸板に頬を押し付ければ、優しく髪を梳かれた。ささやかな嫌がらせも、彼の許容範囲であるらしい。


 ディングレイの手にうっとり目を細めつつ、ケーリィンは唇を尖らせる。

「レイさんなんて、きらい」

「おい。なんでそうなるんだよ」

 途端、ちょっとばかり不貞腐れた声が返された。ケーリィンが胸板から顔を離して視線を持ち上げると、彼の表情も、声と同様に拗ねていた。


 ディングレイの腕の中からじっとその表情を見つめ、ケーリィンは続ける。

「だって、駄目なわたしも大丈夫だよって、受け入れてくれるから……レイさん、わたしに甘すぎます。ちゃんと叱って下さい」

 わがままな彼女の言い分に、ディングレイは苦笑した。

「未来の愛妻家ってことで、そこは大目に見てくれよ」

 そしてケーリィンの額と瞼へ、そっと口づけが落とされる。

「ぴゃっ」

 気恥ずかしさで彼女がつい声を上げると、くつくつと、ディングレイは喉を鳴らして笑う。


「それに、最初に受け入れてくれたのは、あんたじゃないか」

「わたし……?」

「ああ。リィンは、ボロボロでみっともない俺でも良いって、受け入れてくれただろ? だから泣き止んでくれよ、奥さん」

 返事は、言えなかった。告げる前に、彼女のおとがいがそっと持ち上げられる。

「んっ……」

 持ち上げられると同時に、彼女の唇に彼のものが重なった。


 柔らかな感触とぬくもりに、ケーリィンは陶然と瞳を閉じる。

 次いで言葉の代わりに、大好きだという気持ちが伝わるよう、彼の首へ腕を回した。

 かすかな衣擦れと淡い吐息と、暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く室内で、ついばむような優しい口づけが繰り返された。

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