ディングレイが己の内に宿る悪魔をねじ伏せ、渋々本邸へ
ケーリィンとインジュ、そして何故かリズーリの三人だ。
「よお、お帰り」
「ただいまです」
ディングレイが内心の不安を蹴り飛ばしてケーリィンへ声を掛ければ、いつものほっこり笑顔と声が返って来た。
その愛らしい笑みを見下ろし、少しばかり安堵する。
が、彼女もディングレイの背後の異様さに気付き、すぐさま顔を強張らせた。
「あの……レーニオさんが、すごい姿勢で固まって……いるようですが」
「じじいと風呂場で出くわす話をしたら、ああなった」
簡潔な説明に、三人は顔を見合わせる。次いで、インジュがこめかみを抑えた。
「……ディングレイ君。申し訳ないのですが、全く意味が分かりません」
「悪ぃ。俺にも意味分かんねぇから、説明しようがないんだ」
ケーリィンはおずおずと、ディングレイとレーニオを交互に見遣る。
「レーニオさん……泣いてませんか?」
「ああ。仰け反った時に、腰を言わせちまったらしい」
彼女の金色の瞳がぎょっと、驚きで見開かれる。
「大変。治癒の舞を踊りますね」
しかし駆け寄ろうとする彼女を、制する手があった。リズーリだ。
彼はケーリィンの肩に手を載せ、やんわりその場に留めさせた。彼へ振り返ったケーリィンは、困惑に眉を寄せている。
「リズーリ様、どうしました?」
「うん、ちょっと、レーニオ君の様子が見たいなぁって」
「見たいなぁって……そんな」
「おいおい。何するつもりだよ、あんた」
呆れるケーリィンとディングレイを無視して、リズーリは相変わらずの麗しい笑みでふわふわとレーニオに歩み寄る。
その気配を察したのか、恐る恐る、レーニオが背後を振り返った。
そしてヒィィッと、かすれた悲鳴を零す。
悲鳴を上げて当然であろう。リズーリによって、魔獣の囮にされた過去もあるのだから。
「なっ……なんで、ここに、リズーリ様がいるんですかぁ! やだぁ!」
「いやー。大きな魚を捕まえたからね、皆にご馳走しようと思って」
釣った、ではなく捕まえた――この辺りが、湖に住む竜神らしい。
「分かりました! ご馳走、食べますから! その手! 手、やめてぇっ!」
腰の痛みを押し殺し、レーニオは絶叫する。リズーリが両手を掲げ、指をワキワキと動かしていたのだ。
彼の視線はレーニオの腰に固定されていた。
何をするつもりかはよく分からないが、何をしたいのかは、誰もが十二分に分かった。
しかし享楽的な竜神を、止められるはずもなく。また、巻き込まれると嫌なので、ほぼ全員が傍観の姿勢に入る。
生真面目なインジュですら、諦めの表情であった。彼の骨ぐらいは拾ってやらねば、とその顔が語っている。
ただ一人、ケーリィンだけは
「リズーリ様……レーニオさん、本当に痛そうなので、あの、あまり無理強いは……」
せめて、とおずおず口添えをする。
「うう、ケーリィンちゃんの優しさが、腰に染み入る……」
そう言って泣いたレーニオの涙が、頬を流れた時。
リズーリが、レーニオに飛びついた。否、腰から押し倒した。
ぎゃおう、とレーニオはしっぽを踏まれた猫のような悲鳴を上げた。
「レーニオ君の悲鳴は、レパートリーが豊富だねぇ」
リズーリは呑気に言いながら、彼の腰をぐいぐいと容赦なく押した。彼の細腕が腰を押すたびに、骨が破裂するような音がした。
これには気弱で繊細なケーリィンが、青ざめたまま震える。
豪胆なディングレイも、彼女の背中を支えつつ、さすがに顔を引きつらせた。
「おい、リズーリ。その辺にしとけよ」
「うん、そうだね」
制止の声に、意外にもリズーリはあっさり頷いた。次いでぱっとレーニオから離れる。
庭の芝生につっ伏していたレーニオが、涙目で彼を見上げた。
「何するんですかぁ! めちゃくそ痛かったんですけど!」
そう叫んでがばりと立ち上がり、彼は目を点にした。
「あれ? 痛くない……?」
腰を叩いたり捻ったりして、レーニオはみるみるうちに明るい表情となった。
「大叔母から習った、整体を試してみたんだ。いやぁ、なかなか被験者がいなくて、困っていたんだよ」
ゆったりした東方風の服で懐手になり、リズーリは爽やかに微笑む。
自身の身に起こった奇跡で目を輝かせていたレーニオも、被験者という単語で顔を曇らせた。
「……ってことは、試したのって僕が初めて……?」
鷹揚に、リズーリが頷く。
「うん、その通り。案外勘が良いじゃないか。良くなって何より」
声にならぬ叫びを、レーニオは上げた。そして竜神へ詰め寄る。
「何より、じゃないですよ! あんた、それでも神様ですかぁ! 悪化したらどうするつもりだったんです!」
「だってその時は、ケーリィンちゃんがいるし。ほらね?」
「ほらね、じゃないですよ! 最低だぁ!」
涙目で地団駄を踏むレーニオは、すっかり元気になったらしい。正に奇跡である。
とはいえ、この元気がいつまで続くのかは怪しい。なにせ、治癒したのが無免許の整体師なのだ。
「……念のため、術札は用意しといてやるか」
ぼそり、とディングレイが呟いた言葉に、ケーリィンもまだ青ざめた笑みで首肯する。
「そうですね。取って来ますね」
「ああ、頼んだ」
本邸に戻ろうとする彼女を見送ろうとして、ディングレイは咄嗟に、たおやかな手首をつかんだ。
「レイさん? あの、どうしました?」
突然の行動に、ケーリィンは目を丸くしている。
「あ、いや……」
わずかな逡巡の末、ディングレイは彼女の顔を覗き込んだ。
「……あんた、大丈夫か? 疲れてねぇか?」
ケーリィンは笑顔だった。しかしその顔は、ごくわずかだが強張っていた。
「リィン……?」
「大丈夫ですよ! フォーパーさんのところで美味しいお茶もいただいて、元気いっぱいですよ。ね?」
努めて明るい声を出し、ケーリィンは傍らのインジュを見上げる。
どこか縋るような視線に、彼もこくこくと、真面目くさった顔で頷いた。
「ええ、美味しいお茶でした。ただ私はフォーパーさんに気力を、若干吸われておりますが」
大いにあり得る話だ。
とはいえ、ケーリィンが隠すというなら、これ以上この場で詮索するのは得策ではない。
「大丈夫ならいいけど、無理はするなよ?」
「はい、ありがとうございます」
ディングレイが引き下がると、悲しいことにケーリィンはホッとした表情を浮かべた。次いでそそくさと、本邸へ駆け出した。
もっと気の利いた言葉を投げかけたいのに、とディングレイは己の口下手さを歯がゆく思った。
先ほどまで彼女の手首を握っていた、己の褐色の手を見下ろして肩を落とす。
うなだれる同僚に、インジュは苦笑を漏らした。
「ケーリィンさんはとても、我慢強い方ですから」
「我慢強いというか、頑固というか――だな」
そう言ってゆるゆると視線を交わし、男二人で情けない笑みを浮かべる。