「しまった。インジュが戻ってからにすりゃ良かった」
倉庫もとい離れにしまわれた家具の中で、一番の大物であろう二段ベッドを外へ運び終え、ディングレイは舌打ちをした。
なお、要らぬ家財道具たちは後日、街のチャリティバザーで売りに出される予定だ。
有無を言わさず運び出しを手伝わされたレーニオも、腰をさすりながら、
「ほんとですよ! 僕より力持ちがいるじゃないですかー! ってか僕ぁ、お酒の配達に来ただけで、引っ越し屋さんじゃないですからね!」
と早口で彼へ詰め寄った。
ディングレイも片手でぞんざいにレーニオをあしらいつつ、不敵に鼻を鳴らす。
「当たり前だろ。てめぇみたいな軟弱な引っ越し業者が来やがったら、ケツ蹴り飛ばして追い出してやる」
「ぎゃんっ、手伝わせておいてなんて言い草! あんたやっぱ悪魔でしょう!」
地団駄を踏むレーニオであったが、途中で眉を寄せた。
「……なんかディングレイさん、元気ないです?」
「あ? いや、俺は元気有り余ってるぞ」
「でしょうね。ふてぶてしさも有り余ってます――うぶっ」
空を切る鋭い掌打が、レーニオを襲った。衝撃で彼の顔と首が仰け反る。
しかし、その体勢からしぶとく立ち直りつつ、レーニオはなおも疑問符を浮かべた。
「あれ? 『俺は』ってことは、やっぱり何かあったんですか?」
束の間、ディングレイの視線が泳ぐ。
「ん……ああ、リィンが元気なかったというか……なんか溜め込んでる様子なんだよ」
ばつが悪そうに、彼は柔らかな銀髪をかき回した。
はいはい、とレーニオは訳知り顔で首肯。自身の茶色い髪に絡まっていた蜘蛛の巣を、ぱたぱた払い落として続ける。
「あー、あれですよ。マリッジブルーってヤツじゃないですかね。僕の姉ちゃんも結婚前はピリピリしてましたし、急に泣き出したりもしてましたよ」
「お前、その性格で姉ちゃんいたのか……」
ディングレイはげんなり顔だ。
少年時代から女体への興味が人一倍あった弟に、さぞや困らされていたことだろう。
彼の空色の瞳が、離れへ向けられる。正確には、中で掃除に励むロールドへ。
「爺さんからも、一時の不安だって言われたんだが……不安そうな顔見たら、俺に何か出来ることないのか考えちまうだろ」
「ディングレイさんって、ケーリィンちゃんにはほんっと甘いですよねぇ」
そう言うレーニオの表情にからかいや嘲りはなく、どこまでも微笑ましげだ。
かえってそれがむず痒く、ディングレイは彼の二の腕を軽く打つ。
「気色悪ぃ笑い方してんじゃねぇよ」
「ひっど! ラッキースケベがないか訊きたいのを我慢して、相談に乗ってあげたのに!」
「何だよ、ラッキースケベって?」
初めて耳にする概念に、ディングレイは怪訝そうだ。
むふふ、と小鼻を膨らませたレーニオが口を開く。
「やだなぁ、お高く止まっちゃって。読んで字の如く、ラッキーなスケベですよ! ケーリィンちゃんの着替えにうっかり出くわすとかそういうの、同棲してるんだからあるでしょう?」
ペラペラと舌を動かすレーニオに対し、ディングレイは無表情。しかし、こめかみに青筋が立っている。
お馬鹿なレーニオはそれに気付かず、なおも続ける。
「ってか婚約者なんだから、偶然のスケベを待たずとも自主的スケベを起こして良い立場ですよねぇ。夜這い仕掛けたり、皆にバレないようこっそり乳繰り合ったり、そういう心躍る話題ってないんです――かぼす!」
ディングレイの頭突きが決まり、レーニオは両手で額を抑えてうずくまる。
しかし慣れているためか、やはり復帰が早い。
「何するんですかぁ!」
「うるせぇ! てめぇこそ、真っ昼間から寝ぼけたこと言ってんじゃねぇよ! 婚前交渉するわけねぇだろ!」
耳まで赤くなったディングレイの怒気と、荒々しい口調とは相容れない単語に、レーニオはたじろいだ。
「こ、婚前交渉って……なんでそんなお堅いの? ヤンキーなのに……なんでそこだけ、箱入り娘みたいな価値観なの? 逆に怖いですよ……」
ディングレイの貞操観念は実年齢に加えて、育ての親、つまり魔術の研究に心血を注いで来た研究者集団 (無論、恋愛初心者の集まりだ)が関係しているのだが、それをレーニオが知ることはない。
頭突きを受けた額をさすりつつ、それじゃあ、と彼は食い下がる。
「せめてどんなラッキースケベがあったか、教えて下さいよ」
「あるか! 俺は耳が良いんだよ、誰か着替えてりゃすぐ気付く」
なおも怒った顔で、ディングレイはそう吐き捨てる。
「ああ、そういや護剣士は五感を鍛えてるんでしたっけ。耳が良いのも、良し悪しですね……」
はあ、と心底つまらなそうにレーニオはため息。
正確には「鍛えている」ではなく、「強化されている」であるが。いちいち説明するのも面倒くさいので、ディングレイも仏頂面で受け流した。
「ちなみに……お風呂場でばったり遭遇みたいな、甘いハプニングはあったり……?」
しかしレーニオは、なおも揉み手で食い下がって来た。エロ方面だけは、本当にしつこい。
「あるわけねぇ――あ、うっかり入って来られたことは、何回かあったか」
ディングレイは否定しかけたところで腕を組み、中空を睨んだまま呟いた。
途端、レーニオが目を輝かせた。
「え! それってケーリィンちゃんが?」
「いや、爺さん」
「爺さんかいッ!」
思わずディングレイがのけぞる程の大声で叫び、レーニオが膝をついた。その体勢のまま、両手を天へ伸ばして、上半身を大きくそらす。
「……お前、意外に背筋あるんだな」
不気味な落胆ぶりに、ディングレイは距離を取りつつ感嘆する。
その時、離れの扉が開いた。
「一段落したし、ちょっと休憩にしようかね……なんじゃね、それは」
ロールドも
ディングレイは肩をすくめた。
「よく分からねぇが、爺さんと風呂場で出くわした話をしたら、こうなった」
「……本当によく分からんのう」
首をふりふり、ロールドは怪訝そうに言った。
「ほれ、爺さんもよく分からねぇとよ。さっさと立て」
ぺしり、とディングレイが彼の頭を緩やかに叩く。痛くも痒くもない力加減だ。
にもかかわらず、レーニオの表情に苦痛が宿った。
「……ぃ」
「い?」
「腰がっ……痛くて、戻れ、ないぃぃ!」
悲痛な叫びが、広くもない庭に響き渡る。
両腕を伸ばした体勢のまま、小刻みに震える彼を眺めていた二人が、同時に噴き出す。
「おまっ……馬鹿じゃねぇか……?」
ディングレイの口元も、抑えきれぬ笑いによって震えている。
「レイ君、そう言っちゃ可哀想……ぶほぉ!」
たしなめる途中で再度噴いたロールドの方が、多分に残酷である。
「笑ってないで、タスケッ……タスケテ……!」
かそけき声で、レーニオはそう泣いた。大声は腰に響くようだ。
その姿があまりに滑稽で哀れっぽく、さしものディングレイも同情する。
「待ってろ、治癒の術札取って来るから」
彼の珍しい慈悲に、レーニオは目を潤ませた。
「ああ……ディングレイさんが神に見える……ヤンキーの神様、ありがとう」
「てめぇ……」
やっぱり放っておこうぜ、とディングレイの心に潜む悪魔が囁いた。