「おはようございまーす!」
その時だった。神殿の入り口から生真面目すぎる朝の挨拶が、大音声で届いたのは。
声のした方角へ、ケーリィンがパッと顔を向ける。
「あ、インジュさんが来られましたね」
堅物そうな声は、今ではすっかり聞き慣れた、もう一人の護剣士のものだった。
ディングレイとロールドも、小競り合いを一時中断。
護剣士に配布されている腕時計をちらり、と見たディングレイは、広い肩をすくめる。
「相変わらず時間通りだよな、あのオッサン」
「でも、レイさんも毎朝同じ時間に起きてますよ。真面目です」
「そりゃどうも」
ディングレイが豪快に、ケーリィンの頭を撫でる。
こちらももう、今ではおなじみとなった感触だ。ケーリィンもくすぐったそうに、されるがままでいる。
そんな二人を微笑ましげに眺め、ロールドが彼らの背を押した。
「ここの掃除はワシがやっておくから。迎えに行ってやりなさい」
「ああ、頼んだよ爺さん」
ニッと笑ったディングレイの先導で、ケーリィンは離れを出た。
本邸の広間まで、インジュを迎えに行く。
いつでも誰にでも敬語で、生真面目が服を着て歩いているようなインジュは、見た目もオールバックの黒髪に眼鏡という、護剣士よりもビジネスマンに近い風貌だ。
ディングレイと比べれば、体格も細身である。あくまで護剣士内比較で、であるが。
そんな彼はケーリィンたちの姿を見つけると、折り目正しく頭を下げる。
「おはようございます。本日もどうぞ、よろしくお願いいたします」
直角のお辞儀に、ディングレイは片手を上げた。
「よお。あんた、相変わらず真面目っつーか、固いよな」
「私が真面目というよりも、ディングレイ君。君がかなり、砕けているだけかと思われますが」
キリリと眼鏡の位置を正し、顔を持ち上げたインジュがそう指摘する。
ケーリィンの恩師であるアンシアも、「ジルグリットさんの口調は、まだ心臓に悪いです」と以前ぼやいていたので、恐らく彼の指摘は真実であろう。
もっとも当のディングレイに正す気がないことは、インジュも含めて周知の事実である。
「そうか? 普通だろ?」
現に彼は今も、あっけらかんとこう言った。ディングレイにこの口調を植え付けたのは誰なのか――ケーリィンは時折そんなことを考え、首をひねることもあった。
(レイさんと仲良しの保守部隊の隊長さんも、丁寧な方だし……どこ由来なのかしら)
知りたい気がするものの、
なお正反対の護剣士二人であるが、意外にも気が合っている。
言動こそ乱暴であるものの、ディングレイは職務に忠実で勤勉だ。日々の訓練も欠かさないほどに。
一方のインジュも無論、言わずもがなの勤務態度である。
また双方、酒が結構好きらしい。その辺りも気が合う要因であるようだ。
加えてインジュも、生真面目一辺倒というわけではない。その証拠がひょこり、と彼の後ろから顔を覗かせた。
インジュが目に入れても痛くないほど溺愛している、娘のキリだ。そして彼が、シャフティ市へ異動するきっかけとなった少女でもある。
「あら、キリちゃん。おはようございます」
「おはよー、ケーリィンちゃん」
御年七歳のキリは、ふっくらした子供らしい手をひらひらと、ケーリィンへ振る。
移住当初は喘息で弱っていた体も、今ではすっかり元気いっぱいだ。
「こら、舞姫様に甘えすぎないように」
一応はたしなめるものの、インジュのその顔はデレデレである。
緩み切った顔のまま、すみません、と彼は謝った。
「どうしても娘が、ケーリィンさんとディングレイ君に会いたい、と駄々をこねまして」
「いえいえ、わたしは構いませんよ。ね、レイさん?」
「チビが学校に遅れなきゃな」
ケーリィンが仰ぎ見れば、ニヤリ、とディングレイは悪い顔でキリの頬を突く。
その手を果敢に迎撃しつつ、キリは胸をそらす。
「だいじょぶだもん! パパのしょくば見学してましたって、先生に言うから。もんだいないし!」
反則すれすれの言い訳に、ディングレイは失笑する。
「口の減らねぇお嬢ちゃんだな。その辺は親父似か?」
キリが口を尖らせ、抗議した。
「えー、ディングレイのが口悪いよね。でもあたし、悪い男好きだよ。カレシにしてあげよっか?」
これにはぎょっ、とケーリィンとインジュが目を剥いた。
先に行動したのは、インジュの方だった。
「こらキリ、なんてことを言うんだ! ……すみません、ケーリィンさん」
当然二人の結婚が半年後に控えていると知っているインジュは、子供の戯言とはいえ、ちょっと笑えない冗談に平謝りであった。何とも生真面目な彼らしい。
「い、いえ、キリちゃんも冗談でしょうし……インジュさん、そんなに謝らなくても」
慌てつつ、少々引きつった笑みで、ケーリィンがそれを宥める。
一方のディングレイは、呆れ顔でキリの頭を撫でていた。
「俺が言うのもなんだが……男の好みはもうちょっと、親父さんも安心できるものにしとけよ。でないと親父さん、不安で早死にしちまうぞ?」
ふん、とキリは小鼻を膨らませて、彼を見上げた。
「ディングレイがカレシになってくれたら、コウセイしてあげてもいいよ」
この言葉に、インジュがなお青ざめる。
「こっ、こら、キリ! いい加減にしなさい! ディングレイ君の迷惑になるだろう!」
「本当口が減らねぇな、このチビは」
呆れつつ、ディングレイは笑っている。そして再度ペコペコと謝るインジュにも、鷹揚に笑い返している。
どこか楽しげな婚約者の姿を、ケーリィンはぼんやりと眺めていた。
胸の奥まった場所が、小さな痛みを訴えていた。
ケーリィンだって、キリのことは可愛いと思っている。自分を支えてくれるインジュの愛娘で、自分のことも慕ってくれているのだ。可愛くないはずがない。
その一方で今日のような、ディングレイへの諸々の発言に小さなモヤモヤを覚えるのも事実であった。
年端もいかない、小さな女の子相手に嫉妬だなんて見苦しい、と頭では分かっている。
ディングレイが笑って受け流すのも、彼女の言葉が子供故の気まぐれによるものだと考えているからだ、とも。
むしろ、
「いや。俺は婚約中の身だから。そんなこと言われても困る」
と真顔で返された方が、ケーリィンとしても大いに困る。困るし、急にそんな真面目になられても、と慌ててしまうだろう。そんな柄じゃないでしょう、と。
それでも自身の幼稚な嫉妬心を抑えられず、ケーリィンはこっそりと自己嫌悪を抱えていた。
豊かな胸に手を添え、彼女は小さく俯いてため息をつく。
その様子を、ディングレイがしっかり窺い見ていることに、気付かぬまま。