ケーリィンの自室のすぐ隣は、洗面所兼浴室になっている。
朝六時五十五分。うつらうつらと、浅い眠りの中をたゆたう彼女の耳に、ある音が届く。
浴室の扉を、静かに開閉する音。
カーテンをそっと閉める音。
そして、シャワーの蛇口を捻る音。
壁越しに小さく聞こえる、さあさあと、タイルを打つ水音が耳に心地いい。
ふふ、とケーリィンはまどろみの中で微笑んだ。少しずつ、意識は覚醒に向かいつつある。
少ししてから彼女はかすかに身じろぎして、ベッドの上で上半身を起こす。白壁に掛けられた木枠の時計へ、まだ寝ぼけ眼の視線を向けた。
朝の七時ちょうどだ。
(レイさんはやっぱり、時間通りだなぁ)
と、覚醒しつつある意識が考えた。
朝の訓練と、その後の入浴。これがディングレイの毎朝の日課である。
そしてケーリィンも、そのシャワーの音で目覚めるのが日課となっていた。
シャワーの音で目覚め、朝食を作り、そして神殿を開放するまで踊りの練習を行う――牧歌的とも言える、穏やかな朝の流れである。
意識はすっかり覚醒していたものの、彼女は再度、ころんとベッドに寝転がった。もう少し、このふかふか感を堪能したかったのだ。
ややあって、壁越しに聞こえるシャワーの音が止んだ。しばらく静寂が続く。
その後、ドアの開閉音が。そこから数歩の足音と共に、ケーリィンの部屋の扉を叩く音がする。
もう一度、ケーリィンは微笑んだ。頬を薄っすらと赤らめて。
次いで改めて身を起こし、扉へ向かって柔らかな声を出した。
「はぁい」
「リィン、おはようさん」
これも、いつものやりとりだ。
シャワーを終えたディングレイが、彼女を起こすために扉をノックする。その後、かすかに開けた扉から顔を覗かせるのだ。
濡れて、ぺたりと寝た銀髪のためか、ディングレイはいつもと印象が異なる。年上の彼がなんだか可愛らしく見えて、いつもケーリィンははにかんでしまう。
はにかむ彼女と目が合い、ディングレイも口角を持ち上げる。
「うるさかったか? 風呂の音」
「ううん。丁度うとうとしていましたから」
このやりとりも、日課となっている。普段の仏頂面に反し、彼は案外気遣い屋なのだ。
ケーリィンは答えつつふるふると、首を振った。
蜂蜜色の長い髪――結婚式に向けて、腰まで伸ばしていた――が、その動きに合わせてゆるやかに揺れる。
眩しげに目を細めてそれを眺めつつ、ディングレイも部屋に入った。いつも通りの真っ白なシャツと、紺色の乗馬ズボン姿だ。
そしてベッドの縁へ、腰を下ろす。首にはまだタオルが掛かったままである。
ケーリィンは言われるまでもなく、そのタオルを手にして、彼の髪を優しく拭った。
いつの間にかこれも、日々のやりとりとなっていた。日常でありつつ、ケーリィンにとっては「恋人の特権」でもあった。
ディングレイのシャワーの音で目覚めるようになったのは、何がきっかけだったか。
「地下室のシャワーは、薄暗くて気味が悪ぃんだよな……嫌な思い出も、てんこもりだしな」
嫌な思い出とは、もちろん年一回の血みどろメンテナンスである。
珍しく暗い表情で、彼がそんな風にぼやいていたから、
「それなら、朝も二階のシャワーを使って下さい」
そうケーリィンが提案したことだったか。
ケーリィンはそんなことを考えながら、彼の柔らかな銀髪を乾かす。ディングレイも少しうなだれるような体勢のまま、されるがままだ。
「なんというか、偉くなった気分だよな」
ぽつり、とディングレイが口を開いた。
「え? どうしてですか?」
ケーリィンは手を止めず、不思議そうに問い返す。
少しだけ首を傾け、ディングレイの空色の瞳が彼女を見つめた。悪戯っぽい視線だ。
「舞姫様に手ずから、髪を乾かしてもらってるからな。どこぞの王様になった気分だ」
「そんな、大袈裟です」
苦笑した彼女の左薬指には、シトリンをあしらった白金の指輪がはめられている。
「わたしはレイさんの婚約者です。これぐらい、お世話させてください」
「ん。ありがとな」
喉を鳴らし、ディングレイは笑った。そしてぐい、とやや強引に振り返る。
ケーリィンは今度こそ手を止め、彼と目を合わせた。大きな瞳がぱちくり、とゆっくりまばたきする。
「レイさん、どうしました?」
「ん? お礼」
そう言ってニッと笑った彼の、大きな手がケーリィンの後頭部へ回される。そのまま優しく、彼の方へと引き寄せられた。
二人の距離が近づき、彼女の金色の目がなお一層丸くなる。
ケーリィンと目の合ったディングレイが、つ、と視線を落とした。
そして彼女のつややかな唇を軽く
濡れた口づけの感触と、唇にかかる吐息を認識した途端、ケーリィンは耳まで真っ赤に染まった。
「レっ、レイさん!」
裏返った声を上げると、してやったりとディングレイは歯を見せて笑う。
「悪ぃ、怒ったか?」
言葉に反して悪びれた様子もなく、彼女の髪を指に絡めて遊んでいた。
「怒ってはいないですが……びっくり、しました」
ケーリィンはしばらく目を白黒させていたものの、キスの落とされた唇をそっと撫で、ほんのり困ったように微笑む。
「だって急なんですもの」
「ま、そこは髪の礼と、今日の激励も兼ねてるからな」
ケーリィンと額を重ね、ディングレイはそう言い切った。
「今日の……あ」
視線を上に向けた後、ケーリィンは小さく声を上げた。そして苦笑した。
「そういえば今日、大掃除でしたね」
「そういうこと」
ディングレイも似たような苦笑いを浮かべる。
今日はこれからロールドの引っ越しのための、離れの大掃除が待っているのだ。