目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
1:いつもの朝

 ケーリィンの自室のすぐ隣は、洗面所兼浴室になっている。


 朝六時五十五分。うつらうつらと、浅い眠りの中をたゆたう彼女の耳に、ある音が届く。

 浴室の扉を、静かに開閉する音。

 カーテンをそっと閉める音。

 そして、シャワーの蛇口を捻る音。

 壁越しに小さく聞こえる、さあさあと、タイルを打つ水音が耳に心地いい。

 ふふ、とケーリィンはまどろみの中で微笑んだ。少しずつ、意識は覚醒に向かいつつある。


 少ししてから彼女はかすかに身じろぎして、ベッドの上で上半身を起こす。白壁に掛けられた木枠の時計へ、まだ寝ぼけ眼の視線を向けた。

 朝の七時ちょうどだ。

(レイさんはやっぱり、時間通りだなぁ)

と、覚醒しつつある意識が考えた。


 朝の訓練と、その後の入浴。これがディングレイの毎朝の日課である。

 そしてケーリィンも、そのシャワーの音で目覚めるのが日課となっていた。

 シャワーの音で目覚め、朝食を作り、そして神殿を開放するまで踊りの練習を行う――牧歌的とも言える、穏やかな朝の流れである。


 意識はすっかり覚醒していたものの、彼女は再度、ころんとベッドに寝転がった。もう少し、このふかふか感を堪能したかったのだ。

 ややあって、壁越しに聞こえるシャワーの音が止んだ。しばらく静寂が続く。

 その後、ドアの開閉音が。そこから数歩の足音と共に、ケーリィンの部屋の扉を叩く音がする。


 もう一度、ケーリィンは微笑んだ。頬を薄っすらと赤らめて。

 次いで改めて身を起こし、扉へ向かって柔らかな声を出した。

「はぁい」

「リィン、おはようさん」

 これも、いつものやりとりだ。

 シャワーを終えたディングレイが、彼女を起こすために扉をノックする。その後、かすかに開けた扉から顔を覗かせるのだ。


 濡れて、ぺたりと寝た銀髪のためか、ディングレイはいつもと印象が異なる。年上の彼がなんだか可愛らしく見えて、いつもケーリィンははにかんでしまう。

 はにかむ彼女と目が合い、ディングレイも口角を持ち上げる。

「うるさかったか? 風呂の音」

「ううん。丁度うとうとしていましたから」

 このやりとりも、日課となっている。普段の仏頂面に反し、彼は案外気遣い屋なのだ。


 ケーリィンは答えつつふるふると、首を振った。

 蜂蜜色の長い髪――結婚式に向けて、腰まで伸ばしていた――が、その動きに合わせてゆるやかに揺れる。

 眩しげに目を細めてそれを眺めつつ、ディングレイも部屋に入った。いつも通りの真っ白なシャツと、紺色の乗馬ズボン姿だ。

 そしてベッドの縁へ、腰を下ろす。首にはまだタオルが掛かったままである。


 ケーリィンは言われるまでもなく、そのタオルを手にして、彼の髪を優しく拭った。

 いつの間にかこれも、日々のやりとりとなっていた。日常でありつつ、ケーリィンにとっては「恋人の特権」でもあった。


 ディングレイのシャワーの音で目覚めるようになったのは、何がきっかけだったか。

「地下室のシャワーは、薄暗くて気味が悪ぃんだよな……嫌な思い出も、てんこもりだしな」

 嫌な思い出とは、もちろん年一回の血みどろメンテナンスである。

 珍しく暗い表情で、彼がそんな風にぼやいていたから、

「それなら、朝も二階のシャワーを使って下さい」

そうケーリィンが提案したことだったか。


 ケーリィンはそんなことを考えながら、彼の柔らかな銀髪を乾かす。ディングレイも少しうなだれるような体勢のまま、されるがままだ。


「なんというか、偉くなった気分だよな」

 ぽつり、とディングレイが口を開いた。

「え? どうしてですか?」

 ケーリィンは手を止めず、不思議そうに問い返す。


 少しだけ首を傾け、ディングレイの空色の瞳が彼女を見つめた。悪戯っぽい視線だ。

「舞姫様に手ずから、髪を乾かしてもらってるからな。どこぞの王様になった気分だ」

「そんな、大袈裟です」

 苦笑した彼女の左薬指には、シトリンをあしらった白金の指輪がはめられている。

「わたしはレイさんの婚約者です。これぐらい、お世話させてください」

「ん。ありがとな」

 喉を鳴らし、ディングレイは笑った。そしてぐい、とやや強引に振り返る。


 ケーリィンは今度こそ手を止め、彼と目を合わせた。大きな瞳がぱちくり、とゆっくりまばたきする。

「レイさん、どうしました?」

「ん? お礼」


 そう言ってニッと笑った彼の、大きな手がケーリィンの後頭部へ回される。そのまま優しく、彼の方へと引き寄せられた。

 二人の距離が近づき、彼女の金色の目がなお一層丸くなる。

 ケーリィンと目の合ったディングレイが、つ、と視線を落とした。


 そして彼女のつややかな唇を軽くむようにして、口づけが落とされる。

 濡れた口づけの感触と、唇にかかる吐息を認識した途端、ケーリィンは耳まで真っ赤に染まった。


「レっ、レイさん!」

 裏返った声を上げると、してやったりとディングレイは歯を見せて笑う。

「悪ぃ、怒ったか?」

 言葉に反して悪びれた様子もなく、彼女の髪を指に絡めて遊んでいた。

「怒ってはいないですが……びっくり、しました」


 ケーリィンはしばらく目を白黒させていたものの、キスの落とされた唇をそっと撫で、ほんのり困ったように微笑む。

「だって急なんですもの」

「ま、そこは髪の礼と、今日の激励も兼ねてるからな」

 ケーリィンと額を重ね、ディングレイはそう言い切った。

「今日の……あ」

 視線を上に向けた後、ケーリィンは小さく声を上げた。そして苦笑した。


「そういえば今日、大掃除でしたね」

「そういうこと」

 ディングレイも似たような苦笑いを浮かべる。


 今日はこれからロールドの引っ越しのための、離れの大掃除が待っているのだ。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?