ノワービス市の元舞姫が引き起こしたマルコキアス騒動と、それに続く死霊騒動にもめげず。
今日はシャフティ市全体が、お祭り一色になっている。収穫祭が開かれているのだ。
市の中心にある広場では、楽団の生演奏によるダンス会場が設けられ、広場周辺や街のあちこちには、多種多様な屋台も出店されている。
市長からの資金援助に加え、旅行雑誌でも収穫祭の案内記事が掲載され、おまけに新聞で (ディングレイの恫喝も手伝って)大々的な宣伝を打ってもらった甲斐もあり、屋台の数も来訪者数も近年稀にみる盛況ぶりであった。
夜になっても街は、陽気な笑い声と軽快な音楽に包まれている。
市内のあちこちには、ぶどうを模したランタンも設置され、祭に浮き立つ心を明るく照らしていた。
普段と異なる晴れ姿の街を好奇心に輝く瞳で見て回りながら、ケーリィンとディングレイは帰路についていた。
これだけ人でごった返しているため、車は使えない。代わりに路面電車へ乗る。
祭をお開きとするには早い時刻のため、乗客は二人だけだった。
「足って、こんなに重くなるんですね」
ふくらはぎをさすりながら、ケーリィンは困り顔で笑った。
「もみくちゃにされてたもんな、あんた。お疲れさん」
ディングレイも苦笑を浮かべ、彼女の頬を撫でる。
ケーリィンの髪は張り切ったエイルによって、ピンやリボンで豪奢に飾り付けられていた。おかげでケーリィン本人ですら、おいそれと触れない状態だ。
路面電車の窓から眺める収穫祭の光景は、とても暖かで楽しげだ。
しかし繁栄祈念の舞を披露した後、市民や飛び入り参加の旅行客からひっきりなしにダンスを申し込まれたケーリィンの足は、棒を通り越して石と化している。
何人と踊ったのか、途中から数えるのを諦めた程だ。
「でも良かったのか? 屋台もろくに見ちゃいねぇだろ?」
うっとり彼の手に頬ずりしていたケーリィンは、この言葉で我に返る。気恥ずかしさで赤くなった頬を、慌てて両手で隠した。
隠しつつ、隣のディングレイを見上げた。
「踊りの前にあちこち回ったので、大満足です。レイさんこそ、見て回らなくて大丈夫でしたか?」
ケーリィンの恋人である以前に護剣士の彼は、彼女のお供として祭に参加していた。
「もしかして、見たいお店があったんじゃ」という疑念でつい、不安が芽生える。
それが彼女の顔にも出ていたらしく、ディングレイがニヤリと笑った。
「牛串と、酒にはありつけた。俺にとっちゃ、それで大満足だ」
「レイさんは、ぶれないですよね」
浮かれポンチな市内においても平常運転を継続している彼に、ケーリィンは半ば呆れつつも感心する。
感心していると、不意に鼻をつままれた。
「ぴゃっ」
「平常心は護剣士に必須なんだよ」
悪い笑顔の彼を見上げていたケーリィンは、ふと、心の底にわだかまっていた悔いを見つけた。
悔やむ気持ちが大きすぎて、かえって気付けなかったようだ。
「……心残りが、一つありました」
「ん? なんだ?」
「レイさんと、踊れなかったことです」
そう。あれだけ練習したのに、市民や旅行客を優先するあまり、本命と踊れず仕舞いだったのだ。
抱え込んだ無念を伴ってケーリィンがじぃっと見つめれば、ディングレイの顔がにわかに強張った。照れているらしい。
褐色の肌も、目を凝らさずとも赤らんでいた。
「……まあ、俺も身辺警護で忙しかったしな。うん……悪かった、リィン」
「ううん。怒ってるんじゃないんです。皆さんと踊るのは楽しかったけど、ちょっと残念だなぁって」
控えめにケーリィンの手の甲を撫でる、彼の大きな手を優しく握り返した。
そこで電車が神殿前の停留所に到着した。こういう時、観光名所 (と呼ぶには、あまりにもコンパクトだが)に住んでいるとありがたい。
ディングレイの先導で、運転手に礼を言いつつ地面へ降りる。
ロールドはまだ祭に興じているため、神殿の窓は真っ暗だった。
周囲の家屋も等しく無人なのか、辺りは真夜中のように静かだった。聞こえるのは虫の鳴き声と、そして、遠くから微かに届く楽団の音色だけだ。
「よし」
周囲を見渡し、通り過ぎる電車を見送って、ディングレイは呟いた。
「ダンスは来年の課題だな」
「え?」
「舞姫と踊りたい連中は、整理券で人数制限するか。ダンス会場の入り口に受付を作ってりゃ、土地勘がねぇ観光客も文句言わねぇだろ――ついでに、案内地図を刷ってもいいな」
なんとも具体的だ。
ふとしたぼやきから、来年に向けての改善案が生まれつつあり、ケーリィンはあわあわと戸惑う。
「あの、そこまでしなくても」
「いや。今回は俺たちの見通しも甘かった。おかげでリィンに不審者が近づかねぇか、警官とあちこち見回る羽目になったんだ。無駄な労力を割くのは、俺の趣味じゃねぇ」
踊りに疲弊するケーリィンの傍らで、ディングレイも心労が溜まっていたらしい。申し訳ないことをした。
だから、とディングレイの指がケーリィンの
「来年は運営側の特権で、俺が一番にあんたと踊るからな」
「はいっ」
次の年も変わらず隣にいてくれるという約束が、ケーリィンにとって何よりも嬉しかった。
笑い返すと、ランタンの淡い光を映す空色の瞳に、一瞬真剣な色が差し込んだ。
同時に筋肉を纏った硬い腕が、ケーリィンの背に回り込んで抱き寄せられる。
「レイ、さん?」
驚きと緊張でかすれた声にぎこちなく笑いつつも、ディングレイは彼女を解放しない。
代わってためらいがちに、顔を寄せた。
理性よりも直感で、ケーリィンもこの後の流れを察する。
察すると同時に頬や耳が熱くなり、胸は早鐘のように脈打った。
だが、ケーリィンも彼の抱擁から逃げようとはせず、静かに目を閉じた。ヒールの高い靴を履いていて良かった、とは考えたが。
彼女が受け入れてくれたと察し、ディングレイの薄い唇がケーリィンのものに重なる。
聖域で少女向けの恋愛小説を読んでは夢想していたものよりも、唇の感触は柔らかで温かい。彼の体温が
ディングレイは角度を変えて、少しずつ深くなる口づけを繰り返した後、名残惜しげに顔を離した。
ケーリィンも微かな欠落感につい、縋るように彼の瞳を見つめた。無意識に甘い吐息もこぼす。
見つめ合い、片方の口角を持ち上げたディングレイが額をくっつけた。
「やっぱり甘いんだな」
「え……? 甘い、ですか?」
「うん。リィンは唇も甘い」
「へっ、へんなこと言わないでっ」
そう言い切る彼の眼差しと声音こそ、平素になく甘々しい。
ケーリィンは気恥ずかしさで、むき出しの胸元まで真っ赤に染めた。
「じいさんが読んだ論文には書いてねぇのか? 唾液も魔力で甘くなるとか」
「だっ……知りません!」
ケーリィンは顔を離して明後日の方向をにらむも、彼の指がふにふにと、彼女の唇を撫でた。むずがゆい感触に、ケーリィンのしかめっ面がつい緩む。
「それ、止めてください。くすぐったいです」
「仕方ねぇだろ、柔らかいし触り心地最高なんだよ。これが卵肌ってヤツか?」
どこか開き直った言い分に、ケーリィンはふふ、と笑い声を零す。彼女を見下ろすディングレイもはにかんだ――と思った刹那、それが無表情に変わった。
同時に、二人の周囲で冷気が渦巻く。
事態が掴めず戸惑うケーリィンを、ディングレイは隠すようにきつく抱きしめて神殿の入り口を
すると彼の足元から神殿へと向かって、地面を覆う氷が瞬く間に形成される。
白煙のごとき霧と軋む音を伴って伸びる氷の道は、神殿の扉を潜り抜けて内部にまで及び、
「いったぁ!」
無人のはずの神殿内から、聞き慣れた若い男性の悲鳴が聞こえた。