ディングレイがケーリィンとロールドを、そしてリズーリがレーニオとフォーパーを抱え、神殿の外へと退避する。
彼らを追うように、ヴァイノラから湧き出た黒い霧も神殿の外へと広がり始める。
地面を覆い隠すほどに流れ続ける霧の水面が、かすかに波打った。
――と思った瞬間、土気色の人らしきものが一体、また一体と霧をくぐって現世へ呼び出される。
「うわぁ、おばけだ!」
通りがかった通学途中の子どもたちよりも早く、レーニオが悲鳴を上げた。
しかし「おばけ」と呼ぶには、いささか怖すぎる面相ばかりである。
「こっちに来ちゃ駄目です!」
「お、お姉ちゃん……あれ、ユーレイなの?」
「わたしにもよく分からないです! でも、きっと危ないから、早く逃げて!」
幽霊よりも、いつになく必死な舞姫の気迫に圧されつつ、彼らは素直にコクコク頷く。
そのまま回れ右をして、全力疾走で来た道を戻った。
「昨日のマルコキアスも、この臭いにつられてやって来たクチか――おいオッサン! 野次馬してんじゃねぇ、家に引っ込んでろ!」
舌打ち交じりにぼやいたディングレイが、ごみ捨てにかこつけて顔を覗かせたご近所さんも追い払う。
「平和ボケにも程があるだろ、こいつら」
ため息を吐いた彼は、軍服のポケットから術札を取り出した。
そして、自身の背に庇うケーリィンを見る。
「リィン、祓いの舞は踊れるか?」
「や、やってみます!」
祓いの舞は治癒の舞よりも、ずっと高度な代物だ。いや、最も難解な舞かもしれない。
もちろん踊りに要する時間も、群を抜いている。
だがケーリィンは、無理だと尻込みする弱気をねじ伏せた。
ディングレイが頼ってくれているのだ。それは彼女にとって、どんな励ましよりも勇気をくれる。
言葉だけでなく、出来るだけ凛々しい顔を作り、こくりと彼へ頷き返した。
ディングレイは不敵に笑い返すと、術札でケーリィンとロールドの周辺に死霊除けの結界を張る。
「出来るだけ、舞い終わるまでの時間は稼ぐ。頼んだぜ」
「はい!」
彼女の応答を背に聞き、ディングレイは霧の生み出す異形と向き直った。
ボロ雑巾じみた見た目に反して、死人の動作は俊敏だ。ディングレイ目がけ、素早く走り寄る。
ディングレイは慌てる様子もなく身をかがめ、ふてぶてしい笑みのまま片手を地面へ重ねた。
その刹那、死霊たちの足元へ氷の杭が次々と出現する。
瞬く間に串刺しとなった悪霊は無言のまま、杭から逃れようと蠢いていたが、やがて全身を氷に覆われ、動きを止めた。
容赦のない的確過ぎる攻撃から、ディングレイの本気と怒気が垣間見える。
ケーリィンはロールドとぶつからないよう距離を取り、軽く腰を落とした。
次いで膝のばねを使って伸び上がりつつ、その場でくるりと円を描いて祓いの舞を始めた。
その間もリズーリが水で大蛇を作り上げ、霧もろとも死霊たちを飲み込む。
「邪神側に身を堕とすなんて、前代未聞の舞姫ちゃんだよねぇ。こりゃ先代ちゃんも敵わないかもしれないね、うん」
呑気な笑顔を取り戻した彼の指の動きに合わせ、大蛇が縦横無尽に暴れまわった。
彼と、そしてディングレイの魔術から逃げおおせた死霊たちも、わずかにいた。
彼らは何故か一糸乱れぬ動きで、レーニオ目掛けて殺到する。
「なんでなんですか! 僕ぁ、人畜無害じゃないですかぁぁぁー!」
昨夜に続いてのこの災難に、レーニオは本気で泣いていた。しかし幸い、今日は彼にも援軍がいた。
レーニオに肉薄する死霊たちを、ドレス入りの箱を脇に抱えたフォーパーが一撃粉砕する。
「キエェェェーイッ! このドレスには、指一本触れさせぬぞ!」
竜神様のウロコをも砕いた拳は、霊たちにも重すぎたらしい。
だが、守っているものはあくまでも己の作品で、レーニオの護衛はおまけのようだ。
「……意外性の塊みてぇなオッサンだよな」
「漂うダメ人間オーラで化け物を惹き付けるレーニオ君と、良いコンビだよねぇ」
呆れ顔のディングレイと、陽気に笑うリズーリはそれでも、囮役と迎撃役のおかげで昨夜よりも軽快に動けた。
だが悪霊と、それを召喚する黒い霧は途切れない。
おまけに霧の震源地であるヴァイノラまで、神殿の外へと出て来た。爛々と赤く光る目を見開いた彼女が一吠えすると、途端に霧の濃度が上がり、亡者たちの数も倍増した。
ちっ、とディングレイが舌打ちを零した。
悪臭と黒に浸食された地面が、その時薄く光り始める。
真っ白な光を灯した大地から色とりどりの花々が芽を出し、すぐさま開花した。
祓いの舞によって生み出された、奇跡の結晶だ。
花に触れた霧は消え失せ、死人たちも声なき叫びを上げ、一体残らずたちまち浄化される。
自身も光り輝くケーリィンは、一心不乱に舞を続ける。
彼女へ視線を寄越した男たちは、彼女の動きに合わせて涼やかな音が鳴り響き、同時に花が咲き乱れる光景に見入った。
「先々代ちゃんの、アーティオちゃんの生き写しみたいだね」
ぽつり、と懐かしそうにリズーリが呟く。
ケーリィンの近くに控えるロールドも、周囲の惨状をしばし忘れて彼女を見つめた。
「この子が来てくれて……ワシらは、果報者じゃ」
舞いによって周囲を浄化し続けるケーリィンへ、黒い霧を纏ったヴァイノラだけが悪意をぶつけた。
「邪魔するなぁぁぁぁ!」
魔獣の如き咆哮が、空気と地面を震わせた。それは複雑なステップを編んでいた、ケーリィンの足元をも揺るがせる。
「あっ……」
「リィン!」
バランスを崩した彼女が小さく声を上げるのと、結界に滑り込んだディングレイが転倒したケーリィンを受け止めるのと、そして光る花々が消え失せるのはほぼ同時だった。
可憐な花々はあっけなく消えるも、それで終わるほどケーリィンの失敗は微笑ましくない。
消えた花の代わりに、ヴァイノラのすぐ近くの地面がボコボコと、不気味極まりない音を立て始めた。
煮詰まったスープを彷彿とさせる、不可解な動きを見せた地面から噴出したのは、毒々しい赤地に黄色い斑点柄の巨大な謎花だった。
「ひっ……」
黒い霧の塊になり、ついでに目も赤々と変色しているヴァイノラだったが。
謎花の不気味さには、乙女心を取り戻してつい後ずさる。
しかし謎花は、そんな乙女仕草を許さなかった。奇怪で不気味な外観だが、祓いの舞の
ぶるり、と肉厚の花弁を揺らした謎花の中心から、粘液にまみれた謎蔓が何本も飛び出した。
謎蔓たちは空を切る音と共に、一糸乱れぬ動きでヴァイノラへ突撃した。
「いやああああ!」
蔓に拘束されたヴァイノラが、邪神の子らしい野太い悲鳴を上げる。
「うおぉー! これ、エッチな漫画で見たシーンだ!」
真っ先にレーニオが鼻の穴を膨らませ、興奮した。
しかし生産者がケーリィンであるためか、謎花はヴァイノラの服をひん剥いたり、ハレンチポーズを取らせることはしなかった。緩すぎず、締め付けすぎずの力加減で、丁寧に簀巻きにしていく。
凶悪な外見に反して、随分とお行儀はいいようだ。
「相変わらずリィンの失敗は、えげつねぇな」
ケーリィンを膝に抱えたまま地面に座るディングレイが、どこか遠い目でヴァイノラを眺めている。
その言葉にリズーリも、うんうんと頷いた。
「でも絞め殺さない匙加減に、ケーリィンちゃんの優しさを感じるねぇ」
ケーリィンの側にしゃがみこむロールドは、蔦からしたたる粘液に眉を寄せた。
「触ったらかぶれそうじゃのう……ワシ、お肌が弱いんじゃよ……」
ドレス箱を抱えなおしたフォーパーは、謎花を睨んで地団駄している。
「ああ! 素晴らしい巨大花なのに! 何故、何故スケッチブックを持参しなかったのだ、私! 仕立て屋フォーパー、一生の不覚!」
皆、全体的に呑気である。ヴァイノラを拘束した途端、亡者の無限増殖も止んだためか。
しかし当のヴァイノラはまだ黒い霧を放っているので、ディングレイの膝から降りたケーリィンが代表して、彼女へ呼びかけた。
「あの、ヴァイノラさん!」
なんだコラ、と威嚇十分の眼差しがケーリィンに注がれる。しかし簀巻き状態なので、威圧感は無に等しい。
ケーリィンも彼女の真っ赤な眼光を見つめ返し、言葉を続けた。
「舞で奇跡が起こせるから、大事にする……それじゃあわたしたちは、金の卵を産むガチョウと同じ存在だって、言われているようなものだと思いませんか?」
「……何が言いたいのよ」
くぐもった唸り声で、ヴァイノラが応じた。
彼女が聞く耳を持ってくれたことに、ケーリィンは微かに安堵する。表情も少し和らいだ。
「ノワービス市の暮らしは窮屈かもしれないけど、そこにはきっと、ヴァイノラさんを思っての窮屈さもあると思うんです。だってヴァイノラさんは、ガチョウじゃなくて人だから。街へ来てくれたヴァイノラさんが幸せになれるよう、皆さん心を砕いてくれるはずなんです」
「……だから?」
「はい。だから、わたしたちの本当の仕事は、そんな街の人たちの気持ちを大事する――それだけなんだと思うんです。そうすればきっと、お互いに好きになれますもの」
街の人との絆やつながりを大切にすれば、自ずと街への愛も生まれるはずだ。
ヴァイノラへ舞姫の本当の役割を告げた人も、それを願って苦渋の決断をしたはずだ。
ヴァイノラの赤い目が、不機嫌そうに細められた。
「そんなものを有り難がるぐらいなら、ガチョウ扱いで良いわよ。面倒くさい」
「本当ですか? 要らなくなったら殺されても、文句言えませんよ。だって家畜ですから」
「……」
「それに……自分のために魔力を使うヴァイノラさんは、ちょっと変な臭いがします」
言うべきか迷いつつ、ケーリィンはやんわりと異臭の事実を告げた。
それなのに。
「だな。腐った牛肉みてぇな匂いがしやがる」
「僕は飲んだくれの叔父上が住んでいる、ドブ川に似ている気もするなぁ」
「ドブ川ってか、苔だらけの水槽の水っぽくないですか? 昔飼ってたザリガニの水槽が、似たような臭さでしたよ」
「いやいや、これは生乾きの靴下の匂いに違いないぞ。証拠は私の、両の足だ」
「うーん……ワシは、痛んだ玉ねぎのような気が」
ケーリィンの優しさオブラートは、他の連中によって全力で破られた。
仕方がない、これだけ色々荒らされたのだ。彼らも怒って当然である。
だからケーリィンも、年頃のヴァイノラが異臭のたとえにどんどん戦意を失い、ついには黒い霧も失って、さめざめ泣く様子を静観していた。
彼女も実のところ憤慨中だったので、そこまでフォローする義理も感じなかったのだ。
それに、とにかく臭いのは純然たる事実だ。ケーリィンとしては、発酵させたニシンの塩漬け臭に近いと主張したい。