「創作意欲が湧かないって、どういう意味なのよ!」
目を吊り上げたノワービス市の舞姫に怒鳴られているのは、いつか見たものとは違うネグリジェ姿のフォーパーであった。
一体彼は、寝巻を何着持っているのだろう。知りたいような、知ると怖いような。
あちこちにリボンが巻かれたエレガントな寝巻とは対照的に、フォーパーの表情はどこまでも不機嫌で硬い。
「申し訳ないが、君は性根の悪さが全身からにじみ出ている。そういう相手に似合うドレスなんて、思い浮かばんよ」
「しょっ……」
「ああ、だが、そうだな。悪の将軍っぽい、竜骨で作った鎧なんかが似合うんじゃないかね。肩幅も広いし」
両肩を手で覆い隠しながら、ヴァイノラは顔を真っ赤にする。
「はぁッ? 何よそれ! 聖域では、紫の薔薇の君と呼ばれていた私を、どこまで馬鹿にするつもりなのよ!」
自分で名乗って恥ずかしくないのか、と聞いているケーリィンが羞恥してしまう二つ名だ。
そもそも、そんな呼び名は聖域で聞いた覚えがない。
だが、そこはフォーパー。反応はやはり斜め上。
「なぬ、紫ババアだと! 貴様、東方の魔物だったのか!」
目を見開いて驚愕する彼に、ヴァイノラの口調も粗野さに磨きがかかる。
「ふざけんな、クソオヤジ! 誰が魔物だ!」
唾をまき散らして叫んだ彼女は、羽織っていたボレロの内ポケットから、術札を取り出した。
昨夜の己のやらかしを思い出したことでハッとなり、ケーリィンは大慌てでヴァイノラへ駆け寄る。
魔力が無尽蔵の舞姫が、激高した状態で魔術を使うだなんて――命知らずな上に、とんだ大馬鹿野郎である。
「落ち着いてください、ヴァイノラさん!」
彼女の腕に取りつくも、猛烈な抵抗に襲われた。
「うるさい! 指図するな!」
「ぅわっ……」
暴れるヴァイノラの肘が、ケーリィンの顔に命中する。
鼻先へ与えられた鈍痛に、たまらず彼女を拘束していた腕も緩む。幸い、鼻血は出ていないようだ。
「ケ、ケーリィンちゃん!」
「大丈夫かね!」
レーニオとロールドが、青い顔で悲痛な声を上げた。
両手で鼻を抑えるケーリィンは、涙目で二人へ笑いかけようとするも、それより早くヴァイノラに襟ぐりを掴まれた。
首を絞めかねん勢いで、レースのあしらわれたスタンドカラーを握りしめられる。
そのまま、ガクガクとヴァイノラに揺さぶられた。
「何なのよ、あんた! 私とあんたじゃ、生まれが違うの! あんたなんて、親も分からない卑しい孤児じゃない! なのになんでっ! せっかく自由な世界に出られたのに、あんただけ美味しい思いをして、私は檻の中なのよ!」
鼻と首への痛みで、ヴァイノラの訴えはケーリィンに半分も伝わらなかった。
ただそれでも彼女が現状に不満を持っており、ケーリィンに八つ当たりをしていることだけはよく分かった。
「ヴァイノラさんが、窮屈な思いをしてるのは……わたしのせいじゃ、ありません。あなたが、皆さんを、大事にしないからです」
浅い息で、とぎれとぎれにそう伝える。ピクリ、と眉を跳ねさせたヴァイノラの手から、わずかに力が抜けた。
ケーリィンはそれを見逃さずに、ぐい、と彼女の広い肩を押して距離を取った。
しかしすぐさま、平手打ちが追いかけて来た。左頬に熱い痛みが走る。
「訳知り顔で説教するな! 護剣士たぶらかした
ドスの利いた悪罵と頬への痛打に、ケーリィンは唖然とした。二人を見守る男衆も、呆気にとられる。
そのためヴァイノラが再度術札を掲げた時にも、すぐに反応できなかった。
濃厚な魔力が、タロット大のカードへ無遠慮に送り込まれる。
いけない、と思った時には術札から炎が立ち昇っていた。
が、それは術札もろとも、たちまち凍り付いた。
ぱきん、と硬質な音を立てて四散したカードに、今度はヴァイノラが目を見開き固まる番だった。
「誰が売女だ、おい」
術札を凍らせて、驚愕するヴァイノラを恫喝するのはディングレイだった。
階下の騒ぎを聞きつけ、大急ぎで降りて来たらしい。シャツのボタンは上二つが留まっておらず、無精髭も手つかずのままだった。
ギッと彼を睨み返したヴァイノラが、ボレロから二枚目の術札を取り出す。しかし魔術が完成するよりも早く、再度ディングレイが手をかざした。
詠唱も術式も用いず、瞬く間に再度凍らされた術札の残骸を見て、ヴァイノラは頬を引くつかせた。
「あ、あんた何なのよっ……」
「護剣士だっつってんだろ。若いのに、もうボケちまってんのか?」
冷笑を浮かべて彼女に肉薄したディングレイは、ケーリィンの仇討ちとばかりに、彼女の頬を平手で一つ打った。
ヴァイノラの一打とは比べ物にならない、乾いた破裂音が食堂に響き渡った。
「うっわぁ……痛そー……」
ディングレイからの鉄拳制裁を経験済みのレーニオが、真っ白な顔で小さくつぶやいた。
彼の言葉には反応せず、ディングレイは無表情にヴァイノラを見据えた。そのまま淡々と告げる。
「あんたが聖域で、どんだけ優等生だったか知らねぇがな。田舎は嫌だと、こちらの申し出を蹴ったのも、ノワービス市に飛びついたのも、全部あんた自身だろ。少しはてめぇの決断に、責任を持っちゃどうなんだ?」
「……」
黙りこくったヴァイノラが、きつく奥歯を噛みしめる。
二人の応酬に、すっかり痛みも忘れていたケーリィンだったが、ディングレイに突然腰を抱かれて我に返る。
「レ、レイさん?」
彼の真意が分からず、赤い顔でオロオロする彼女を、なおもディングレイは抱き寄せた。腕の中にすっぽりと小さな体を納める。
「それからな。リィンがたぶらかしたんじゃねぇ。俺が惚れこんで、この子をたぶらかしたんだ。順番間違えてんじゃねぇぞ、タコ!」
突然の魚介類宣告に、ヴァイノラの顔は人生初レベルで歪み、硬直した。
一方のケーリィンも、自分の方がタコ──それも茹で終わったタコではないか、とディングレイに抱きしめられながら思案する。
次いで、いつ惚れられていたのだろう、と。
味は旨いが、見た目は魔物と大差ない軟体動物呼ばわりされた「紫の薔薇の君」は、とうとう涙ぐんでしまった。だが、それでも一矢報いようと、ケーリィンを鼻声でせせら笑う。
「ケーリィンさん、ご存じでして? あなたを愛していると宣言したこの男もね、我が身可愛さでそう言っているだけなのよ?」
優雅な口調を取り戻した彼女の、トゲと毒にまみれた言葉を、ケーリィンは静かに受け止める。
彼女の言わんとしていることが分かったので、不思議と苦々しさは感じなかった。
「舞姫は自分の街を愛さないといけない、ということですよね。皆さんから聞きました」
「……は?」
せせら笑いも忘れ、ヴァイノラが再び石となる。
彼女は強張った顔で、震える声を絞り出した。
「知っててどうして……平然としてんのよ? あんた、馬鹿じゃないの? たかが仕事のために、こっちの感情までいいように扱われてるのよ?」
ケーリィンはゆるゆると首を振った。
「街の皆さんはわたしたちが街を好きになれるよう、わたしたちを愛そうとしてくれます。だからわたしも、皆さんを愛したくなっただけです」
この言葉で、彼女を抱きしめるディングレイの腕に力がこもった。見上げると、少しむずがゆそうに笑う彼がいた。ケーリィンもはにかみ返す。
「仕事なんて関係なく、優しくしてくれたら優しくしたい――これは舞姫じゃなくても、誰だってそうじゃないですか?」
ど真ん中目がけて放たれた正論が、とうとうヴァイノラの心を木っ端みじんに粉砕した。
心が砕けた瞬間、彼女から異臭が漂う。
初めは何かが焦げ付いたような、鼻腔をかすかに刺激する程度の代物だった。
だが匂いは、留まることを知らぬとばかりに悪臭の度合いを強め、あっという間に腐臭へと変貌する。
たまらず、ケーリィンたちは両手で鼻を覆う。
悪臭が強まると同時に、黒い霧がヴァイノラの足元から湧き上がった。
「いちいち、いちいち……うるさいんだよ! すぐ良い子ぶるお前なんか……っ、お前なんか、大嫌いだッ! 死ねッ!」
平和を祈るべき存在の舞姫が、他者の不幸を祈念する。
それは、「神の子」から「邪神の子」へと変貌する引き金となったようだ。