七時を半ばまで過ぎたのに、ディングレイはまだ起きて来なかった。いわゆる寝坊である。
ロールドによれば、彼がシャフティ市に赴任して以来、初めての珍事だという。
朝食の準備がひと段落したところで、ケーリィンは彼の部屋に行くのを買って出た。
「熱が上がっているかもしれませんし、レイさんの様子を見に行ってもいいですか?」
「もちろんじゃよ。ケーリィンちゃんが行けば、あいつも喜ぶじゃろう。目覚まし代わりに、チューでもしてやっておくれ」
「そっ、そんなことっ……」
悲しいかな、しないとは言い切れない。なんと自分は俗物なのか。
「配膳は、レーニオ君にでも手伝ってもらうから。こっちのことは気にせず、ゆっくりしておいで」
「はい……」
ロールドの後押しに、盛大な照れとむずがゆさを覚えるも、ケーリィンはそそくさと階段を上がった。
彼の部屋の前でしばし逡巡の末、控えめに扉を三度叩く。
しかし中から返事はおろか、物音すら聞こえて来なかった。ケーリィンは腹を括り、今度はドアノブに手を伸ばす。幸い、鍵は掛かっていなかった。
「レイさん、朝ごはんですよー」
薄っすら開けた扉から顔だけのぞかせ、小さな声で呼びかける。
カーテンの閉じられた仄暗い部屋は、しんとしていた。
耳をすませると、かすかな寝息だけが聞こえて来た。ディングレイが起きる気配もないので、少々気が引けるが中へ入る。
ケーリィンが枕元まで近寄ると、彼の穏やかな寝顔が見えた。昨日の、痛みと熱に歪む苦悶の表情とは大違いである。
しげしげと、なかなか見られない寝顔を見つめていると、視線がつい形の良い唇へと向かってしまった。
途端、先程のロールドの言葉が脳内で反芻され、知らず全身が熱くなる。
ケーリィンは頭を抱え、
(何を考えているの、ケーリィン!)
と自らを罵倒するものの、思考は止まらず。
そして芋づる式に昨夜の出来事もまざまざと、恐ろしいまでの鮮明さで蘇った。
好きだ、と言ってくれた時の存外可愛らしい、ディングレイのはにかんだ笑みも。
甘えるようにもたれかかって来た、体温も重みも。
絡めた指の力強さも。
だが、その記憶を思い返しても、ケーリィンの中に嫌悪感や恐怖心はなかった。あったのはただただ、歓喜や幸福や恋い慕う想いだけだ。
それは相手が、ディングレイだったからだろう。
ケーリィンは深呼吸して、気持ちを切り替える。
彼の寝顔に懊悩するため、部屋を訪れたのではない。彼女は寝坊したディングレイを、起こしに来たのだ。
その前に念のため、彼の額へ手を乗せる。
昨夜ディングレイを蝕んでいた熱は、やはり鎮火した模様だ。
続けて触れた頬も朝の空気にさらされて、むしろ少々ひんやりとしている。
ケーリィンはホッと息をつき、安堵で表情を緩めた。
が、すぐさまその顔は強張った。
眠っている彼に何と勘違いされたのか分からないが、手のひらに思い切り頬ずりされたのだ。
慌てて手を離そうとするが、素早く捕まえられ、なおもグリグリ顔を押し付けられる。
うっすらと生えたあご髭が、皮膚を突いてくすぐったい。
行動の意図は全く不明だが、気恥ずかしいことだけは確かである。
「レ、レイさん! ちょっと……もっ、起きてください!」
ケーリィンはたまらず、裏返った声と自由な左手で、彼を揺さぶった。
やや乱暴に揺さぶり続けると、ディングレイのまぶたが半分ほど持ち上がり、薄氷にも似た瞳がぼんやり周囲を見渡す。
そしてケーリィンを見つけ、次いで自分が握りしめているものに気付き、
「うおっ」
低く叫んだ彼は、慌てて飛び起きた。
寝癖で平素以上に自由奔放な髪をかき回したディングレイは、何ともばつが悪そうに視線を落とす。
薄暗い室内や褐色の肌色でも隠せないほどに、顔も赤い。
「……悪ぃ。夢で、蜂蜜ん中に顔を突っ込んでた」
ケーリィンは「あなたはクマか」と、言いたくなるのをぐっと堪えた。
「い、いえ……蜂蜜、好きなんですか?」
その代わりにぎこちない作り笑いで、話題の軌道修正を図った。
「いや、蜂蜜が……というか、あんたの匂いが……」
しかし逆効果であった。
これが墓穴を掘るということなのか、とケーリィンも再び頬を染め、力なくうなだれる。
そのまま一分ほど、お互い視線を落として沈黙していたが、先にディングレイが立ち直った。
「そういや、なんでここにいるんだ?」
「あっ」
ケーリィンは本来の目的を思い出し、混線する思考を大慌てで整理する。
「そうでした! レイさんが起きて来ないので、心配になって来たんです。具合はどうですか?」
「痛みは殆どねぇな。熱もなさそうだ」
己の額と、耳下のリンパに触れ、ディングレイはニッと笑う。
「リィンのおかげだな。こんなに早く回復したのは、初めてだ」
「良かったです」
昨日からの不安が解消され、ケーリィンもはにかむ。
「食欲はありますか? まだ本調子じゃないなら、お粥でも作りますよ」
「ヒヒイロカネの定着で、かなり体力を持ってかれたみたいだ。むしろ、肉が食いたい」
病み上がりとは思えぬ要求に、ついケーリィンは噴き出した。
「おじいさんも、そう言うはずだって言ってました。だからビーフシチューと、ローストビーフのサンドイッチを作ってます」
「茶色い食卓とか、天国かよ」
ディングレイはしみじみと感嘆した。何とも慎ましい天国である。
「でも、お野菜もちゃんと食べてくださいね。消化しやすいよう、蒸して温サラダにしていますから」
「うー……」
「食べますよね?」
「……うん」
油断すると肉ばかり食べかねない護剣士に、ケーリィンはしっかりと釘を刺す。
偏食家な一面があるディングレイは渋い表情を浮かべるも、不承不承と頷いた。
偏った食生活の割に肌艶も良く贅肉もないのだから、羨ましい限りである。
これがホムンクルスの本気だろうか。
身支度するディングレイを部屋に残し、ケーリィンは先に食堂へ戻った。皆、食事はもう始めているはずだ。リズミカルに階段を下りる。
彼が元気になったら、何だか自分の気持ちも上向きになった。なんて単純なんだ、と彼女は我が事ながら少々呆れてしまった。
「何ですって! あなた、私を馬鹿にするつもりなの!」
だが、浮かれた彼女が食堂へ戻ると、予想外の怒号に迎撃された。あまりの修羅場ぶりに、ケーリィンは入り口で棒立ちになる。
だがよくよく見れば、荒ぶっているのはヴァイノラだけだった。