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42:天国と修羅場

 七時を半ばまで過ぎたのに、ディングレイはまだ起きて来なかった。いわゆる寝坊である。

 ロールドによれば、彼がシャフティ市に赴任して以来、初めての珍事だという。


 朝食の準備がひと段落したところで、ケーリィンは彼の部屋に行くのを買って出た。

「熱が上がっているかもしれませんし、レイさんの様子を見に行ってもいいですか?」

「もちろんじゃよ。ケーリィンちゃんが行けば、あいつも喜ぶじゃろう。目覚まし代わりに、チューでもしてやっておくれ」

「そっ、そんなことっ……」

 悲しいかな、しないとは言い切れない。なんと自分は俗物なのか。


「配膳は、レーニオ君にでも手伝ってもらうから。こっちのことは気にせず、ゆっくりしておいで」

「はい……」

 ロールドの後押しに、盛大な照れとむずがゆさを覚えるも、ケーリィンはそそくさと階段を上がった。


 彼の部屋の前でしばし逡巡の末、控えめに扉を三度叩く。

 しかし中から返事はおろか、物音すら聞こえて来なかった。ケーリィンは腹を括り、今度はドアノブに手を伸ばす。幸い、鍵は掛かっていなかった。


「レイさん、朝ごはんですよー」

 薄っすら開けた扉から顔だけのぞかせ、小さな声で呼びかける。

 カーテンの閉じられた仄暗い部屋は、しんとしていた。

 耳をすませると、かすかな寝息だけが聞こえて来た。ディングレイが起きる気配もないので、少々気が引けるが中へ入る。


 ケーリィンが枕元まで近寄ると、彼の穏やかな寝顔が見えた。昨日の、痛みと熱に歪む苦悶の表情とは大違いである。

 しげしげと、なかなか見られない寝顔を見つめていると、視線がつい形の良い唇へと向かってしまった。

 途端、先程のロールドの言葉が脳内で反芻され、知らず全身が熱くなる。


 ケーリィンは頭を抱え、

(何を考えているの、ケーリィン!)

と自らを罵倒するものの、思考は止まらず。

 そして芋づる式に昨夜の出来事もまざまざと、恐ろしいまでの鮮明さで蘇った。


 好きだ、と言ってくれた時の存外可愛らしい、ディングレイのはにかんだ笑みも。

 甘えるようにもたれかかって来た、体温も重みも。

 絡めた指の力強さも。


 だが、その記憶を思い返しても、ケーリィンの中に嫌悪感や恐怖心はなかった。あったのはただただ、歓喜や幸福や恋い慕う想いだけだ。

 それは相手が、ディングレイだったからだろう。

 ケーリィンは深呼吸して、気持ちを切り替える。

 彼の寝顔に懊悩するため、部屋を訪れたのではない。彼女は寝坊したディングレイを、起こしに来たのだ。


 その前に念のため、彼の額へ手を乗せる。

 昨夜ディングレイを蝕んでいた熱は、やはり鎮火した模様だ。

 続けて触れた頬も朝の空気にさらされて、むしろ少々ひんやりとしている。

 ケーリィンはホッと息をつき、安堵で表情を緩めた。


 が、すぐさまその顔は強張った。

 眠っている彼に何と勘違いされたのか分からないが、手のひらに思い切り頬ずりされたのだ。

 慌てて手を離そうとするが、素早く捕まえられ、なおもグリグリ顔を押し付けられる。

 うっすらと生えたあご髭が、皮膚を突いてくすぐったい。


 行動の意図は全く不明だが、気恥ずかしいことだけは確かである。

「レ、レイさん! ちょっと……もっ、起きてください!」

 ケーリィンはたまらず、裏返った声と自由な左手で、彼を揺さぶった。


 やや乱暴に揺さぶり続けると、ディングレイのまぶたが半分ほど持ち上がり、薄氷にも似た瞳がぼんやり周囲を見渡す。

 そしてケーリィンを見つけ、次いで自分が握りしめているものに気付き、

「うおっ」

低く叫んだ彼は、慌てて飛び起きた。


 寝癖で平素以上に自由奔放な髪をかき回したディングレイは、何ともばつが悪そうに視線を落とす。

 薄暗い室内や褐色の肌色でも隠せないほどに、顔も赤い。

「……悪ぃ。夢で、蜂蜜ん中に顔を突っ込んでた」

 ケーリィンは「あなたはクマか」と、言いたくなるのをぐっと堪えた。


「い、いえ……蜂蜜、好きなんですか?」

 その代わりにぎこちない作り笑いで、話題の軌道修正を図った。

「いや、蜂蜜が……というか、あんたの匂いが……」

 しかし逆効果であった。

 これが墓穴を掘るということなのか、とケーリィンも再び頬を染め、力なくうなだれる。


 そのまま一分ほど、お互い視線を落として沈黙していたが、先にディングレイが立ち直った。

「そういや、なんでここにいるんだ?」

「あっ」

 ケーリィンは本来の目的を思い出し、混線する思考を大慌てで整理する。


「そうでした! レイさんが起きて来ないので、心配になって来たんです。具合はどうですか?」

「痛みは殆どねぇな。熱もなさそうだ」

 己の額と、耳下のリンパに触れ、ディングレイはニッと笑う。

「リィンのおかげだな。こんなに早く回復したのは、初めてだ」

「良かったです」

 昨日からの不安が解消され、ケーリィンもはにかむ。


「食欲はありますか? まだ本調子じゃないなら、お粥でも作りますよ」

「ヒヒイロカネの定着で、かなり体力を持ってかれたみたいだ。むしろ、肉が食いたい」

 病み上がりとは思えぬ要求に、ついケーリィンは噴き出した。


「おじいさんも、そう言うはずだって言ってました。だからビーフシチューと、ローストビーフのサンドイッチを作ってます」

「茶色い食卓とか、天国かよ」

 ディングレイはしみじみと感嘆した。何とも慎ましい天国である。


「でも、お野菜もちゃんと食べてくださいね。消化しやすいよう、蒸して温サラダにしていますから」

「うー……」

「食べますよね?」

「……うん」

 油断すると肉ばかり食べかねない護剣士に、ケーリィンはしっかりと釘を刺す。

 偏食家な一面があるディングレイは渋い表情を浮かべるも、不承不承と頷いた。


 偏った食生活の割に肌艶も良く贅肉もないのだから、羨ましい限りである。

 これがホムンクルスの本気だろうか。

 身支度するディングレイを部屋に残し、ケーリィンは先に食堂へ戻った。皆、食事はもう始めているはずだ。リズミカルに階段を下りる。


 彼が元気になったら、何だか自分の気持ちも上向きになった。なんて単純なんだ、と彼女は我が事ながら少々呆れてしまった。


「何ですって! あなた、私を馬鹿にするつもりなの!」

 だが、浮かれた彼女が食堂へ戻ると、予想外の怒号に迎撃された。あまりの修羅場ぶりに、ケーリィンは入り口で棒立ちになる。

 だがよくよく見れば、荒ぶっているのはヴァイノラだけだった。

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