ディングレイが地下に消え、そしてケーリィンも返り血を洗い落とすため二階に上がっている間、談話室ではヴァイノラへの聞き込みが行われていた。
幸いにして、身元だけは明らかだ。だがマルコキアスの一件もあるので、シャフティ市へ来るまでの経緯だけでも知りたい、というのがロールドの主張だった。
帰りそびれたレーニオも、それに付き合うことにする。絆創膏だらけの姿で、ロールドの隣に座っていた。
とはいえヴァイノラは神殿に入ってから今まで、むっつりと押し黙ったままだった。
重たい沈黙に音を上げたレーニオが、コーヒーの準備を口実に談話室を出る。
「ロールドさん、砂糖は要ります?」
「砂糖の代わりに牛乳を頼むよ」
「はいはい。えっと、ヴァイノラちゃんは――」
せっかく話題を振ったのに、ヴァイノラにはギロリと黙殺された。半笑いを貼り付け、レーニオはそそくさと部屋を出る。
「あ、レーニオさん」
「ケーリィンちゃん」
広間の真ん中で、湯上りのケーリィンとかち合った。
濡れた髪や艶々と上気する頬のせいなのか、それとも無防備な寝巻姿のためなのか、見てはいけないものを見てしまった気がする。
このことを知られたら、彼女を溺愛する護剣士に間違いなく殺される。
レーニオの内心の焦りには気付かず、ケーリィンはほんわかと微笑んでいた。
「遅くまで付き合っていただいて、ありがとうござ――どうされました?」
「う、ううん。えーっと……うん、ちょっと、急に首、寝違えたのかも」
「寝違え……?」
レーニオはキョトンと瞬きする彼女から、不自然に顔をそらし続けた。これも生き残るためだ。
彼は冷や汗混じりに視線を落とし、ケーリィンが抱えているタオルに気付く。
タオルと一緒に、男性物の下着やパジャマも携えていた。
「あれ、それって」
「はい、レイさんのです。帰って来てそのまま地下に行っちゃったから、必要かなと思って」
彼女は着替えを運ぶついでに、ディングレイの傷の消毒も手伝うという。
「ケーリィンちゃんってさ、偉いよね。ほんと、いい子だよね」
「いえ、そんな、大袈裟ですっ」
レーニオが感慨深くそう言えば、ケーリィンは真っ赤な顔で大いに照れまくり、足早に地下へと下りた。
彼女は相変わらず、小動物っぽくて可愛らしい。
姪というよりも、「問答無用でただただ可愛がりたい」という意味では、孫に近い存在なのかもしれない。
残念ながらレーニオは、己の両親に孫どころか、恋人すら紹介出来た試しがないのだが。
それはともかく彼女への誉め言葉は、大袈裟でも何でもない。
あんなふてくされた舞姫の相手をした直後では、どれだけケーリィンが優しくて良識がある真っ当な人柄なのか、と思い知らされる。
ただ彼女が舞姫の中では特別良い子、だとは思いたくなかった。それはもう、切実に。
世の舞姫の大半が談話室の彼女や、先代のようだと考えると――能天気なレーニオでも、胃が痛くなる。
レーニオは泥だらけのベスト越しに腹をさすりつつ、口実だったコーヒーを一応、三人分用意して談話室に戻った。
と、そこにはリズーリも戻って来ていた。
「やぁ」
離れた位置からヴァイノラを観察していた彼は、優雅にこちらへ手を振って来た。
レーニオに魔獣をけしかけた張本人であるものの、もはや彼に怒る気力はない。
そもそも怒りが持続し辛い、能天気な性格なのだ。
「すみません、リズーリ様。リズーリ様のコーヒーも、追加で用意してきますね」
淹れ立てのコーヒーを各人の前に並べ、レーニオは食堂へ引き返そうとするが
「こんな安い豆で淹れたコーヒーなんて、飲めるわけがないじゃない」
沈黙を続けていたヴァイノラが、無表情にのたまった。
全員が呆気に取られていると、彼女はそのまま席を立つ。立ち上がる際の優雅な所作と、威圧的な口調の
「もう疲れたわ。休ませていただけないかしら?」
笑っていればきっと、万人受けする美人だろうに。表情も声音も、敵意丸出しでもったいない。
どうして威嚇し続けるんだろう、と女好きなレーニオですら、素直に眉をひそめる。
なにせ男癖の悪かった先代舞姫でさえも、彼女の眼鏡に適った男性限定ではあったが、猫を被るのが非常に上手だったのだ。
また当代舞姫のケーリィンは、いつでも誰にでも、陽だまり笑顔で接している。
すっかりその笑顔に慣れてしまったレーニオにとって、ヴァイノラの存在は茨のようだ。
「かしこまりました、舞姫様。それでは客室にご案内いたします」
しかし、そこは
年の功で微笑を崩さず、ツンケン舞姫を連れ立って談話室を出た。
さすがは史上最悪と名高かった先代舞姫にも、折れずに仕えていた猛者である。
二人の姿が扉の奥に消えたところで、はぁー……とレーニオは大きなため息を吐いた。
「おっかない子ですよね……あれでケーリィンちゃんの友達って、信じられないです」
メスと言うメスに甘いリズーリも彼の軽口をたしなめず、ヴァイノラの分だったコーヒーを一口すすり、ただ静かに笑う。
「うん、美味しいね」
「そりゃ良かったです」
レーニオも牛乳と砂糖をぶちこんである、自分の分をこくりと飲んだ。
甘さと香ばしさの配分が、我ながら完璧だ。
酒屋の息子なので、彼はコーヒーの専門家ではない。おまけに甘党だ。ブラックコーヒーは毒だと信じているぐらいの甘党だ。
だがコーヒー好きの母のおかげで、淹れ方だけは熟知している。数少ない長所と言えよう。
それに、神殿の食堂にあったコーヒー豆は高級品ではないだろうが、決して安物でもないはずだ。香りがそれを証明している。
砂糖と牛乳なしでは飲めない自分が、とやかく言う問題ではないだろうが。
「そうそう。あの子、ケーリィンちゃんの友達じゃないと思うよ」
出し抜けに竜神は、微笑のままそう告げた。
アホ面で、レーニオはしばし呆ける。
「え? でも同世代で、あれですよね、同じ釜の飯を食った仲ですよね?」
「本人から、詳しく聞いたわけじゃないけど。ケーリィンちゃん、聖域で他の舞姫ちゃんたちから軽んじられていたそうだよ」
「それって、いじめ……ってヤツですか?」
レーニオは尋ねながら、思わず顔をしかめた。
彼は能天気で、周囲から「馬鹿犬」扱いを受けているが、寄ってたかって誰かをいじめる行為を楽しむほど愚かではない。
だからこそディングレイに鬱陶しがられても、神殿に足繁く通っているのだ。
彼にとってそれは、八つ当たりで傷つけてしまったケーリィンへの贖罪なのだ。
もちろん彼女を、姪または孫 (おそらく初孫だ)よろしく可愛がっているのも事実だ。
不快感を露わにするレーニオへ、リズーリは一つ頷いた。
「そうだろうね。でも、そう考えると不思議だよね。どうしてあの子はここに来たんだろう?」
「うーん……近かったから……なわけないか。だってノワービス市の舞姫ですもんね……」
外見に反して恐ろしく長生きのリズーリの中には、すでに仮説があるらしい。
しかし、悲しいかなレーニオはお馬鹿さんだ。頭を抱えて考えるも、ヴァイノラの真意を読み取れなかった。
頭をひねって唸るレーニオに構わず、リズーリは続ける。
「帰り際に、おまわり君たちから聞いたんだ。連絡取ってくれたんだって」
急な話題転換である。
首を傾げたまま、レーニオは思考を一旦止める。
「連絡、ですか?」
「うん。ノワービス市の神殿にね、君たちの舞姫ちゃんがこっちに来てますよーって。こっちに預けるお詫びに、迎えの手配をしてくれたみたい」
だがノワービス市の神殿は、慌てる素振りも見せなかったらしい。
対話球での音声通信であるため、判断材料は無論相手の声のみだ。
だが、どこか疲れたその声は、どこまでも淡々としていたという。
「舞姫ちゃんが迷惑かけたことは、平謝りしてたんだってさ。でも、おかしいよね。ノワービス市からここまで、一日近くかかるのにさ。今まで気付いていなかったのかな?」
「それはないでしょ。だって護剣士が、ゴロゴロ転がってるんでしょ?」
「うん、転がってはいないと思うけどね。寝込んでるのは、ウチの護剣士ぐらいだろうし」
それもそうか、とレーニオは笑う。
しかし、すぐにリズーリの示した疑問点について考える。腕を組み、再びうんうん唸る。
「うーん。普通ならきっと、舞姫様は元気ですかとか、こっちで何があったんですかとか、訊きますよね……いや、それより、まず探しますよね」
「うん、普通に舞姫ちゃんを心配してたらね。だけどノワービス市は、そうしなかった」
「えっと、それってつまり」
「興味ないんだろうね、あの子に」
そう薄っすら微笑むリズーリこそ、ヴァイノラに興味がなさそうだ。
だが、普段新聞を読まないレーニオだって、知っている。
ノワービス市は最近、悪い意味で世間を騒がせているのだ。
新しい市長が当選三十分後に暗殺されたり、猟奇殺人事件が頻発したり、ギャングの抗争が激化したりと、流血と死者に事欠かない街と化していた。
以前にアンシアから聞いた、「舞姫が街を嫌えば、その街に大きな災害をもたらしかねない」という話を思い出し、彼は薄ら寒さを覚えた。
ふるりと生傷だらけの体を震わせたレーニオに、「だから」とリズーリは微笑む。
「だからこそ、ここに来たんだよ」
「へっ?」
「あの子。自分が落ちぶれたなら、自分より落ちぶれている――と信じ切っている相手のところしか、逃げ場所なんてないでしょう?」
竜神の達観した言葉と、凍えるような微笑に。
先ほどの比でない寒気を感じるレーニオだった。