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39:名状しやすい間柄

 お互いにしばらく、黙りこくったまま硬直していたが。

 最初に我を取り戻したのは、ケーリィンの方だった。

「あの……消毒、手伝います」

「あ、ああ……」

 視線を外したままぷい、と処置室へ踵を返した彼女に、ディングレイはいささか面食らう。ケーリィンの声も、どこかよそよそしかった。

 ディングレイの好意を、疎ましく思っているのだろうか。


 以前に彼女から、「一緒にいると幸せ」な存在だと告げられたことはあった。

 だが、その時はお互いにまだ、恋愛感情までは掴み切れずにいた。

 ひょっとするとケーリィンは今も、掴み切れないままなのかもしれない。

 ならば彼の無神経な打ち明け話に、重苦しさや嫌悪感を覚えているのではないか。


 気まずい沈黙の中、ディングレイはケーリィンに手伝ってもらいながら消毒を行う。処置室の台に腰かけ、手足や体の前面は自力で消毒する。

 ――と思っていたのだが。

 指先から力が抜け、ぽとり、とピンセットごと消毒用の脱脂綿を取り落としてしまった。

 自覚している以上に、身体は限界に近いようだ。たまらず舌打ちを零す。


「わたしがやりますから、レイさんはじっとしていてください」

 落ちた脱脂綿へ視線を走らせ、ケーリィンは穏やかに言った。だが声は、有無を言わさぬ響きも伴っていた。


 やはり、彼女は怒っているらしい。タイミングから考えて、絶対に自分が原因であろう。

(こういう時、どうすればいいんだ?)

 とディングレイは、熱によって平時の半分も働かない頭で懊悩する。

 なにせ機嫌を損ねた好きな女性を笑わせる方法など、今まで考えたこともないのだ。

 ディングレイはかつて紛争地域で、狙撃手の的になった時以上の焦燥感を抱いていた。


「……すまん」

 だから、とりあえず謝った。悪手である気も薄々するが、これしか思い浮かばない。

 こちとら恋愛経験がゼロなのだ。

 ディングレイは焦燥感と共に、戦場で食料が尽き、毒蛇と毒虫以外の食材がなかった時以上の諦念ていねんも覚えていた。


「どうして謝るんですか」

 案の定、ケーリィンが眉を寄せて質問――ではなく詰問する。思い切りの不機嫌顔は、初めて見る代物だ。

「……さっき対話球で、惚れただの何だのと、言ってしまったので」

 ディングレイは働かない頭で精一杯、彼女が不機嫌な理由を考えて絞り出す。


 しかしそれは、てんで的外れであった。

「そのことに謝って欲しいわけじゃありません! 見栄を張りたいために、無茶をしたことに怒っているんです!」

 ケーリィンからぶつけられたのは、予想だにしなかった言葉である。ディングレイは目を丸く見開き、柄にもなく固まった。


 ぽかん、と固まる彼に構わず、ケーリィンは怒気を強める。

「あの時わたし……わたしはっ、本当に心配だったから、だから止めたのにっ!」

 後半は涙ぐみながら、彼女は嗚咽混じりに激情を吐露した。

 それでも怪我人の彼へ手を出さない辺りに、優しい心根がにじみ出ていた。


 泣きじゃくるケーリィンの頭を、ディングレイは力のない手でおずおずと撫でた。彼は台に座っているので、立ったままの彼女の顔が間近にある。

 湯上りの蜂蜜色の髪は、まだ少し湿っていた。

「悪かった、心配かけちまって。今も迷惑ばっか押し付けて、本当にすまねぇ」

「迷惑とは思ってません。どうしてわたしが、いっぱい心配したか、分からないの?」

 平素は見せないきつい眼差しが、ディングレイを貫いた。


 気後れでますます機能しなくなった脳は、すぐに白旗を上げた。

「分からん」

 悪ぃ、とディングレイは続けようとしたが、その前にケーリィンの両腕が彼の頭へ伸びる。

 そのままギュッと、抱きしめられた。

「わたしだって、あなたのことが大好きです。特別なんです。だから、辛い思いをして欲しくないんです」

 顔を包み込む甘い香りと、予想以上に豊かな胸の心地良さで、思わず聞き逃すところだった。


「悪ぃ、おっぱいに目がくらんでた。もう一回言ってくれ」

「ばかぁっ!」

 ディングレイは素直に言い過ぎた結果、今度は躊躇なく突き飛ばされた。更に頭も叩かれる。

 結構キレのある手刀だったため、かなり痛い。


「どうしてそうやって、すぐ茶化すの!」

「茶化してねぇよ。ふんわり感にうっとりしてたんだよ。で、俺が好きだって?」

「ええ、ええ、そうですよ! 情けない話ですが、すぐに人を茶化してくる、性格悪いレイさんのことが好きなの!」

 色気も可愛げもない、やけっぱちな告白である。


 だが、そんな告白も含め、涙目で自分をにらむケーリィンすら世界一可愛く見えるのだから、人の心とは不思議なものだ。

「リィン。俺も、あんたのことが好きだ」

 ディングレイが照れ笑いで返せば、彼女は怒り顔をくしゃりと泣き顔に変えて「ばか」と呟いた。


 しかし生真面目な彼女はすぐに目尻をぬぐい、一つ深呼吸をして気持ちを立て直す。

「……ごめんなさい、取り乱して。消毒の続き、しますね」

 そして再度両手を洗って、消毒を再開した。

 今度はディングレイも茶々入れなどせず、素直に従う。


 一度止血シートの交換を手伝ってくれたからか、彼女の手際は非常に良かった。ディングレイは「頭の良い子なんだな」と、改めて感じる。

 そういえば街中ですれ違う住民の、大半の顔と名前を憶えている節もあった。


 緩すぎず締め付けすぎず、適度な強さで包帯も巻かれ、ディングレイはめでたくミイラもどきに逆戻りした。

「できました……けど、これからどうします? 部屋に戻るのが辛いなら、ここにシーツを持ってきますけど」

「頼む、それだけは止めてくれ」

 優しいケーリィンの提案を、ディングレイは即座に拒否した。


 護剣士のメンテナンスの際に、全身麻酔は使われないのだ。

 全身麻酔で意識を失うとヒヒイロカネが定着しないため、と説明された記憶はある。

 あるのだが、処置を受ける側としては、それだけで納得できるものでもない。

 麻痺薬で痛覚こそ遮断されているものの、己を中心に展開される惨劇をまざまざと見せつけられるのだ。二時間から三時間に渡って。


 どれだけ荒事に慣れていようと、こんな部屋で一晩過ごすのは精神的によろしくない。


 ケーリィンは不機嫌と嫌悪感が丸出しのディングレイを眺め、

「たしかにこの手術台……ですか? 寝るには硬いですよね。それじゃあ、立てますか?」

お人好しにそう解釈し、手を差し出してくれた。

 だが、ディングレイは手を伸ばしかけて、躊躇した。両手だけではなく、足にも力が入り切らないのだ。


 この状態では、泥酔した酔っ払いの如く倒れるに決まっている。

 今夜だけでかなりの醜態を晒したのだ、これ以上の迷惑行為は避けたい。

 おまけにうっかり転ぼうものなら、ケーリィンも巻き込んで怪我をさせかねない。それだけは絶対御免だ。


「今はちょっと、動けそうにねぇな。もうちょっと休んでから戻るよ」

「分かりました」

 ディングレイが努めて素っ気なく言うと、ケーリィンは一つ頷いた。

 彼女はそのまま一人で地上へ戻るのかと思いきや、彼の隣に腰かけた。


 ケーリィンの意図が読めずにディングレイが顔をしかめると、頬を染めての弁明があった。

「あの、おじいさんから教えてもらったんですけど……わたしの魔力が、体臭になって排出されてるそうなんです」

 思い当たる節がごまんとある、打ち明け話だった。

「この蜂蜜みたいな、甘い匂いか」

「はい」


 舞姫たちは総じて、魔力量が桁違いだ。

 その中でもケーリィンは抜きん出た逸材であると、彼女の教官も語っていた。有り得そうな話だ、とためらわずに納得できた。


「それで、その、この体臭は……人の痛みを和らげる効果があるらしくて……あの、レイさんも楽になったって言ってたので、ちょっとはお役に立てるなら、と思って……」

 ますます頬を赤らめて、もにょもにょと言葉を続ける彼女の手を取る。

 ディングレイは彼女の細い指に、節くれだった自身の指を絡めた。


「ああ、役に立つよ」

「うん。良かったです」

 ほぅ、と安堵の吐息混じりに、ケーリィンははにかむ。

 やはり彼女は怒っているよりも、微笑んでいる方が魅力的だ。

「でもな、他の男に触らせんじゃねぇぞ」

「それは……さっき通信で言っていた、護剣士の補充が要らない理由と同じですか?」


 妙なところでも、彼女は聡い。氷の術式を看破したり人の隠し童話を見つけたり、侮りがたいのだ。

 ディングレイは思わず顔が引きつってしまうが、これ以上見栄を張っても仕方がないだろう。どうせ自分のメッキなんて、綺麗さっぱり剥がれ落ちている。


 床を睨んだまま、彼は開き直った。

「そうだよ。嫉妬すんだよ」

「分かりました。それじゃあ、レイさんだけ触って良いです」


 視界の端に、彼女が上半身を捻ってこちらに向き直るのが映った。

 ディングレイが視線を持ち上げると、彼をじっと見つめていたケーリィンが大輪の笑みを返した。

 間近にある金色の瞳は潤み、蜂蜜そのものを溶かし込んだような、甘い光を灯している。


 この優しい瞳が、自分だけに向けられているのだと考えると、ディングレイは奇妙な優越感と満足感と、そして途方もない幸福感を覚えた。

 そのためだろうか。悲しい訳でもないのに、目頭が熱くなるのを知覚する。

 ぼやけつつある視界をごまかすように、彼女の肩へ額を載せた。

「ひぁっ」

 突然体重を預けられ、ケーリィンは小さく驚嘆の声を漏らした。


「レっ、レイさんっ……重いですよ」

 それに恥ずかしいです、と上ずった声が続ける。

 しかし彼は無視して、たおやかな首筋に顔を埋めた。頬に触れる髪は、ひんやりとしていて心地良い。

「悪ぃ」

「……謝るだけで、動く気はないんですね」

 ケーリィンはくすぐったそうに苦笑するも、ディングレイを引っぺがす、あるいは突き飛ばすことはしなかった。

 代わりに彼の後頭部を、ゆっくりと撫でる。


 甘い香りと柔らかな手の感触を、ディングレイは目を閉じて静かに享受した。

 だが自由な手は、無意識のうちに彼女の背中へ回っていた。縫合跡だらけの手は縋りつくように、ケーリィンの寝巻を握りしめる。

 もう片方の手は、互いの指を絡めたままだ。どちらともなく指先に力がこもり、より強く結び合った。


「レイさんって、甘えん坊なんですね」

 ディングレイの耳介を、少し気恥ずかしげなケーリィンの囁き声がくすぐった。

(なんだ、今頃気付きやがったのか)

と、ディングレイも顔を伏せたまま苦笑する。


「子ども時代がないもんで。……嫌か?」

「ううん、嫌じゃないよ。レイさんだから」

 みっともない告白も、情けない姿も受け入れてくれた声音は、彼女の香りよりも甘かった。

 気付けばディングレイの全身をさいなんでいた激痛と熱は、燻る程度にまで落ち着いていた。

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