お互いにしばらく、黙りこくったまま硬直していたが。
最初に我を取り戻したのは、ケーリィンの方だった。
「あの……消毒、手伝います」
「あ、ああ……」
視線を外したままぷい、と処置室へ踵を返した彼女に、ディングレイはいささか面食らう。ケーリィンの声も、どこかよそよそしかった。
ディングレイの好意を、疎ましく思っているのだろうか。
以前に彼女から、「一緒にいると幸せ」な存在だと告げられたことはあった。
だが、その時はお互いにまだ、恋愛感情までは掴み切れずにいた。
ひょっとするとケーリィンは今も、掴み切れないままなのかもしれない。
ならば彼の無神経な打ち明け話に、重苦しさや嫌悪感を覚えているのではないか。
気まずい沈黙の中、ディングレイはケーリィンに手伝ってもらいながら消毒を行う。処置室の台に腰かけ、手足や体の前面は自力で消毒する。
――と思っていたのだが。
指先から力が抜け、ぽとり、とピンセットごと消毒用の脱脂綿を取り落としてしまった。
自覚している以上に、身体は限界に近いようだ。たまらず舌打ちを零す。
「わたしがやりますから、レイさんはじっとしていてください」
落ちた脱脂綿へ視線を走らせ、ケーリィンは穏やかに言った。だが声は、有無を言わさぬ響きも伴っていた。
やはり、彼女は怒っているらしい。タイミングから考えて、絶対に自分が原因であろう。
(こういう時、どうすればいいんだ?)
とディングレイは、熱によって平時の半分も働かない頭で懊悩する。
なにせ機嫌を損ねた好きな女性を笑わせる方法など、今まで考えたこともないのだ。
ディングレイはかつて紛争地域で、狙撃手の的になった時以上の焦燥感を抱いていた。
「……すまん」
だから、とりあえず謝った。悪手である気も薄々するが、これしか思い浮かばない。
こちとら恋愛経験がゼロなのだ。
ディングレイは焦燥感と共に、戦場で食料が尽き、毒蛇と毒虫以外の食材がなかった時以上の
「どうして謝るんですか」
案の定、ケーリィンが眉を寄せて質問――ではなく詰問する。思い切りの不機嫌顔は、初めて見る代物だ。
「……さっき対話球で、惚れただの何だのと、言ってしまったので」
ディングレイは働かない頭で精一杯、彼女が不機嫌な理由を考えて絞り出す。
しかしそれは、てんで的外れであった。
「そのことに謝って欲しいわけじゃありません! 見栄を張りたいために、無茶をしたことに怒っているんです!」
ケーリィンからぶつけられたのは、予想だにしなかった言葉である。ディングレイは目を丸く見開き、柄にもなく固まった。
ぽかん、と固まる彼に構わず、ケーリィンは怒気を強める。
「あの時わたし……わたしはっ、本当に心配だったから、だから止めたのにっ!」
後半は涙ぐみながら、彼女は嗚咽混じりに激情を吐露した。
それでも怪我人の彼へ手を出さない辺りに、優しい心根がにじみ出ていた。
泣きじゃくるケーリィンの頭を、ディングレイは力のない手でおずおずと撫でた。彼は台に座っているので、立ったままの彼女の顔が間近にある。
湯上りの蜂蜜色の髪は、まだ少し湿っていた。
「悪かった、心配かけちまって。今も迷惑ばっか押し付けて、本当にすまねぇ」
「迷惑とは思ってません。どうしてわたしが、いっぱい心配したか、分からないの?」
平素は見せないきつい眼差しが、ディングレイを貫いた。
気後れでますます機能しなくなった脳は、すぐに白旗を上げた。
「分からん」
悪ぃ、とディングレイは続けようとしたが、その前にケーリィンの両腕が彼の頭へ伸びる。
そのままギュッと、抱きしめられた。
「わたしだって、あなたのことが大好きです。特別なんです。だから、辛い思いをして欲しくないんです」
顔を包み込む甘い香りと、予想以上に豊かな胸の心地良さで、思わず聞き逃すところだった。
「悪ぃ、おっぱいに目がくらんでた。もう一回言ってくれ」
「ばかぁっ!」
ディングレイは素直に言い過ぎた結果、今度は躊躇なく突き飛ばされた。更に頭も叩かれる。
結構キレのある手刀だったため、かなり痛い。
「どうしてそうやって、すぐ茶化すの!」
「茶化してねぇよ。ふんわり感にうっとりしてたんだよ。で、俺が好きだって?」
「ええ、ええ、そうですよ! 情けない話ですが、すぐに人を茶化してくる、性格悪いレイさんのことが好きなの!」
色気も可愛げもない、やけっぱちな告白である。
だが、そんな告白も含め、涙目で自分をにらむケーリィンすら世界一可愛く見えるのだから、人の心とは不思議なものだ。
「リィン。俺も、あんたのことが好きだ」
ディングレイが照れ笑いで返せば、彼女は怒り顔をくしゃりと泣き顔に変えて「ばか」と呟いた。
しかし生真面目な彼女はすぐに目尻をぬぐい、一つ深呼吸をして気持ちを立て直す。
「……ごめんなさい、取り乱して。消毒の続き、しますね」
そして再度両手を洗って、消毒を再開した。
今度はディングレイも茶々入れなどせず、素直に従う。
一度止血シートの交換を手伝ってくれたからか、彼女の手際は非常に良かった。ディングレイは「頭の良い子なんだな」と、改めて感じる。
そういえば街中ですれ違う住民の、大半の顔と名前を憶えている節もあった。
緩すぎず締め付けすぎず、適度な強さで包帯も巻かれ、ディングレイはめでたくミイラもどきに逆戻りした。
「できました……けど、これからどうします? 部屋に戻るのが辛いなら、ここにシーツを持ってきますけど」
「頼む、それだけは止めてくれ」
優しいケーリィンの提案を、ディングレイは即座に拒否した。
護剣士のメンテナンスの際に、全身麻酔は使われないのだ。
全身麻酔で意識を失うとヒヒイロカネが定着しないため、と説明された記憶はある。
あるのだが、処置を受ける側としては、それだけで納得できるものでもない。
麻痺薬で痛覚こそ遮断されているものの、己を中心に展開される惨劇をまざまざと見せつけられるのだ。二時間から三時間に渡って。
どれだけ荒事に慣れていようと、こんな部屋で一晩過ごすのは精神的によろしくない。
ケーリィンは不機嫌と嫌悪感が丸出しのディングレイを眺め、
「たしかにこの手術台……ですか? 寝るには硬いですよね。それじゃあ、立てますか?」
お人好しにそう解釈し、手を差し出してくれた。
だが、ディングレイは手を伸ばしかけて、躊躇した。両手だけではなく、足にも力が入り切らないのだ。
この状態では、泥酔した酔っ払いの如く倒れるに決まっている。
今夜だけでかなりの醜態を晒したのだ、これ以上の迷惑行為は避けたい。
おまけにうっかり転ぼうものなら、ケーリィンも巻き込んで怪我をさせかねない。それだけは絶対御免だ。
「今はちょっと、動けそうにねぇな。もうちょっと休んでから戻るよ」
「分かりました」
ディングレイが努めて素っ気なく言うと、ケーリィンは一つ頷いた。
彼女はそのまま一人で地上へ戻るのかと思いきや、彼の隣に腰かけた。
ケーリィンの意図が読めずにディングレイが顔をしかめると、頬を染めての弁明があった。
「あの、おじいさんから教えてもらったんですけど……わたしの魔力が、体臭になって排出されてるそうなんです」
思い当たる節がごまんとある、打ち明け話だった。
「この蜂蜜みたいな、甘い匂いか」
「はい」
舞姫たちは総じて、魔力量が桁違いだ。
その中でもケーリィンは抜きん出た逸材であると、彼女の教官も語っていた。有り得そうな話だ、とためらわずに納得できた。
「それで、その、この体臭は……人の痛みを和らげる効果があるらしくて……あの、レイさんも楽になったって言ってたので、ちょっとはお役に立てるなら、と思って……」
ますます頬を赤らめて、もにょもにょと言葉を続ける彼女の手を取る。
ディングレイは彼女の細い指に、節くれだった自身の指を絡めた。
「ああ、役に立つよ」
「うん。良かったです」
ほぅ、と安堵の吐息混じりに、ケーリィンははにかむ。
やはり彼女は怒っているよりも、微笑んでいる方が魅力的だ。
「でもな、他の男に触らせんじゃねぇぞ」
「それは……さっき通信で言っていた、護剣士の補充が要らない理由と同じですか?」
妙なところでも、彼女は聡い。氷の術式を看破したり人の隠し童話を見つけたり、侮りがたいのだ。
ディングレイは思わず顔が引きつってしまうが、これ以上見栄を張っても仕方がないだろう。どうせ自分のメッキなんて、綺麗さっぱり剥がれ落ちている。
床を睨んだまま、彼は開き直った。
「そうだよ。嫉妬すんだよ」
「分かりました。それじゃあ、レイさんだけ触って良いです」
視界の端に、彼女が上半身を捻ってこちらに向き直るのが映った。
ディングレイが視線を持ち上げると、彼をじっと見つめていたケーリィンが大輪の笑みを返した。
間近にある金色の瞳は潤み、蜂蜜そのものを溶かし込んだような、甘い光を灯している。
この優しい瞳が、自分だけに向けられているのだと考えると、ディングレイは奇妙な優越感と満足感と、そして途方もない幸福感を覚えた。
そのためだろうか。悲しい訳でもないのに、目頭が熱くなるのを知覚する。
ぼやけつつある視界をごまかすように、彼女の肩へ額を載せた。
「ひぁっ」
突然体重を預けられ、ケーリィンは小さく驚嘆の声を漏らした。
「レっ、レイさんっ……重いですよ」
それに恥ずかしいです、と上ずった声が続ける。
しかし彼は無視して、たおやかな首筋に顔を埋めた。頬に触れる髪は、ひんやりとしていて心地良い。
「悪ぃ」
「……謝るだけで、動く気はないんですね」
ケーリィンはくすぐったそうに苦笑するも、ディングレイを引っぺがす、あるいは突き飛ばすことはしなかった。
代わりに彼の後頭部を、ゆっくりと撫でる。
甘い香りと柔らかな手の感触を、ディングレイは目を閉じて静かに享受した。
だが自由な手は、無意識のうちに彼女の背中へ回っていた。縫合跡だらけの手は縋りつくように、ケーリィンの寝巻を握りしめる。
もう片方の手は、互いの指を絡めたままだ。どちらともなく指先に力がこもり、より強く結び合った。
「レイさんって、甘えん坊なんですね」
ディングレイの耳介を、少し気恥ずかしげなケーリィンの囁き声がくすぐった。
(なんだ、今頃気付きやがったのか)
と、ディングレイも顔を伏せたまま苦笑する。
「子ども時代がないもんで。……嫌か?」
「ううん、嫌じゃないよ。レイさんだから」
みっともない告白も、情けない姿も受け入れてくれた声音は、彼女の香りよりも甘かった。
気付けばディングレイの全身を