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15:心の掃除と名前

 聖域では、起床から食事、入浴や就寝時間も厳格に決められていた。

 だから嫌なことがあってふて寝でもしようものなら、たちまち食いっぱぐれてしまうのだ。

 もしくは「舞姫を心身ともに、健やかに育てる」ことを盾にして、医療班と教官陣が手を組んで舞姫を外へ連れ出す。彼らはふて寝や引きこもりを許さないのだ。


 故にケーリィンは今も、落ち込む心を無視するように、身体を動かした。

 ロールドが新調してくれた、木造りの可愛らしい机と本棚をせっせと拭く。姿見も徹底的に磨く。

 シンプルだがフカフカのベッドも、しわ一つないようシーツを整える。


 それでも、心が淀みへ沈んでいくのを止められなくて、次にディングレイの自室を訪れた。

 掃除をさせてくれと頼めば、何故か笑われた。

「あんたは前向きだな」

「そうですか?」

「ちょっと痛々しいぐらいだよ」

 そう呟いたディングレイの笑顔に、苦いものが混じった。理由が分からず、ケーリィンは眉を寄せて困る。

 それでも彼の部屋には入れてくれたので、窓拭きから始めることにした。


「じっとしていると、泣きそうになっちゃうから。出来るだけ、こうして動いていたいんです」

 ケーリィンは片手で窓を拭きながら、少し弾む息で言った。

 が、窓枠に添えていたもう片方の手を、ディングレイの骨ばった手が捕らえた。

 びっくりして、いつの間にか真後ろにいた彼を仰ぎ見る。

「泣けばいいだろ」

 静かな声で、ディングレイはそう言った。空色の瞳には、彼女をからかう様子など微塵もない。


 手を振りほどけないか、と儚い努力をしつつ、ケーリィンは空元気で笑う。

「嫌ですよ。そんなことしたら、湿っぽくなっちゃうじゃないですか」

 そうだ。孤児の彼女がメソメソ泣こうものなら、ヴァイノラたちから更にいじめられるのだ。


「生まれも卑しいのに、性格も卑しいのね。ああ、嫌だわ。こんな小汚い捨て子と、同じ空気を吸っていたくないわ。早く追い出されて、どこかで野たれ死ねばいいのに」

 そう言って、彼女たちは侮蔑の言葉と視線を向けて来るのだ。

 彼女らのケーリィンいじめに参加していない他の舞姫たちも、ヴァイノラの実家の資金力が怖くて、止めに入ることはなかった。

 善良な教官の誰かが気付くか、ヴァイノラが飽きるまで、その責め苦は続くのだ。


 だから涙を我慢して、弱々しくでも笑いながら、嵐が通り過ぎるのを待つ。

 それこそが、ケーリィンの習得した拙い処世術だった。


 なのに。必死に堪えているのに。

 ディングレイは真剣な顔のまま、空いている方の手で彼女の頭を撫でる。ゆっくりと、優しい手つきで。

「やめてください、ディングレイさん。おそうじ、できませっ……」

 堪えられなかった。

 褐色の手のぬくもりが、そんなやせ我慢を許してくれなかった。ぽつり、ぽつり、と彼女の大きな瞳から涙が零れ落ちる。


 せめてもの矜持で、声も上げずに涙を流し続けるケーリィンを、ディングレイは抱きしめた。壊れ物でも抱え持つような、緩やかな抱擁だった。


 いつの間にか、握りしめていた雑巾も取り上げられている。

 そのことに気付いた時には彼の胸板に顔を押し付け、そのぬくもりに甘えていた。無意識の内に、すりすりと頬ずり。

 するとディングレイは小さな子をあやすように、ゆっくりケーリィンの背中をさすってくれた。

「俺の部屋なんていいから、自分の心ん中でも整頓しとけ。変に家探しされて、エロ本でも見つけられたら困るしな」


「え! エッチな本って、実在するんですか!」

 女の園で育ったケーリィンにとって、エロ本は都市伝説と同じ立ち位置であった。驚きと興奮で、涙も引っ込む。

 顔を持ち上げてキラキラとディングレイを見つめると、非常に渋い顔でねめつけられた。

「エロ本で泣き止むなよ! あるに決まってるだろ、大半の男は女の子が大好きなんだよ」

「おぉーっ」


 エロ本如きで感嘆の声を貰えたのが嬉しかったのか。一つ鼻を鳴らして、もったいぶった口調で彼は続ける。

「しかし我々男どもは、それらが人目に付けば社会的地位を失うことも覚悟の上で、所有しているわけだ。故に銘々、独学によって隠匿技術も習得しており──おいっ!」


 ケーリィンはシュバッとしゃがみ込んで彼の腕から抜け出し、部屋中に素早く視線を走らせた後、窓際の机によじのぼった。

 その真上の天井の羽目板に、違和感を感じたのだ。野生あるいは女の勘であろうか。


 ケーリィンが手で軽く押すと、存外容易にそれは持ち上がった。出来上がった穴に頭を突っ込む。

 天井裏の薄暗い空間に積み上げられた、十冊ほどの本の影を見つけたところで、再度ディングレイに背後から抱えられた。

 脇の下に腕を通されたままぶら下げられ、さながら捕らえられた猫の気分である。


 はぁぁぁー……と、長い長い溜息が、ケーリィンの頭上から降って来た。

「どんだけ目ざといんだよ、あんた……どこでそんな技、身に着けたんだ?」

「なんとなく、ですね。パッとお部屋を見たところ、床に物を置くのが嫌いなようでしたので。それじゃあ、上なのかなーと思って」

「とんだエロ本探偵だな……まぁ、元気になって良かったよ」


 ディングレイは疲れた声でそう言って、ケーリィンを抱えたままベッドに腰かける。

 成り行き上、彼女はディングレイの膝に座ることとなった。もはや涙も引っ込んだ状態のため、照れくささでつい体をよじる。しかし筋肉をまとった強靭な腕が、降りるのを許さなかった。ますますがっちり座らされる。

 どうやら彼は、好き好んで人を膝に乗せているらしい。

 ケーリィンは重くないか、と訊こうとして寸前で止めた。もしも「重い」との答えが返ってくれば、かなり落ち込む。


 いつもより距離の近くなった顔を見つめ、ケーリィンは赤い顔でぎこちなく笑う。

「あの、ありがとうございます。でもわたし、ああいうのには慣れてますから、大丈夫ですよ」

「そんなもん、慣れなくていい」

 ばっさり、ケーリィンのやせ我慢は切り捨てられた。


 びっくりして、彼女は目を瞬いた。そんな発想、今まで頭にも浮かばなかった。

「どうして……?」

「今のあんたには、俺も、ロールドの爺さんもいる。理不尽な目に遭って、辛い時は素直に言え。助けを呼べ。あんな未練たらたらのモヤシ野郎、いつでもぶちのめしてやる」


 洋裁店での会話で薄々……いや、濃厚に気付いていたが、レーニオは先代舞姫に振られたらしい。

 それも、散々貢がされた挙句に、こっぴどく。

 ディングレイが二人の泥沼破局の顛末を、簡単に教えてくれた。

「けどそれは、レーニオとあの女の問題だ。あんたには全く関係ねぇ」

 続けてそう言い切ってくれたディングレイの言葉と、代わりに怒ってくれている眼差しが、くすぐったくも嬉しかった。


「はい、ありがとうございます。でも……武力行使だけは、やめてくださいね?」

 本当にやめてくださいね。ケーリィンはそんな万感の思いを込め、じっと彼を見つめる。

 きまり悪そうに、彼は視線をそらした。心なしか、頬も赤い。

 それを疑問に思いつつ、なおも見つめ続けた。


 ややあって、少し拗ねたような視線がちらりと返って来た。

「……俺の頼みを聞いてくれるなら、やめる」

「はい、聞きます」

 エロ本を見るな、だろうかと一瞬考えて大きく頷いた。


「名前。レイでいい」

 しかし返って来たのは、予想外の頼み事である。

 年上の、しかも男性を愛称で呼んだことなんてない。途端、ケーリィンの頬も赤くなった。

「えっ。えっと……それは……」

「舞姫様なのに、下々の小さな願いも叶えてくれねぇのか?」

「そんなこと、ないです!」


 揶揄するように言われ、少し声を荒げた。やけっぱちに、そのまま続ける。

「レ、レイさん……で、良いん、ですよね?」

 が、やはり尻すぼみになってしまった。

 少し上にある顔を伺えば、いつもの悪い笑顔があった。良かった、満足らしい。


 なのに

「武力行使は駄目でも、正当防衛なら良いよな?」

「で、出来るだけ穏便にお願いします!」

 いまいち信用できない言葉に、ケーリィンは精一杯怖い顔を作る。


 こちらが必死にお願いしているのに、彼は食えない笑顔のままだ。

「分かったよ、リィン」

 そしてこれまた唐突に、自分も愛称で呼ばれ、ケーリィンは真っ赤なまま固まった。誰かに愛称で呼ばれるなど、生まれて初めての経験だったのだ。


 しかし彼の腕の中と一緒で、その声音は優しく、居心地が良かった。

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