二階で何かを倒す音、割る音、破裂する音をけたたましく鳴らした後、こざっぱりとした蝶ネクタイにサスペンダー姿のフォーパーが降りて来た。頭は寝癖だらけの、モジャモジャ海綿スポンジのままであるが。
だがケーリィンはそれよりも、先ほどの騒音は何だったのだろうか、という点と、女装しないのか、の二点が気になって仕様がなかった。ついそわそわと両手を組み合わせる。
困り顔でフォーパーを見つめるケーリィンを見て、エイルが察してくれたらしい。こっそり、耳打ちしてくれた。
「父は寝巻だけ、女性用のネグリジェなんです。締め付けられるのが嫌なんですって」
「なるほど……ご趣味ではなく、機能性重視なんですね」
「良く言えば、その通りです」
悪く言えば非常識なだけですが、と言い添えた彼女と目を合わせ、くすくす笑い合う。
「もう娘と打ち解けられたんですね」
二人の様子を眺め、フォーパーはエキセントリックな芸術家から、父親の顔になる。
「あの舞クソビッチ様は、私の店や娘を毛嫌いしておりましたからね。あなたは娘も受け入れて下さったようなので、安心しました」
舞クソビッチ様――薄皮一枚程度で敬意が残っていると見せかけて、実は侮蔑もろ見えな異名だ。武勇伝に事欠かない先代である。
彼によると舞クソビッチ様は、
「田舎者がデザインしたドレスなんて着られない」
と、わざわざドレスを作らせた後で買い取りを拒否したらしい。
ドレス代はもちろん、平謝りのロールドたちが支払ったようだ。
なお丹精込めて作られたドレスは、そのまま日の目を見ることなく、
「おのれ、目に付くだけで忌々しい!」
とフォーパーの短い理性がプッツンし、焼却処分されたという。作り手と買い手に恵まれなかった、哀れなドレスに合掌である。
また舞クソ (以下略)はエイルに対して、顔を合わせる度にブスと連呼して、邪険にしていたらしい。完全に嫉妬であろう。
真実不美人に見えていたと言うなら、脳か眼に問題がある可能性が高い。至急、病院での検査を受けるべきだろう。
そんなフォルトマ洋裁店と舞クソとの戦いの歴史を拝聴しつつ、ケーリィンはドレス制作のために採寸を受けることとなった。
出会い頭では舞姫全体に拒否感を示していたフォーパーだが、エイルが歓迎してくれたことですっかり態度を軟化させていた。娘に優しい父なのだろう。
衝立の奥でケーリィンの採寸をしながら、エイルは嬉しそうに微笑んだ。
「先々代の舞姫様とは、直接お話する機会も少なかったので。正直、舞姫様方に苦手意識はありました。でも、ケーリィン様は親しみやすい方で、ホッとしました」
ホッとしたという笑みがまた麗しく、ケーリィンは頬をポッとさせた。
「ありがとう、ございます。あの……ちなみに、エイルさんもドレスを作るんですか?」
素人の感覚だが、採寸の手際がいいのだ。ケーリィンの問いに、エイルはほんのり苦い笑いとなる。
「いえ、私は接客が主です。たまにこうして、父の手伝いで採寸も行いますが……お客様が女性やお子さんの場合は特に」
女性客が同性の採寸を希望するのは、まあ分かる。ケーリィンも初対面のフォーパーに、特にお腹周りの大きさを測られるのは落ち着かない。ただ、
「子供のお客さんも、ですか?」
やはり美人の方が懐くのかしら、と思いつつ重ねて尋ねると。
「ええ。機嫌が良くなってくると、父が奇声を上げるので。お子さんは驚いて、泣いてしまうんです」
「それは……泣いちゃいますね」
「ヒャッホォォォォーイッ!」
話しているそばから、衝立越しに奇声が聞こえて来た。
発信源は無論、洋裁店店主である。先ほどから採寸されるケーリィンを、衝立越しにチョコチョコと覗いては、ディングレイに首根っこを掴まれて引き離されていたのだ。
「うるせぇぞ! 鼓膜破る気か!」
間近で叫ばれたディングレイが、負けず劣らずの大声で怒鳴り返している。思わずエイルの手も止まった。
ケーリィンも不安になって
ディングレイは肌の色が褐色なので分かりづらいが、顔も赤い気がする。本気で怒っているようだ。
「先にてめぇの鼓膜を抉り出すぞ!」
そう脅すついでに、フォーパーの鳥の巣みたいな頭も一つ叩いたが、叩かれた本人はどこ吹く風であった。
むしろ彼を完全無視して、先ほど難しい顔で向かい合っていたスケッチブックを、喜色満面で広げている。そして、叩きつけるような動きで鉛筆を動かし始めた。
「ううむ、素晴らしい! なんという原石なんだ!」
そう叫びながら、ギラついた目をケーリィンに向ける。ケーリィンは顔だけ覗かせたまま、思わずその場で竦んでしまったが、構わずフォーパーはまくしたてた。ディングレイの拘束も抜け出し、彼女の元へ突撃する。
衝立も脇に押しやって、ケーリィンを軸として周囲をぐるぐると回り始めた。存外、足取りも軽やかだ。
「おおっ、舞姫様! その素朴な、大きな森の小さな妖精といった風情が実にたまりませんな! まさに、俺色に染めたくなる背徳感を掻き立てる逸材でございます! 仕立て屋フォーパー、思いがけぬミューズとの出会いに心がヒャッホウしております!」
「あ、ありがとう、ございます……」
フォーパーが何を言っているのかはよく分からない――分かりたくないが、彼はケーリィンのドレス作りに、意欲を燃やしてくれているらしい。
「こんなのですが、父はドレス作りに関してはちょっと有名なデザイナーなんです。今も演劇や映画関係の方から、お仕事を依頼されていますので」
口ではやかましく言いつつも、父を尊敬しているらしい。エイルは誇らしげにそう告げた。
ただしグルグル旋回する父の頭を引っぱたき、ついでにネクタイを掴んで沈静化させることも忘れない。
続けて彼女から教えられた映画の中には、ケーリィンでも鑑賞済みの作品がいくつもあった。
それはいずれも、煌びやかな衣装が華を添えていることで有名かつ、美術的価値も高い名作だ。思わず小さな歓声を上げた。
「すごいです! そんな方に、作っていただいて良いんですか?」
ディングレイはエイルに手綱を握られてぐったりするフォーパーを鼻で笑ってから、ケーリィンの頭をガシガシ撫でる。
「オッサンも喜んでんだ。素直に甘えて、作ってもらおうぜ。どんなのが出来るのかは、俺にも分からんが」
彼の言葉で、思うところがあったらしい。父の蝶ネクタイを握る、エイルの手に力がこもった。表情も真剣そのものだ。
「……父には過度な露出を控えるよう、必ず釘を刺しておきますね」
「あと、身動きできねぇような、大道具みたいなのも勘弁してくれ」
「そこはもう、釘と言わず杭を打ち込んでおきます」
エイルもディングレイも、なんとも陰気な声である。どうやらフォーパーには前科があるらしい。
下着みたいな服を作られたらどうしよう、と薄っすら悩みつつ、ケーリィンは当座をしのぐ衣類も選ぶことにした。
採寸から始まるオーダー・メイドのドレスが、数日で出来上がる訳ない。
フォーパー洋裁店では、
もちろん、わざわざオーダーするほどの金銭的余裕のない、近隣住民向けの商品である。
一点物の制作を請け負う傍ら、市内にある工房と提携して既製服も作っているらしい。
「ここまで街が廃れる前は、金満家から徹夜続きになるほど依頼に来ていましたがね。ま、気ままに思いついた作品を大量生産するのも、これはまた別の面白味がありますので」
特に苦労も感じさせず、フォーパーはそう軽快に言い切った。
彼はたしかに変わり者かもしれないが、その前向きさは素敵だ。ケーリィンも笑って頷く。
舞姫はいつ何時でも華麗に舞えるよう、裾の広がるドレス姿であることが奨励されている。実際のところは、ほぼほぼ義務だ。
ズボンの方が転んだ時も安全で踊りやすいのでは、とも思うのだが、聖域の大人たち曰く「そもそも転ぶな」ということらしい。フォーパーとは違ってしがらみまみれの立場のため、ドレスからの脱却は難しそうだ。
ケーリィンはディングレイと一緒に、店内に吊るされたドレスたちを手に取って確かめていく。
「舞姫の着るドレスは、踊りやすいよう裾が広がっていて……あと、丈はくるぶしがちょうど隠れるぐらいが良い、と教えられてます」
「これまた厳格なんだな」
「でも、それ以外は素材も装飾も自由なので、聖域を出られた先輩方はお洒落を楽しんでいるそうです」
何着かのドレスを吟味しながら、ディングレイとそんな会話を交わした。
ディングレイにもドレスの意見を求めたところ、
「違いが分からん。もう全部買っとけ」
と、大層大雑把なアドバイスが返って来た。ケーリィンは眉を下げて困る。
「全部は駄目ですよ、もったいないです」
「舞クソビッチの残しやがった金品のおかげで、予算は潤沢だぞ」
フォーパー命名の無情なあだ名をしっかり覚えていることに、ケーリィンはほんの少し呆れた。
「ディングレイさん。そのあだ名、気に入っちゃったんですか?」
ニヤリ、とディングレイが悪辣に笑う。
「ああ。頭が悪そうな割に、妙にタフそうな響きが、割と気に入ったな」
気に入った理由も、だいぶ無情である。
「ふふっ」
傍らでドレス選びを手伝ってくれていたエイルが、不意に笑った。
どうしたのだろう、とケーリィンたちが揃って彼女を見ると、
「ごめんなさいね。こんなに楽しそうなジルグリットさん、初めてお見掛けしたので」
そっと口元に手を当て、エイルは言った。ケーリィンはキョトンと目を丸くする。
「楽しそう、なんですか……?」
「なんで驚愕の顔を向けんだよ」
「ぴゃっ」
しげしげとディングレイを見上げたところ、朝に引き続き、また鼻をつままれた。
鼻を庇いつつ再度見上げれば、いつもの悪そうな笑みがあった。なんと、これでもご機嫌だったのか。
そういえば初めて顔を合わせた時はしかめっ面であり、黒づくめの服装と相まって、死神のようにも見えた。
自分といることを苦に思われていないなら、ケーリィンも嬉しい。照れ笑いを返したところ、また頭を撫でられた。
その後、
「えっ……ケーリィン様、三着しかお持ちでないんですか? しかも全て、薄着? 一週間は着回せるように、新しいものを買った方が良いと思いますよ。これから冷え込みますし、少し厚手のものも、ぜひ」
というエイルのアドバイスに従い、七着の既製品ドレスとケープを購入した。
ドレスは今の季節にぴったりの、やや薄手のものを五着と、厚手のものを二着だ。
そしてフォーパーにも、五着の製作を依頼することで落ち着いた。
手間も時間も金も掛かる一点物なんて、本当は一着でも勿体ないと思った。
だが、涙目でフォーパー本人にごねられ、結局ケーリィンが折れてしまったのだ。
「せっかく美の神が降臨し給うたのに、そんな殺生な! 割引にしてあげるから、もっと作らせてくれ! 出来れば十着ぐらい!」
ずっと年配の、それも親ほど年の離れた大人にそこまで言われれば、少女に断る術などない。もっともケーリィンは捨て子のため、親の顔も年齢も分からないけれど。
ただお財布担当のディングレイからは、
「値引きしてもらえたんだから、結果オーライだ。よくやった」
豪快な頭なでなでと共にお褒めの言葉を貰えたので、良しとしよう。