ディングレイはケーリィンへ浴室やトイレの場所も伝え、彼女の自室の扉を静かに閉めた。
もはや眠気も限界だろうに。それでもなんとか自力で立ち、わざわざ自分を見送ったケーリィンの姿を思い出し、ディングレイはつい苦笑する。
「無欲で真面目な子だな、ほんと」
来た道を戻ると、新しいワインのボトルを開けているロールドがいた。それを目にして、ディングレイのほんのりと柔らかい微苦笑が、ニヤリと悪い笑顔に変わった。
「おいおい爺さん、まだ飲むのかよ。調子乗って、二日酔いになっても知らねぇぞ」
「祝い酒じゃよ。たまにはいいじゃないか」
何に、いや、誰に対する祝い酒かは、問わずとも分かる。
無言でグラスを差し出したディングレイにも、赤い液体を注ぎつつ、
「可愛らしいのう」
しみじみ、ロールドは呟いた。近年まれに見る、緩んだ顔であろう。
ディングレイもその気持ちは十二分に分かるので、即座に頷き返す。
「ああ。今までが悪魔のようなクソ女だったから、あの子が天使に見えるよ」
「お前さん、顔に似合わずメルヘンな脳みそなんじゃな」
そう揶揄するロールドを、ディングレイはギロリとにらんだ。
「うるせぇよ。てめぇだって年中、脳内お花畑だろ」
「失礼じゃのう。――しかし、本人は未熟者じゃと繰り返しておったが、その実どうなんじゃい?」
ディングレイをじっと伺い見る目には、理性が戻っていた。
好々爺然としているが、これでも神殿の管理人だ。そしてシャフティ市の一市民としても、やはり実力ある舞姫の方が好ましい。
ディングレイは広い肩をすくめた。
「ま、性格はあの通り、お人好しで真面目で天然みたいだな。だからその辺は、俺らが上手く誘導すりゃ問題なさそうじゃねぇか?」
彼の言わんとしていることを察し、ロールドも白い口ひげを撫でて短くうなる。
「うむ……詐欺師のカモになりそうなぐらい、いい子なのはたしかじゃな」
「だろ? それに――」
ここで言葉を区切り、ディングレイは食堂の隅に置きっぱなしにしていた、自身の旅行鞄を開ける。
潰れないよう、空の水筒に入れていたバラを取り出した。
それはケーリィンが開花させた、あの青バラだ。このまま放置しておくと (主に植物学者たちを)大騒ぎさせかねない、と判断して手折ったものだ。
「こいつはあの子が舞の途中ですっ転んで生まれた、副産物なんだが。潜在能力も、先代とは桁違いじゃねぇかな」
彼がかざしたバラは、まるで先ほど手折られたかのように、花弁も葉も艶やかだ。
眩しそうに小さな目を細め、ロールドはバラの青々とした葉に触れた。
「正に奇跡が生み出した花じゃのう。そのドジが直れば嬉しいが……」
「三つ子の魂なんとやら、って言うだろ。過度に期待しちゃ、あの子の重荷になる。ただでさえ、クソ真面目な性格してるんだ」
そうたしなめつつ、自分の歓迎会だというのに恐縮しっぱなしなうえ、調理まで手伝おうとしていたケーリィンの姿を思い出す。
ロールドに手伝いを固辞されれば、せっかくだから、と代わりに掃除の続きを買って出たのだ。
昼寝でもして待ってりゃいいのに、とディングレイたちは思ったのだが、結局彼女は料理が出来上がるまでに、庭と談話室、そして礼拝堂の清掃を終えていた。踊りは苦手なようだが、掃除の手際は間違いなくいいらしい。
嫌々ながら揚げ物を手伝わされていたディングレイは、どれだけ真面目で勤勉なんだ、と呆れ半分で感心したものだ。
「そうじゃな。なにはともあれ、心根が真っ直ぐなよい子じゃ。少々自己評価が低いようじゃが……それも、慎ましい性格とも言えるじゃろう」
優しく笑ったロールドだったが、ややあって人の悪い顔でディングレイを見上げる。
「しかしお前さんがバラを持ってると……なんというか、怖いな。不気味じゃな。毒入りバラに見えてくるよ」
「うるせぇよ、クソ爺」
ディングレイはそう悪態をつき、バラの茎の先端でロールドの広い額を軽く突いた。
「いたいっ。何をするんじゃ」
「毒盛ってやってんだよ、毒」
のけぞって大げさに痛がるロールドへ、悪辣に笑った。
彼とこんな軽口を叩き合うのも、久方ぶりの気がする。