俗物的な表紙の割に、『アンデッド・モンスターから逃げ切る 六十六の方法』は読みごたえがあった。
実践的な逃走・回避方法の紹介から、
黙々と本を読んでいると、あっという間に夜を迎えた。
「そろそろ飯にするか。食堂車行くぞ」
きちんと本に栞を挟みながら、ディングレイが藪から棒にそう言った。ケーリィンも本の中ほどに入っていた栞を挟みなおし、はい、と頷く。
「食えないもの、あるか?」
「大丈夫だと思います。全ての食材に感謝しなさいと、教えられて来ました」
「うわー、堅苦しいな。俺、舞姫には絶対なれねぇわ」
うんざりした声に、ケーリィンは小さく笑った。そのまま彼の先導で、外へ出る。
食堂車へ向かう通路の中ほどで、こちらへ向かってくる青年に出くわした。
鮮やかな水色の髪をした、女性みたいな顔立ちの美青年である。髪の色が変わっているので、魔術師だろうか。
すれ違おうとケーリィンが通路の端に寄るが、何故か美青年は穏やかな表情のまま、こちらへ肉薄して来る。それに気づき、ディングレイも立ち止まる。ケーリィンを背に庇いながら、彼を待ち受ける。
訳が分からないながらも、危機感を覚え、ケーリィンはディングレイの広い背にしがみつくしかなかった。
美青年は表情を崩さぬまま、手のひらを上に向けた右手を、胸の位置まで掲げた。
その途端、彼の手のひらから水があふれだす。いや、水は瞬く間に、蛇となった。
やはり魔術師だった。しかも、ケーリィンたちを狙っているらしい。
真っ白な頭で硬直する彼女を置いてきぼりにして、蛇は二匹に分裂し、大口を開けてディングレイ目がけて飛びかかって来た。
思わず、喉の奥から悲鳴がこぼれかかる。
が、その悲鳴よりも早く、ディングレイが右手を突き出した。蛇を阻むように、透明の壁が生成される。
いや、それは恐ろしく透明度の高い氷であった。白い冷気が、三人だけの廊下に満ち満ちる。
氷の壁にぶつかるや否や、二匹の蛇はたちまち凍り付き、そのまま砕け散った。
その様を見て、おのれ、などと言いつつ第二の手段を繰り出してくるかと思われたが、美青年は反対に笑った。屈託なく、無邪気ににっこりと。
「やっぱり君の魔術は素早いし正確だ。僕でもかなわないや」
「あのな、てめぇ。新しい舞姫に会いたいからって、ここまでするか?」
右手を振って氷と冷気を消し去ったディングレイの表情は、背後にいるケーリィンからは窺い知ることができない。
だが声音には呆れの色が、露骨に浮かんでいる。
事態が全く掴めずにいる彼女へ、ようやく彼が振り返った。
「心配すんな、ケーリィン。この顔だけがいい兄ちゃんは、神様だ」
「かっ、へっ?」
しかし端的な説明に、かえって混乱が増す。強張った顔の彼女に、神様らしい美青年はのんきに手を振った。
「シャフティ市にある、
誕生日や趣味を告げるような気軽さで、湖の主はそう名乗った。
「チャラついた見た目だが、事実その通りの、あらゆるメスが大好きな偉い方だ」
そしてディングレイからも、敬意ゼロの追加情報がもたらされる。
女性ではなく「メス」という表現に、「竜だもんね」と場違いに感慨。
しかし、腐っても舞姫。我に返ったケーリィンは、慌ててお辞儀をする。
「あのっ、ケーリィンと申します。未熟者ですが、よろしくお願いいたします」
「うんうん、初々しくて可愛いね。そうだ、ケーリィンちゃん。シャフティに着いたらさ、僕の屋敷においでよ」
本当に、全メスが大好きらしい。
「いえ、そんな……」
「美味しいものも、珍しいものもいっぱいあるよ。海に兄弟がいるからさ、真珠もいっぱいあげるよ」
「ほっ、宝石なんて、めっそうもないです!」
これには畏れ多い気持ちも吹っ飛んで、全力で固辞する。首と両手も、高速で左右に振った。
高価なものに不慣れな彼女は、真珠なんて渡されても困る。しかも沢山あるという。
押し付けられた瞬間、卒倒してしまうかもしれない。
彼女の反応が予想外だったらしく、肩透かしをくらったように、リズーリは金色の目を丸くした。
「あれ。前の舞姫ちゃんは、しっぽ振って飛びついて、三次会まで居座ったのに……変わってるね、君」
「違うだろ。あのクソ女の方が、頭イカれてんだろ」
ぼそりと返された声には、殺意が満々だった。どれだけ嫌われているんだ、先代。
「舞姫は、清貧が美徳なので……あ、でも、律義に守ってるのなんて、わたしみたいな頑固者だけだと思います、けど……でも、やっぱり宝石は、申し訳ないです」
ケーリィンは名前を呼んではいけない人物扱いの先代を、成り行きで擁護しつつ、出来るだけ角が立たないよう断った。
怒られて祟られるかしら、と身構えるが、各段気にする様子も、めげる様子も全くなく、リズーリは笑顔のままだ。
「うんうん。ケーリィンちゃんは真面目なんだね。それじゃあ、これはどう?」
髪色と同じ典雅な服の懐をまさぐって、彼が取り出したのは平べったくて透明な、コインに似た何かだった。
透明な何かは、一見するとガラスのようだが、光を受けて虹色に輝いている。
ディングレイを押しのけ、強引に手渡された不思議なコインに、しばし目を奪われる。
「きれい……」
「それ、僕のウロコ。シャフティ市を守る者同士、お近づきの印ってことで受け取って。季節の変わり目にはボロボロ剥がれるから、原価もゼロだよ」
「……ちゃんと洗ってんだろうな、これ」
ディングレイは疑わし気に顔を歪ませているが、虹色のウロコはとても美しかった。
それに原価もゼロである。
「ありがとうございます」
大事に両手で包み込み、素直に受け取った。
「うんうん。素直でいい子だね。それなりにご利益もあるはずだからさ、肌身離さず持ってるといいと思うよ」
「季節の変わり目に、ボロボロ剥がれるくせにご利益あんのか?」
ハッと鼻で笑ったディングレイへ、リズーリは軽く胸を反らした。
「これでも僕は竜神だよ? それに頑丈なウロコだから、銃弾を弾いたりとか、そういう劇的な展開があるかもしれないじゃない」
「シャフティ市で銃持ってる奴なんざ、猟師のポルボ爺さんだけじゃねぇか」
呆れ顔のディングレイだが、ケーリィンの頭を撫でる手はやはり優しかった。
「ま、硬くて頑丈なのは事実だ。気に入らねぇ奴がいたら、それでぶん殴ってやれ」
しかし言っていることは暴力礼賛であった。
指の間に挟むといいぞ、とご丁寧に指南までしてくれる。
殊勝に頷きつつ、そんな事態に見舞われるのは嫌だ、とも思う。
そこではた、と気づく。
「ごめんなさい、リズーリ様。わたし、代わりに差し上げられるものがなくて」
何せ本すら持って来ていないのだ。手元にあるのは、使い古したドレスや下着ぐらいしかないが……そんなものを誰かに渡すわけにもいかない。それに万が一喜ばれれば、とんでもない恐怖である。
うろたえる彼女に、リズーリは優雅に微笑む。
「街を元気にしてくれれば十分だよ。だって前の舞姫ちゃん、遊びに夢中で、踊りもサボってばっかりだったからさ」
「遊びは遊びでも、男遊びな」
「そうだったねぇ……」
顔を見合わせ、ため息をつく一人と一柱。
田舎だと少しばかり安心していたが、もしやとんでもない難所を宛がわれたのでは、とウロコを抱きしめてケーリィンは