「スローリー・スロー、上の妹とお前との婚約を解消する」
黒髪の頭に大きいマゲを結い、そしてこの大陸の先住民の特徴である獣耳、彼の場合は狼の耳を頭に宿した男がそう宣言する。
そしてどうでもいいが、僕の名前はスローじゃなく
彼は人の名前を覚える気がないのか、それとも僕の名前がこの地に住む彼ら一族には珍しいからなのか、スローと呼ばれるのはもうお約束になっていた。
僕の眼の前に胡座をかいて座る男は、ナブノガ・ダオ。
大陸内の南端に位置するオワリノ公国の現当主で周辺国からは「魔狼王」の二つ名で呼ばれる豪の男である。
野獣を思わせる鋭い目つき、日に焼けたやや浅黒い肌が、豪の印象を更に強めている。
黒髪黒瞳の黄色系の肌で獣耳が標準のこの大陸に、金髪碧眼の白い肌かつ彼らからすればやや大柄な体格の僕が流れ着いたのは半年ほど前のこと。
その際、僕は自分のスキルと名前以外の殆どの記憶を失っていて、このナブノガに拾われ客分として働いていた。
そしてナブノガには二人の妹がいて、僕はそのうちの姉の方、イチカ・ダオと仲良くなり婚約するにまで至った。
と言っても彼女とはまだ肉体関係どころかキスすらしてない間柄で、それはこの大陸女性にとって祝言、つまり結婚後にするものという貞操観念であるらしい。
「許せスローリー、お前に何か落ち度があったという訳ではないのだ。
がしかし、イツカヱの奴がな」
イツカヱ・タバシ。
ダオ家臣の古参で、熊耳で見た目も熊のような形相の男。
大陸の獣耳の先住民からすればやや大柄な僕よりふたまわりも巨体な体躯で、力任せの戦法ながら過去多くの勝利を公国にもたらしていた。
「先のスルガン卿国との大戦で、イツカヱは敵の大将を打ち取る成果をみせた。
その褒美に、イチカを所望なのだ。お前の婚約者と知ったうえでな」
確かにあの熊男の、彼女を見る目は日頃から尋常でなかったし、僕と彼女の婚約が決まった際には鬼のような形相で睨まれたっけ。
そして客分の僕より子飼いの重臣の意向を優先するのは、この大陸の常識であるらしい。
であるなら異邦人の僕は従うまでだが、これってもしかしなくても寝取られって奴だよね?
「イチカも納得はしてくれたのだが、お前とはもう顔を合わせられないと言い出してな」
ええと、それは納得したと言って良いのか。
「ついては十分な路銀を渡す故、勝手な言い分ではあるがこの国も立ち去ってはくれまいか」
そう言ってナブノガは、手を合わせて懇願する。
まあイチカとは今後顔を合せるのも気まずいし、婚約破棄不回避なら出ていくつもりではあったけど。
「ただ、一つお願いがあってだな。
下の妹、イヌカがお前に会いたがっていた。この国を出ていく前に顔を見せてやって欲しい」
そう口にする彼の表情は魔狼王ではなく、間違いなく妹を想う兄のソレであった。まあイヌカの現状を知っているから、それも当然なんだけど。