「やった…!」
常世神から猫田の身体を引きずり出して、狛は一旦距離を取る。他の取り込まれた人達も助けたい所だが、猫田一人を助けるだけでこの有り様だ。いくらなんでも手が足りない。ここはやはり、
(他の皆…ごめんね、すぐ皆も助けるからっ!)
狛は胸の中で謝りながら、猫田を抱いて再び飛んだ。今の猫田は猫の姿ではあるが、ずいぶんと小さく萎んでしまっている。普段ならば大型の猫化している時は、人を二~三人背中に乗せてもまだ余裕がある大きさだというのに、今の猫田は狛と同じくらいの大きさしかない。霊力と生命力をかなり吸い取られてしまっているのが、目に見えるようだった。
「猫田さん、起きて…!目を覚ましてっ!うぅっ…ごほっごほっ!」
腹に今だ常世神の副腕が刺さったままの狛は、飛びながら猫田に呼びかけて、そのまま喀血してしまった。普通ならば死ぬほど痛くて苦しいはずだが、それほどの苦痛がないのは満月の力によるものだろうか。そんな狛が飛び出したのを確認して、
――狛、すぐにこちらへ。猫田を連れてこちらに来て下さい。
「
飛び去る狛を逃すまいと、常世神が腕を振るう。腹に刃が刺さり猫田を抱えた状態の狛は、それをうまく避けきれなかった。だが、鋭い鎌の切っ先が狛と猫田に届きかけた時、数名の鴉天狗が狛達の間に割って入った。
「や、ヤバ…っ!?」
「そうは、させんっ!」
命中寸前だった狛の身体を押し退けて刃を受けた鴉天狗達は、大きな痛手を受けて地面へと落下していった。あれでは、助かるとは到底思えない。狛は必死に飛びながらただただ謝る事しか出来ない。
「ああ……私の、せいで…!ごめん、ごめんなさいっ…!」
涙を浮かべながらも、今は泣いている余裕などない。せっかく助けてくれた鴉天狗の為にも、何としても猫田を
「
白眉が他の鴉天狗達を指揮しながら、狛を庇って倒れた鴉天狗の名を呟く。遠馬山の鴉天狗達のほとんどを引き連れてきた白眉だったが、蜂虫人達との数の差は圧倒的であった。その差はざっと見ただけでも百対一と言う状況だ。しかも、蜂虫人達はそこからさらに絶え間なく増え続けていた。流石の鴉天狗達も、これだけの物量差には応戦するのがやっとである。
「しかし、ここで我らが退く訳にはいかぬ!例え
白眉が狛の救援に来たのは、主である
白眉を含めた狂化していた鴉天狗達は、狛を殺そうとしていたにもかかわらずに……それは白眉にとって、狛が命の恩人であるという何よりの事実であった。
「そうだ。あの娘は、狛は我らを救ってくれた…!あのまま暴れていたのなら、我らは皆
白眉は己の妖力を最大限に解放し、巨大な竜巻と嵐を産み出した。どれだけの力を使い果たし、ここで命尽きようとも構わない。それは、この場に駆けつけた鴉天狗達の総意である。
「者共!我に続け!何としても狛と国津神達を死守するのだ、我らを救ってくれた人の娘を、我らが救う絶好の機会ぞっ!」
オオオオオオッ!と鴉天狗達の歓声が上がる。彼ら天狗は、魔道に堕ちたとされる修験者の魂が妖怪となったものである。人の心とはかけ離れた存在に見えるが、その在り様の根幹には、人に近い恩讐の思いがあるのだ。そして、今まさに空を埋め尽くさんとする蜂虫人達に向けて、鴉天狗達は突貫を始めるのだった。
「狛っ!こっちだ!」
拍の呼びかけにより、狛は胴体着陸寸前といった形で結界の中に滑り込んだ。小さな傷は人狼の超回復力で治癒していくが、副腕が刺さったままの腹はそうはいかない。血を吐きながら猫田を
「狛、なんて酷い怪我を…待っていろ。すぐに……!」
「ごほっ…!あ、ありがとう。それより、猫田さんは……猫田さんを…!」
「これは…酷い……」
猫田を受け取った
その惨状を見た大国主命が
「
「はい。…というよりも、もはやこれしか手段はありませぬ。
そして、
「大国主命よ。稲荷の主神
「えっ!?」
「なんと……!?」
「神様…?猫田さん、が…?」
「…この事は、先日私の神域で本人にも伝えておいた話です。大口真神が奪われ、常世神復活が現実の脅威となった時…あの常世神を打倒する最後の切り札として……」
そうして、
それは狛達が
「猫田、話があります。聞いてもらえますか?」
「…んあ?なんだよ、改まって。俺も狛も疲れてんだ、
「そのままで構いませんよ、あなた達は本当によくやってくれました。大口真神を奪われてしまったとはいえ、あなた達の働きは素晴らしいものでした。まさかあの志多羅神が敵だったとは思いもよりませんでしたが、あれさえなければ、きっと守りきれた事でしょう。まずは、改めて礼を言わせてください。…ありがとう」
「よしてくれ。人に感謝されるのはだいぶ慣れたが、それでもあんたらみてーな神にありがとうなんて言われると身体が痒くなって仕方ねぇ。俺は猫又だ、あんた達とは相容れねぇ妖怪だからな」
猫田は小さな猫の姿だからか、後ろ足で顎の下を掻いたり、前足で顔を洗ってみせたりしている。狛に感謝された時は恥ずかしがっていた程度で済んだが、流石に神に感謝されるのは面白くないらしい。ストレスからは逃れたいと言いたげな態度である。
そんな猫田の様子を見て、
「そのことなのですが……時間もないことですし、単刀直入に言いましょう。猫田、あなたは神に成る気はありませんか?」
「はぁ!?冗談だろ?」
「冗談などではありません。あなたは六百年という長い時を生き、その間に多くの人や動物の命を救ってきた事でしょう。神格を得る資格は、十分に持っています」
「いや、冗談じゃねーのはこっちの方だぜ!?何で俺が窮屈な神なんぞにならなきゃなんねーんだ!俺は自由気ままに生きられる猫又の方が性に合ってる。そんな誘いには乗れねーよ」
「…本当に正直な所を言えば、これは最後の策でもあるのです。常世神は本来、冥界の神、彼のものに生や死という概念はありません。もしも、常世神が復活し、現世に舞い戻ってしまったら……打ち倒す手段は一つしかないのですよ」
「なんだよ、その手段ってのは」
「私達のような神と言う存在が、神話という己に定められた形でしか力を行使できないという話は知っていますね?」
「ああ」
「神の力は極めて強力で、かつ、強大なものですから、それは当然の事ではありますが…私達に匹敵するような存在が相手であるときにそれは大きな制約となります。何せ相手は神ですからね、並大抵の存在では太刀打ちできないでしょう。そこで私は考えたのです、あの常世神を封じる神話……逸話を持った神が居ればよいのだと。そうすれば、その神がいる以上、常世神は未来永劫復活することはなくなるはずです」
「なんだ、そりゃ…それで俺かよ?」
呆れたようにぼやく猫田だが、
「さきほども言いましたが、あなたならば神となる資格は十分です。本来であれば、神となる為には
「……解った、一応覚えとく。だが、いいか、この話、狛にはするなよ?」
「……解りました」
「あ、ここだここだ。ただいまー、いやぁ、広いから迷っちゃって…あれ?猫田さん、どうかしたの?」
「別に、何でもねーよ。さぁ、そろそろ桔梗の家に帰ろうぜ」
こうして、猫田は狛に黙ったまま、神域を後にした。その真意を胸の奥へしまい込んだままに。
「なるほど……確かにそれならば、あの常世神を倒し、取り込まれた人々も救えるかもしれぬな。しかし、本人の意思がなければ…」
「しかし、最早一刻の猶予もありませぬ。このままでは魂が死に、猫田は完全に消滅してしまいます。そうなる前に手を打たなければ」
「ちょ、ちょっと待ってください…!猫田さんが神様になっちゃっても、今まで通りに暮せるんですか?」
狛の疑問に、
「もしも神となれば、猫田の魂は一度、天界に召し上げられます。そこで神格を授かり、その力を下界に…人間界にもたらす必要がありますから。しばらくは戻って来られないでしょう。それこそ、あなたが生きている間に戻ってこられるかどうかは解りません。……特に、あの常世神を封じるほどの神となるわけですから……」
「そんな!?そんなのって……ごほっごほっ!」
狛は興奮したせいか、再びその手の中に血を吐いてしまった。まだ、少し気道に血が残っていたらしい。猫田が死んでしまうのも嫌だが、一緒に居られなくなるのも嫌だ。狛にとって猫田はもう大事な家族であり、かけがえのない存在なのだ。だが、そんな問答をしている余裕はない。
「くっ!?虫共の数が増えてきている。親父と朧だけでは限界だ…!早くなんとかせねば結界が持たんぞ……!」
バチバチと結界に干渉する音が響き、結界のすぐ外ではカミキリムシの虫人達がキイキイと鳴き声を上げている。朧と真は懸命に虫人を倒しているが、どう考えてもたった二人で処理しきれる数ではないのだ。狛は意識のない猫田の顔を撫でながら涙を流して呟く。
「猫田さん、お別れなんて…嫌だよ……もっと、ずっと一緒にいられるって、思ってたのに……うぅ、ぅぅぅ…!」
狛は自分の感じていた不安が的中したと知り、今度こそ涙を堪える事が出来なかった。猫田と出会ってからもうすぐ一年、この間に起きた様々な出来事は、全て猫田が居てくれたから乗り切れたのだ。精神的支柱にもなっている猫田を失うことは、狛にとって身を削るよりも苦しく、辛いことである。
その時、それまで意識を失っていた猫田が目を開いた。狛の血が猫田の身体に触れ、狛の霊力が少しだけ流れ込んだためだ。そしてかすれた声で狛に優しく応える。
「こ、ま……?泣いて、やがんのか…?しょうがねぇ、やつ…だな、お前は。だい、じょうぶだ…俺は、いつだって……お前の、側に、いてやる…よ……」
「猫田さん…?!猫田さんっ!ヤダ、死んじゃヤダよっ!死なないで、お願いっ!!いやああああっ!」
狛は猫田に抱き着いて、子供のように泣きながら叫んだ。溢れる血も涙も、気にする暇もない。そうして泣き続ける狛の肩に
「狛、悲しいでしょうが、決めなければなりません。このまま猫田を死なせるか、それとも……」
「うっ、ぅぅ…ぐすっ…うううう……」
そして狛は泣きながらも首を縦に振り、猫田から離れた。狛自身、このまま猫田に死んでほしいとは思っていないのだ。ただ、あまりにも急な別れが受け入れられなかっただけである。猫田の命を救う手段が他にないのなら、いつまでもワガママを言っていられない事など解っている。
「では、始めます。神体は……猫田が身に着けていたこの腕輪にしましょう。大国主命よ、
「うむ……
大国主命の言葉が終わると、夜であるにもかかわらず天から一条の光が差し込んできた。蜂虫人達だけでなく、鴉天狗達までも不思議とその光を避けており、それは真っ直ぐに猫田の身体へと降り注いでいる。そして、猫田の身体がキラキラとした光に変わっていくのだ…狛が大粒の涙を溢しながら、猫田の肉体と魂が天へと昇っていく様から片時も目を離さなかったのは、それが最後の別れであると狛自身が理解しているからだろう。
「……猫田さん、私、待ってるからね。早く…早く帰って、きてね…!」
「なんだ?あの光…何か解らないが、胸が痛む……」
「なんだろ、ワタシもすごく悲しいカンジがする……あ」
その様子は、狛の元へ向かう神奈達も目の当たりにしていた。今はレディ達とは別れ、玖歌とメイリー、そしてルルドゥと神奈が小鮎親子の飼い猫ネネを連れて走っている所であある。のっぺらぼうの怪物達は人間しか狙っていなかったので、一人残されたネネは外へ出てきた。そのままにもしておけないからとメイリーが抱えているのだが、ネネはその光を見るや否や、メイリーの腕の中で大きく鳴いた。
「ちょっ、ネコちゃん、ドーしたの!?」
「待って……その子だけじゃないわ。あちこちから、いや、これ街中の猫が鳴いてるみたい…!」
「ええっ!?」
「な、何が起きているんだ?!」
玖歌の言葉通りに耳を澄ませば、街の至る所から、猫と言う猫が一斉に大きく鳴いているのが確認できた。野良猫も飼い猫も関係なく、ただひたすらに猫達は遠吠えのような大声を張り上げている。
それは、猫田と言う彼らのボスとの別れを告げるものではなく、新たな猫の神が生まれることを本能で悟った猫達による歓喜の歌だ。しかも、その鳴き声はどんどんと勢いを増し、次々に広がって中津洲市から隣の町へ伸びまた隣の町へと波及する……そして遂には県を越え、瞬く間に日本中へと拡大していくのだった。