「ああ…あああっ…止めて、お願い…アスラを、アスラを返してっ!」
狛の絶叫が降魔宮に響き渡っている。大狗神は、目的の狛ではなくアスラをその牙に捉えた事が不満だったのか、狛の目の前にアスラを吐き捨てた。アスラの身体は、腹と背中を大狗神の太く鋭い牙で貫かれていて、素人目にも助からないと判断できるほどの大怪我を負っていた。
アスラ自身の血と、大狗神の涎に塗れてアスラの身体は汚れてしまっているが、狛は構う事なくアスラの身体を抱き上げた。アスラはガフッと大きく咳をするようにして血を吐いた後、最期の力を振り絞って狛の頬を一舐めして、そのまま息を引き取ってしまった。
「あ……?アスラ…?いやだ、嫌だよアスラ…死なないで、お願い……まだ、私を置いて行かないでっ…!ああ、ああああああっ!」
号泣する狛の悲痛な叫びが猫田の意識を覚醒させた。昏倒させられていたのですぐに状況は飲み込めなかったが、アスラの身体を抱いて泣く狛の姿を目の当たりにして事態を察した猫田は、血が流れるほど強く唇を噛んでいる。
「アスラ…ちくしょうっ!俺がしっかりしてりゃあ……!」
猫田は自虐的にそう呟くが、その身体のほとんどは動かないままだ。龍点穴でカイリが槐の攻撃を受け、体の自由が利かなくなったのと同じ事が、猫田の身体にも起きている。高出力の霊力を固めて作られた槐の
一方で、嘆く狛の様子を見ていた槐は、実に露悪的な笑みを浮かべて大きく笑った。そして、追い打ちをかけるように狛に勝手な言葉を投げ掛ける。
「ふふ、はははっ!泣かせる話じゃないか、狛。犬殺しの犬神家を救うのが愛犬だとはな!…よく聞け、アスラを殺したのはお前の無力だ。お前がもっと強ければ、アスラは死なずに済んだのさ!狛、これで解っただろう?掟に従って生きた所で、大事なモノを守る事など出来んとな!」
槐の言葉は、まさに呪いの言葉そのものだった。槐という男自身が、犬神家の掟に従って生きた上で、
「ああ…あああっ…うわああああ…!」
「悲しいか?悔しいだろう?そうだ、泣け、喚け!己の無力と掟の下らなさを思い知れ!自分達が守ってきたものなど価値の無いものだと理解しろ!そうすれば、俺がお前に力を与えてやる!ヒャハハハ!」
それは嘘偽りない槐の本心である。槐は自分には無い狛の才能…人狼への変化に誰よりも嫉妬していた。確かに槐は誰よりも優秀で、犬神家の当主になれるだけの実力と才能があった。しかし、犬神に選ばれなかったというだけの理由で、彼は当主になる道を閉ざされた。それはかつて、ずっと慕っていた狛達の母、
故に、彼は呪った。自分を認めなかった五匹の犬神達と、犬神家の全てを。しかしそんな中、槐は狛が人狼化という新たな才能を開花させたことを知る。槐の内心は嫉妬と、新たな希望に湧いたことだろう。自分達の血に眠る、誰も知らぬ才能がある……それは彼の心に、どうしようもなく希望と羨望を強く焼き付けていた。槐が狛に執着しているのは、それが理由である。
「お爺ちゃん、アイツ気持ち悪い……」
「人の憎しみ、か……度し難いものだ…」
そんな槐の身体から放たれる怨恨の感情は、妖怪である
「ああ、槐様…あなたは、やはり……」
そして、誰よりも槐の傍に居て、彼だけを見つめてきた
そう、槐は既に狂っていたのだ。己の劣等感により犬を殺し、呪いによって狗神を生み出したその時から。
呪術として伝えられる狗神とは、人に憑りつき、その精神を狂わせる憑き物である。その力によって、犬神使い達は犬神筋と呼ばれ、古くから恐れ忌まれてきた。だからだろう、当然、狗神を使えば使うほど槐は正気を失っていく。龍点穴で彼が異常な姿を見せたのはそれが原因であり、槐自身、そして
犬神家本家に伝わる五匹の犬神達だけが、人と平和に共存する特別な存在だったのである。
何故、イツ達だけが特別なのか?その理由は誰も知らない。だが、この場にいる者達だけが、その理由の一端を垣間見ることとなる。
「ぅああ、うう……」
狛の瞳から、大粒の涙が零れている。その一滴がアスラの身体に落ちた時、それは起こった。狛の涙を受けたアスラの身体が、にわかに輝きを放ち始め、ゆっくりとその姿を変えていく。
「む…?なんだ?一体、何が起きている…?!」
「アスラ……?」
アスラの身体は、徐々に光の粒に変わっていた。その光沢のある黒い毛皮が見えなくなるほど強い光に変化して、アスラの身体が段々と薄れている。いつの間にか、狛の身体からイツが抜け出して、狛の隣に立って大きな遠吠えを始めていた。その咆え声は、神を称える讃美歌のように響いて、まるで新たなる生命の誕生を祝っているかのようだった。
「ゥゥオオーーーン!」
「あれは……まさか!?」
猫田は、その光景に思わず目を奪われた。立ち昇る光へと変わっていったアスラの姿が、再び狛の目の前に現れたからだ。アスラは新たな犬神として、狛の元に舞い戻ったのである。
「ば…バカな!?アスラが、い、犬神になった……だと!?」
それは狂気に侵されつつある槐にとっても、信じられない出来事であった。狂気と正気の狭間で、槐は一つの真実に気付かされた。
(まさか、本家に伝わる犬神とは呪術によって生み出されたものではなかったのか…?だとしたら、俺は…何のために犬を、殺して……)
槐もまた犬神家の一族らしく、犬をこよなく愛する性質を持っている。狂気に蝕まれながらも、力を求めた彼が犬を殺す事は相当の苦痛であったのは言うまでもない。その罪の意識を誤魔化していたのは、先祖である開祖犬神が生み出したという犬神の存在だ。最初に狛へ言い放ったように、犬神家は皆、犬を殺して栄えた先祖の血を引いているのだと自分を偽り、自分の行いを正当化していたのである。
だが、その前提は崩れ去った。今、狛がアスラを犬神に変えたのと同じ事を開祖がやったのだとしたら、元より祖先に罪などなくなる。百の言葉よりも雄弁に、槐は己だけの罪を浴びせられたのだ。
「ち、違う……そんなこと、あるはずがない!そうだ、認められるものかっ!」
狼狽える槐は、現実を認められなかった。新たな狛の犬神になったアスラと、自らが呪術で作り上げた狗神の姿は、全くの別物だ。口から上の頭が無い異質な怪物と、生前の姿を保ったまま、光を湛えたアスラの姿…両者は誰の目から見ても、同じ
「アスラ…!これからも私と一緒にいてくれるんだね……?嬉しい!アスラが死んじゃったのに私、嬉しいよ。どうしていいのか、解らないくらい…っ!」
狛もまた、槐とは違う意味で現実を受け入れるのが難しいようだった。アスラが死んでしまったという悲しみと、新たな犬神として魂が繋がり、この先ずっと一緒にいられるという思いが、うまくかみ合っていないのだ。ただ一つ言えるのは、犬神として狛と一緒にいられることを、誰よりもアスラ自身が喜んでいるということだけだ。
こうして、狛と槐の戦いはいよいよ決着の時を迎えようとしているのだった。