一歩ずつ、山本が京介に近づいてくる。二人の間はそれほど距離が離れているわけではない、が、それがとても長く感じるのは京介の感覚が研ぎ澄まされているからだろうか。
あとたった数歩で、今度こそ戦いに決着がつく間合いに入るだろう。山本の足音はまるで処刑人が罪人に向かっていくような、得も言われぬ緊張感を醸し出していた。
(今は痛みを忘れろ……集中するんだ。じゃなきゃ、勝てない)
京介の愛刀は、その銘を一刀という。現代の隠れた名工と謳われた刀匠、近江逸刀が人生の最期に全力を持って打ち上げた名刀だ。かつて、末代まで祟るとして先祖にかけられた呪いを、近江逸刀本人から解呪の依頼を請け負ったことで知り合った。そこで京介の退魔士としての活動や考えに賛同した彼が、京介の為だけに打った刀が一刀である。それは今まで、京介をあらゆる危難から救ってくれた相棒であり、最高の一振りだ。
その一刀を握る手に、渾身の力を込める。
回復魔法の効果で痛みは和らいでいるが、骨折自体が治癒しきったわけではないので、まだまだ痛みは残っているし、左腕は動かない。だが、今はそれを気にしている時ではない。魔王としての本性を露わにした山本の力は、想像以上だ。とてもではないが長期戦は不利で、勝負が長引けば勝ち目はない。ならば、一撃の重みに賭ける他ないだろう。
連打で反撃の隙を与えないようにしていた先程とは真逆の結論だが、状況の変化に対応する柔軟さは重要だ。
そして遂に、京介の目前に山本が立ちはだかった。尋常ではない妖力の圧だが、一歩足りとも引くつもりはなかった。二人がほんの少しだけ睨み合った後、先に動いたのは山本の方だ。
「グオオオオオッ!!」
大きく吼えると同時に、力任せに右の剛腕を振り下ろす。京介は素早く後ろへ跳び、その拳を難なく躱すが山本はそれを見越していたのか、京介を追うように踏み込んで左の正拳を京介に向かって打ち放った。山本の攻撃はこちらが本命だったのだろう、左の拳は実像が歪んで見えるほどの妖力が込められている。刀で受けた所でそのまま打ち抜くつもりのようだ。
「……そこだっ!」
だが、京介もまた、それを読んでいた。滑るように左拳の外に沿って踏み込むと、すれ違い様に横一文字で山本の胴を薙いだ。
「っ!?」
しかし、山本の身体は非常に硬く、京介の一刀を弾いていた。切れたとしても精々腹の皮一枚と言ったところで、到底大きなダメージとは言い難い。しかもそのまま、山本は身体を捻じって、振り抜いた左腕を強引に差し戻し、裏拳のような形で京介を殴りつけたのだ。
「ああっ!き、京介!?」
先程以上の勢いで吹き飛ばされた京介を見て、ルルドゥが叫ぶ。頭が弾け飛んでしまったかのような激しい衝撃音だったが、京介は飛ばされた後、綺麗に着地してみせた。一体どういうことなのか。
「くぅっ……!」
京介は裏拳が飛んできた後、それが当たる寸前にジャンプをしてその威力を殺していたようだ。山本の体勢が崩れていて、かなり攻撃に無理があったのも幸いであった。だが、流石にノーダメージだったわけではない。真っ直ぐに立っていられるのが不思議なくらいの衝撃を頭部に受けて、京介の視界は大きく揺れていた。その上、まともに動かせなかった左腕は、山本の正拳を避けられなかったらしい。法衣の上から肉が抉れて、大量の血が流れだしている。
「や、やっぱりお爺ちゃんに人間が敵う訳ないんだ…っ!お爺ちゃんはもう、元には……」
元には戻せない。そう言いかけた音霧の言葉をナツ婆が止めた。ナツ婆の顔を見上げる音霧に対し、ナツ婆は静かに口を開く。
「落ち着け、まだ終わってねぇ……アイツ、まだ何かやるつもりだぞ」
音霧はそれを聞き、慌てて京介へ視線を向けた。その視線の先では、京介が刀を地面に差し、右手で十字を切りつつ何かを呟いているようだった。
「――集え、聖なるものよ。永久に楽園と浄土に眠りし者達の護り手よ。貴き精霊と聖霊の声誉に応えよ。天と地の彼方より、魔と悪しきものを祓う輝きとならんことを――」
その呪文が唱えられるごとに、京介の足元から何かが光り輝いていた。よく見てみれば、それは京介の血である。聖血とは、本来キリストの血を指すものだが、洗礼を受けて祈りを捧げ清めることで、聖職者の血もそれに準ずるものとすることが出来る。京介は自分の血と祈りの言葉、そして力の源である法力を触媒として疑似的な聖血を作り出し、一つの大魔法を発動させようとしていたのだ。
「ッ!?」
その輝きに、山本は恐れをなし、京介から離れようと後退っている。しかし、既に光は山本の足元に届いており、その光に触れただけで身動きが取れなくなっていた。次第に輝きは強くなり、やがて山本の全身を覆い尽くすほどに眩い光が溢れ出す。
「――打ち祓え!神聖破邪結界!」
最高潮に達した光が山本を包み込み、大きなダメージを与えていく。それは極めて強力な聖属性のフィールドを作り出す大魔法だ。結界と名付けられているが、その力場内に入った邪悪な者を高い威力を持って滅ぼすという非常に攻撃的な魔法である。京介が使える魔法の中では屈指の威力を持っているが、その余りの威力と消費の大きさから、使う事を躊躇っていた魔法でもある。
「グ、ガ…アア……」
光が消えた時、山本はボロボロの状態でその場に崩れ落ちていった。どうやらまだ息はあるようだが、相当なダメージを負っているのは間違いない。そして、倒れたその身体から、彼を蝕む黒い靄が抜けていくのを誰もがその眼で見ていた。
「お、お爺ちゃんっ!!」
その様子を見て、真っ先に飛び出したのは音霧である。すぐに駆け寄って山本を助け起こすと、山本はゆっくりと目を開けて音霧の頬を撫でた。
「おお…音霧、か……すまぬ。心配を、かけたな…」
「ううん!よかった、元のお爺ちゃんに戻ったんだ…!」
既に刀を支えにしてどうにか立っている状態だった京介は、そんな二人の再会に安堵したのか、遂に倒れ込んでしまった。神聖破邪結界は、通常ならば京介が万全の状態であっても全精力を使い果たす程の大魔法である。それにも関わらず大怪我を押して、自らの血を触媒にしてまで無理矢理に魔法を発動させたのだ。故にかかる負担は非常に大きく、反動も無視できないものであった。
「き、京介さんが…!?くっ!」
一方、猫田と戦いながらそれを見ていた狛は焦りを感じていた。あの出血量からみても、京介はかなりの大怪我を負っている。あのまま放っておけば命が危険なのは、火を見るよりも明らかだ。一刻も早く猫田と神野を正気に戻し、連れて帰らねばならない。だが、肝心の猫田は素早さを武器にして、狛と正面からぶつかり合う事をせずにヒットアンドアウェイを繰り返すばかりであった。猫田を殺すつもりがない狛にとって、この戦法はかなり厳しい。どうしても手加減して攻撃する必要がある為に、近づいてきた一瞬だけのチャンスを狙うとなると、効果的な打撃を与えるのが難しいからだ。
一発で意識を刈り取れればいいのだが、易々とそうさせてくれるほど、猫田は甘い相手ではない。しかも厄介なのは、当の猫田自身、狛が自分を殺す気が無い事を悟っているようだからだ。恐らくは黒萩がそうさせているのだろうが、やりにくいことこの上ない戦いであった。
「速く何とかしないと……!ああ、もうっ!」
焦る狛を嘲笑うかのように、猫田はスピードを活かしてあちらこちらから近づいては爪を振るい、すぐに離れていく。それに対処するうちに、狛は余計に焦りを募らせていくのだった。