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第306話 最悪の瞬間

 八雲がレディを連れて逃げ去ってから数分後、押し寄せる怪物達の波も途絶えつつあった。後は猫田と、行方の解らない山本さんもとを探し出して連れ帰るだけだ。


「これで全部、か?とんでもない数だったな…」


「でも、皆無事でよかったわ。…正直、もうダメかと思ったくらいだったから」


 神奈が最後の怪物を斬り伏せ、ふぅっと息を吐く。その周囲には大量の怪物達の死体が山積みになっていたが、それらは時間と共に崩れて消滅し始めていた。彼らを創り上げたレディの力が消えたのだろう。それはつまり、レディの死を意味している。

 佐那が伏し目がちに言っているのは、ハル爺の事だろう。狛はおろか、ナツ婆や佐那自身も戦意を喪失する寸前だった。親族の繋がりがとても強い犬神家の人間にとって、身内が敵に回ると言う事がどれほど恐ろしいのかを、まざまざと見せつけられた形だ。逆に、それを利用する槐達に対しては激しい怒りが湧いてくるので、それだけハル爺が慕われていた証拠と言えるのだが。


「まるっきり無事ってわけでもねぇな…小僧。そのちっこいのはまだ起きねえのか?」


「え?あ、ああ…おい、起きろよルル」


 ナツ婆が骸に声をかけると、骸は頭の上からルルドゥを下ろして身体を揺すってみた。レディの力の余波をまともに受けて泡を吹いて気絶したルルドゥだったが、その原因であるレディはもういないのだから、起こしても大丈夫だろう。しばらくすると、ルルドゥはハッとした表情で目覚め、辺りをキョロキョロと見回していた。


「……んあっ!?ど、どこだここは!?」


「寝ぼけてんじゃね、引っ叩くぞ」


「ヒェッ!?か、神を叩くなぁ!」


 慌てて頭を庇う仕草をみせるルルドゥだったが、そこでようやく状況を飲み込めたらしい。悍ましい気配と妖気が消えていたことに安堵してホッと胸を撫で下ろしている。


「ああ、終わったのだな。後は猫田とナントカって妖怪を探して帰るだけか……早く帰りたい」


「お爺ちゃんはナントカじゃないぞ!?失礼な!」


 今度は音霧が憤慨してルルドゥに食って掛かっていた。どうにも気の抜けるやり取りだが、激戦の後に肩の力を抜くにはちょうどいい。少し前に目を覚ましたアスラを撫でながら、狛がルルドゥ達のやり取りをみて微笑んでいると、隣に京介がやってきて、優しく肩に手を置いた。よく見ると京介の手はぼんやりと光っていて、その光が狛の全身に移ると身体の痛みが嘘のように消えていた。


「狛ちゃん、大丈夫かい?……うん、そう大きな怪我はなさそうだね。軽い回復魔法ヒールで問題なさそうかな」


「京介さん、ありがとうございます。…早く猫田さんを助けてあげなきゃ」


「さっき少し様子を見たが、猫田さんも目立った怪我はなさそうだよ。ただ、かなり霊力を消耗している。あの肉壁が力を吸い上げているんだろう。さて、どうやって助けるか…」


 人の姿で磔のようになっている猫田は、手足の先が肉壁に埋め込まれてしまっているようだった。そこから霊力を吸われて、抵抗出来なくさせられているらしい。意識もほとんどないようで、声をかけてもほとんど反応がない。呼吸をしているのと、微かに呻くような声を上げているだけだ。

 無理矢理にでも引っ張り出してしまおうかと考えたが、埋め込まれている部分がどうなっているのか解らないので迂闊なことはしづらい。どうしたものかと考える京介の隣で、狛も複雑な表情を見せている。それに気付いた京介が、あえて明るく声をあげた。


「気になるかい?大丈夫、猫田さんは丈夫だからね。すぐに助け出すよ、安心してくれ」


「…あ、はい。その、猫田さんのこともそうなんですけど……」


「うん?他に何か気になる事でも?」


「はい…今、そんなこと気にするべきじゃないのかもしれないけど…私おかしいのかなって」


「…どういうことかな?」


 狛の言葉が気になって、京介は一旦手を止めて狛の方を向いた。青褪めた顔の狛が何かを思い悩んでいるのは解るが、一体何に悩んでいるのかが見えてこない。しばらく言葉の続きを待ってみると、狛は静かに胸の内を明かした。


「レディちゃんのこと、私、どうしても嫌いになれなかったんです。そりゃ怒りはしたけど…死んじゃったのかなって思うと、辛くて……ヘンですよね?私や皆の事を殺そうとしてきた相手なのに…」


「ああ、そう言う事か。…うーん、そうだね。確かにその感覚は、変わっていると言ってもいいかも知れないな。でもね」


 京介は改めて狛の手を取り、その瞳を覗き込んで言葉を紡いだ。


「君のその優しさは大事なことだよ。…あの子は、友達だったんだろう?」


「はい。少なくとも、私はそう思ってました」


「なら、それでいいんだよ。友達だから何でも許せってわけじゃあないけれど、人を赦せるってことはとても貴い事なんだ。無理に変わる必要なんてないんだよ、君の…狛ちゃんのその心で、きっと救われる人もいるはずだからね。君の周りに人や妖怪が集まって来るのも、その心のお陰だろう。大事にした方がいい。ただし…」


「え?」


「優先順位を間違えちゃいけないよ。狛ちゃんにとって何が大事なのか、それを常に考えておくんだ。人が一人で全てを救うことなんてできやしない、何もかもを助けようとして、本当に大切なものを失ったりしないように。そこを誤ると、きっと後悔することになってしまうからね」


「はい。ありがとう、ございます…!」


 狛の表情が少し明るくなったのを確認して、京介は再び囚われた猫田に視線を投げた。


「さて、早く猫田さんを出してやらなきゃな。…どうしたものか」


 京介が肉壁に触ってみると、その表面はグニグニとして弾力を感じる柔らかさをしていた。ある程度の硬さもあるようで、無理に引っ張り出すのはやはり危険だろう。刀で斬り出す事も考えたが、中がどうなっているのか解らないのでそれも難しい。狛も一緒に壁に触って考えていると、ふと何か違和感を覚える場所があった。


「…あれ?なんだろ、ここ……」


「どうかしたかい?」


「いや、なんかここだけ冷たいな……って、あ!もしかして!」


 狛が気付いたのは、猫田の左腕があるであろう部分だった。外からは見えないが、ちょうど真っ直ぐに伸びた猫田の腕がここにあるとすれば、その冷たさの理由も理解できる。猫田の左腕にあるもの、それは狛がプレゼントしたバングルだ。そしてそこには、氷雨の遺した氷の結晶がはめ込まれている。あの結晶は強い冷気を放っているので壁の表面まで冷たくなっていてもおかしくないだろう。狛がそれを伝えると、京介は大きく頷いて刀を抜いた。そして慎重に、腕があると思われる場所に沿って刃を入れていく。


 そんな二人の元に、神奈達も集まってきていた。それはドラマで見た名医の手術シーンのような緊張感があり、一同は固唾を飲んで見守っている。すると…


「……よし。狛ちゃん、ちょっとこの腕を引っ張ってみてくれないか?」


「あ、はい!」


 声をかけられた狛は急いで猫田の腕の付け根を掴むと、ゆっくりと力を入れて引っ張ってみた。ズブズブと、重く僅かに水音を伴った低い音がして、刀で作った切込みから猫田の左腕が顔を覘かせた。


「大丈夫そうだね、そのまま一気に引っ張ってくれ」


「はいっ!」


 もう少し力を入れて、壁の中に手を差し込み、狛は勢いよく猫田の腕を引っ張る。この頃にははっきりと、氷雨の遺した結晶からの冷気が感じられていて、猫田の腕も健在であることがしっかり認識できていた。ようやく猫田を助けられると、狛は喜び狛は渾身の力で壁から猫田の腕を引き抜いた。


「やった…!猫田さん、もうすぐだからね!」


「よし、残りもやってしまおう。少し離れていてくれ」


 京介は残った右腕と、両足の太ももから下の部分も同じ要領で切り開けていった。既にどのくらいの深さに取り込まれているのかは解っているので、かなり手際よく進められたようだ。狛も要領を得たので、人狼化して猫田の身体を抱え、一気に引き出していく。

 ちょうど猫田の全身が外に引っ張り出されたその時、全員の背後から聞き覚えのある声が投げかけられた。涼やかで落ち着きのある、どこか冷たい女性の声だ。


「…まさかレディ達を破るなんてね、これは誤算だったわ。まぁいいでしょう、


「え?…………あ」


 現れた黒萩こはぎの声を合図にして、意識を失っていたはずの猫田が目を覚まし、自分を抱き抱えていた狛の腹に爪を立てた。その瞬間、誰もが言葉を失って水を打ったような静けさが降魔宮を包み込む。ゆっくりと崩れ落ちる狛の隣で、猫田の瞳が怪しく光りを放っていた。

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