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第299話 天へ還れ

「ああ、ハル、ハル……ううぅ…すまねぇ、儂が…儂も一緒に……」


 顔を抑えて泣き崩れるナツ婆の姿からは、さきほどまでの勇猛さが嘘のように消え去ってしまっている。ナツ婆にとって、ハル爺は最愛の夫であり、彼女の人生においてただ一人きりのパートナーだったのだ。それ故に、ハル爺を失ってから狛の元へ訪れた数日前までは、抜け殻のようになってしまっていたと言うし、恐らくナツ婆の本当の望みはハル爺と共に生きて死ぬことであったのだろう。正月のあの時からずっと胸に燻っていた、一人生き残ってしまった事への後悔が、変わり果てたハル爺のゾンビを見て更に更に強くナツ婆の意識を苛んでいるようだった。


「こんな、こんなの…イヤだ……!」


 一方狛も、ゆっくりと近づいてくるハル爺のゾンビを前にして、戦意を喪失してしまっていた。生れ落ちた時から母を亡くし、兄や父と共に狛を育ててくれたのは、父方の祖父母であるハル爺とナツ婆である。父である真は、自らを付け狙う妖怪から家族を守る為に家を空ける事が多かった為、兄の拍とハル爺ナツ婆が、狛にとっての親代わりだった。もちろん、犬神家の他の親族達も皆で狛を大事に育ててくれたのだが、ずっと一緒に暮していた分ハル爺とナツ婆に対する感情は特別だ。


 そんな大切な家族が今、無惨な姿を晒しつつ迫ってきている。それは身内を敵に回す事が出来ない狛にとって、最も的確な弱点と言えた。


「アア、アアア……ナツゥ…コマ…クル、シイ……タスケ、テ……」


「ハ…ハル爺…っ!」


「フフフ」


 しかも、既に死んでいるはずのハル爺のゾンビは苦悶の声を上げている。それがまた、二人の心を深い闇に縛り付けていた。だが実際に、ハル爺のゾンビに喋らせているのはレディである。彼女は死霊術師ネクロマンサーとして死体を扱う上で、どんな動きが生者に影響をもたらすかを誰よりもよく解っているのだ。そうとは知らない狛達は、まるで本当にハル爺の魂が苦痛を訴えているかのような思いに囚われてしまっていた。


「彼女達の最愛の家族を利用するとは…外道め……っ!」


 京介は怒りを吐き捨てるように言い放つ。しかし、狛達を助けに行こうにも、ここで襲い来る怪物達から離れれば、全滅は必至だ。今は京介と神奈が前衛に立って怪物を倒し、打ち漏らしや二人を掻い潜った敵を音霧と佐那が倒してようやくギリギリ食い止めている状態なのだ。しかも、佐那もまた、ハル爺のゾンビが現れた事に動揺して、本来の力を発揮できずにいる。とてもこの状況では助けになど動けない。


「狛っ!…くそ、私は狛を助ける為にここへ来たのに…!」


 神奈もまた、押し寄せる怪物達への対処にかかりきりで身動きを取れないことに苛立ちを隠せなかった。出来るなら、例え狛達に恨まれようとも、ハル爺のゾンビを倒して彼女達を救いたい。だが、京介以上に余裕がない神奈の力では、どうする事も出来ないのである。


「コマ……シンデ、シンデクレ…イッショ、ニ…イテ…!」


「いや、イヤだよ…ハル爺、こんなの……お願い、もうやめて!」


 ハル爺は緩慢な動きで大斧を振り上げ、狛目掛けて振り下ろす。決して鋭い動きではないので、これがただのゾンビであれば容易に反撃して倒せる相手だ。だが、相手がハル爺というだけで、狛もナツ婆も、どうする事も出来なくなってしまう。狛達は退魔士として、そこを割り切った戦い方が出来なければならないのだが、正月から続く身内の裏切りと激変する日常からのストレスなのか、そんな強さを発揮できずにいた。


 ガツン!と激しい音を立てて、床を斧が抉る。狛は本能的に斧を躱したものの、半分腰が抜けてしまっていた。次は避けられるか解らない、そう思った時だった。


「ガルルルル…ッ!」


「アスラ!?」


 ハル爺を見て、尻尾を巻いてしまっていたアスラが、狛を助ける為にハル爺へと飛び掛かった。アスラもまた、ハル爺やナツ婆に育てられた記憶から戦えずにいたのだが、狛を助けなければならないという強い意思が、ハル爺への想いを上回ったようだ。しかし。


「ア、ジャマ…ヲ、スルナ…!」


「アスラ、ダメ!離れてっ!」


 ハル爺は、右腕に噛みついたアスラの頭を目掛けて、左腕に持った大斧を勢いよく振り下ろした。狛の命令も間に合わず、容赦のない一撃がアスラを襲う。


 眉間に強烈な一撃を受けたアスラだったが、その身体は無傷である。その代わりに、バギンッという破砕音がして、アスラの首輪に付いていた深緑色の勾玉が、また一つ割れ砕けた。アスラが激しいダメージを受けた際に、身代わりとなる勾玉はもう一つも残っていない。この勾玉は、開祖である初代犬神(名は残っていない)が作り上げたものを再現したものだ。秘伝として伝えられてきたが、現代までそれを再現できたものはほとんどおらず、唯一人、狛の兄である拍だけが作り上げる事に成功したアイテムである。従って、拍が意識不明の昏睡状態にある今、それを補充する事は叶わなかったのだ。


「アスラ!」


「なぁに?あの犬、不粋ね。…邪魔だわ」


 レディの言葉に反応するように、ハル爺は全力でアスラを振り回し、そのまま地面に叩きつけた。痛みを感じないゾンビ相手に、嚙み付いたままでいるのは圧倒的に不利なのだ。


「ギャンッ」


「ああっ!や、止めてぇっ!!」


 衝撃で牙を放し、倒れたままのアスラにトドメを刺そうと、ハル爺は再び大斧を振り上げる。その身を守る勾玉がない今、あの一撃を喰らえばアスラの命はない。狛は咄嗟に身体が動いて、アスラに覆い被さるようにして彼女を庇った。


「あら、これでお終いかしら。…サヨナラ、狛」


 レディの呟きに呼応するように、大上段に振りかぶられた大斧が凄まじい勢いで落とされる。その時、微かなつぶやきが、狛の耳に届いた。


「狛…逃げ、ろ……」


「…猫田さん!?」


 同時に、制服の下に巻かれていた九十九つづらが伸びて傘のように広がり大斧を防いでいた。しかも、狛の意志とは無関係にイツが影から飛び出して、小さいままながらもハル爺を体当たりで突き飛ばす。


「九十九、イツも……そっか、そうだ…私、ここで終わるわけにはいかないんだ」


 もはや狛の身体の一部のように、ずっと守ってくれている着物の付喪神九十九つづら。母の命と引き換えに生れた自分と共に生きていた犬神のイツ…ここで狛が死ぬことは彼らに対する裏切りだ。どちらも自らの意志で、狛と共に在る事を望んでくれたのだから。それはアスラも同じである。狛が拾い、育ててきたアスラは、自身の危険もハル爺への思いも断ち切って狛を守ろうとしてくれた。そして何より猫田もまた、狛の身を案じてくれている。

 それに気付いた狛は、気絶しているアスラを一撫でして、ゆらりとその場に立ち上がった。それに合わせて、イツが狛の身体に飛び込み、九十九が全身を覆っていく。


「…もう迷わないよ。これ以上、私の大事な家族を傷つけさせたりしない!」


「ウゥ…コマ、ナツ…イタイ、クル、シイ……」


 壊れたように言葉を繰り返すハル爺は、再び狛に向かってきた。そして、今度は横薙ぎに、狛へ大斧で攻撃を繰り出す。


「ハル爺……ごめんね」


 狛はその一撃を左手で受け止めると、歯を食いしばり右手でハル爺の心臓を打ち貫いてみせた。そして、そこから大量の霊力を流し込み、ハル爺の身体を破壊する。もう二度と、レディの術で操られることのないように……ハル爺に安らかな眠りを、狛はその手で与えたのだ。


「狛、ナツ……すまな、い……ありが、と…う…」


「あ、ああ…!?」


 既に滅んでいたはずのハル爺の身体は、レディの力でその形を保たれていただけである。狛の霊力でその呪縛から解き放たれた事で、ハル爺の身体は消滅するしかない。身体が消え去っていく光の中、ハル爺の魂がその場に現れると、にこやかに微笑みながら感謝の気持ちを言葉にして、天へと昇って行った。


「…Aha!どう?狛、自分の祖父を手にかけた気分は?少しはかしら?」


「レディちゃん…ううん、レディ!あなただけは…っ!」


「そう。その顔…そのよ、狛。。これでやっと、私はあなたの敵になれたハズ。……今度こそ思う存分、殺し合えるわね」


 レディは不敵な笑みを浮かべて、狛を見据えている。満願は成就し、遂に狛とレディは本当の意味で殺し合う戦いへと進んでいくのだった。

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