深夜三時よりも少し前、丑三つ時の終わり頃に狛達は桔梗の家を出発した。夜半に帰って来た桔梗に説明をした時は訝しがられたが、猫田を助けに行くことと、付き合いの長いナツ婆や佐那がいたので、特に問題なく送り出してくれたのは幸いだ。ただ、「必ず無事に帰ってくるように…」と言い含めた時の桔梗の顔は複雑で、これ以上悲しい表情はさせたくないと狛は思った。
目的地は槐達の拠点――中津洲市の郊外に位置する森林公園の地下である。大型の森林公園『なかのゆめ』は、中津洲市の豊富な自然を残しつつも人が通りやすい参道などを整備し、ハイキングや自然学習が楽しめる市民に人気のスポットである。また、災害などの有事には大規模な避難場所として扱えるようにも設計されており、簡易トイレ設置用のマンホールや、食糧に水といった備蓄倉庫も園内の数か所に用意されている。
本来、桔梗の家からは歩くと二時間以上かかる場所にあるのだが、京介の使う身体能力向上魔法によって狛達は大幅に移動速度が上がっていた為、小一時間程度で辿り着く事ができた。これには、ナツ婆も驚きを隠せないようである。
「……大したもんだな、お前。
「まぁ、昔取った杵柄って奴でね。…それより、ここが目的の?」
少し離れた草むらに隠れつつ、京介達が目を向けているのは、公園内の一角に整備された大型の地下駐車場…その入り口である。公園自体が避難場所としての使用も想定されているせいか、市内の色々な場所から人が集まっても大丈夫なように、ここにはかなり広い駐車場が用意されているのだ。おかしい所があるとすれば、駐車場の入口には立ち入り禁止の札がかかっていて、頑丈なチェーンで出入りを封鎖している点だろう。これでは災害時に機能しない、どうにもおかしな話である。
「ああ、間違いねぇ。ここが入口だ」
「見た所、監視カメラみたいなものは無さそうだ。近づいてみよう」
ナツ婆を先頭に、地下駐車場へと近づいてみる。駐車場の入口は縦横にかなりのサイズがあって、トラックなどでも余裕で入れそうな造りだ。狛達も何度かこの公園を訪れているが、この駐車場にはあまり近づいた記憶がない。灯りもないその入り口は、巨大な怪物が口を開いて、獲物が入り込んでくるのを待ち構えているような雰囲気であった。
最後尾を歩いていた京介はコンクリートの地面に手を触れると、目を瞑って何かを感じ取っているようだった。数十秒の沈黙の後、京介は静かに呟く。
「確かに、ここには妖怪や魔物が通った痕跡があるな。巧妙に隠されてはいるが、そう古いものじゃない。……考えたな、ここなら大量の怪物達でもすんなり出入りできそうだ」
「ここに猫田さん達が……待っててね、すぐ助けに行くから」
「早く行こう!お爺ちゃんが待ってる…!」
「落ち着け、見つかったら元も子もないぞ!」
逸る音霧を宥めているのはルルドゥである。猫田はルルドゥと音霧に共通点を感じていたようだが、二人は精神的に近いものがあるのか、そう相性は悪くなさそうである。小さな神と魔王の孫というのは中々面白い取り合わせだ。ルルドゥを腕に抱いて立つ音霧の姿は見た目通り子どもらしくて違和感がない。こんな状況でなければ微笑ましささえ感じる姿である。
「…ああ、そうだ。中に入る前にこれを渡しておこう。こんな事もあろうかと、少し準備をしてきたんだ」
京介はそう言うと、キャソックと呼ばれる法衣の腰に提げた巾着袋から小さな何かを取り出し、それぞれに手渡した。もちろん、アスラにも忘れず首輪に付けてやる。
「京介さん、これは?」
「…おう、懐かしいな。根付か」
「ネツケ?」
根付とは現代風に言えばチャームのようなものだ。アクセサリーに付ける小物の事を言い、、昔流行った携帯のストラップにも似ている。京介の取り出したそれは親指の先ほどの大きさをした、小さな飾りであった。本体は木彫りで出来ていて、形は犬とも猫ともつかないが、なんとも愛らしいデザインをしている。それに短い組紐のようなものが通してあって、ぱっと見は観光地の土産店にありそうな小物である。
「それには隠形術が仕込んであってね。身につけていれば、気配や足音、それに匂いなんかも妖怪や悪魔から隠してくれるんだ。ただし、あくまで対怪異用だから、相手が人間だとほとんど効果がないんだが」
「へぇ…でも、便利ね。今回みたいに潜入する時には打ってつけだわ。
「本来は、依頼人を保護するのに使うものなんだけどね…まぁ、こういう時にも使えるはずだから、持っていてくれ。それと、触れてしまったら流石にバレるから気をつけて。それじゃ、行こうか」
京介は普段、個人で退魔士をやっているが、怪異に襲われた依頼人を守る為にこの根付を渡して、襲撃者から依頼人を保護する事に使っている。今回はそれを応用した形だ。ルルドゥまでを含めて全員に行き渡った所で、狛達は地下駐車場へと足を踏み入れた。
入口にかけられたチェーンを乗り越えて中に入ると、どうやら中は緩い下り坂になっているようだ。時刻は朝四時を回っていて、この時期は既に朝陽が周囲を照らし始めている。ただ、当然ながら地下までは光が入って来ないので、少し坂を下っただけで駐車場の中は真っ暗である。そうきつい坂ではないが、足元に気をつけないと危なそうだ。懐中電灯の一つも欲しいが、ここで明かりを点ければすぐに侵入者とバレてしまうだろう。ゆっくりと慎重に進むしかなさそうである。
しばらく壁に手を付けつつ歩いていると、下り坂はらせん状になっているのが解った。その証拠に、それほど進んだはずはないのに入口は見えなくなっており、辺りは完全に闇の中だ。こんな場所なのにかび臭さがほとんどないのは、やはり人の出入りがあるからだろうか。
「しかし、暗いな…何も見えないぞ」
「…神奈ちゃん、足元気をつけてね。でも、どこまで続くんだろう、これ……っ!?」
狛の言葉が詰まったのは、その瞬間に、何かを越えた感覚があったからだ。闇で視覚が抑えられているせいか、第六感が酷く鋭敏になっている。他の者達も同じ感覚を味わったようで、全員の間に緊張が走っていた。
「…っ!?」
いつの間にか、狛達のすぐ隣を大きな怪物が並んで歩いていた。京介がくれた根付のお陰か、その怪物は気付いていないようだが、余りにも巨体の為に手が触れてしまいそうなほど距離が近い。そして気付けば、これまで真っ暗闇だったはずの坂道はほのかに明るくなっている。どうやらこの駐車場は現実の空間とズレた位相が重なっている半異界といった場所のようだ。先程何かを越えた感覚がしたのは、そこに足を踏み入れたからだったのだろう。
狛達は立ち止まり、息を殺して巨体の怪物が去っていくのを待った。四足歩行の怪物は天井に頭がぶつかりそうなほど大きい。戦って負けるとは思わないが、こんな入り口付近で暴れる訳にもいかない。しばらく経つと、その怪物はずるずると腹を引きずりながら坂を下っていき、やがて見えなくなっていった。
「な、なんだったの?あれ…」
「……見覚えがないな。あれじゃ妖怪というよりモンスターだ。槐という男は、ここで一体何をしようとしているんだ?」
槐の目的は、この国を妖怪と人間が手を組む呪術国家にするというものだと聞いている。彼はその為に、未知の怪物を作り出そうと言うのだろうか。狛達は息を呑んで、この先に待ち構えいるであろう脅威に、思いを巡らすのだった。