重苦しい空気が、室内を満たしていた。
音霧が語った内容は、にわかには信じ難いものではあったが、彼女の怪我の様子や、先程出会った時に狂華種の影響下にあった事を考えれば嘘はついていないだろう。ただ、そうなると猫田達が敗北してから、既に三日が経過している事になる。
「そう、そんなことが……」
「私、お爺ちゃんの空間から出た後、気を失ってて…気付いたら、あの山の中だったんだ。そしたら、今度は頭が痛くなって…狛を探して、殺さなきゃ…って……!」
「うん、大丈夫だよ、解ってるから。…頑張ったんだね」
「…っ!?うん!」
狛に抱き締められた音霧は、そのまま泣いてしまった。妖怪とはいえ、彼女はまだ子どもだ。心細さや、無力感などもあったのだろう。妖怪と言えど、人に近い形態で生きる者達はその生き方も人に近い。そもそも、妖怪の中には人の情念などから生まれるものも多いので、血も涙もない存在ばかりではないのだ。人に向けられる事は少ないが、彼らには彼らなりの感情や愛憎がある、その意味で音霧は祖父である
その時、音霧を抱いている狛の手に何かが触れた。どうやら音霧の背中に仕込まれていたようだ。狛が気になってそれを取り出してみると、それはピンポン玉ほどの小さな肉の塊であった。生理的な嫌悪感を我慢しつつ、狛がそれをテーブルの上に敷いたハンカチに乗せると、肉塊はグニグニと動き出して小さな口に変化して喋り出していた。
「これは…」
「――Hello.狛。聞こえているわよね?私よ。どうしても貴女に会いたくて、その子にメッセージを託したの。月並みだけど、貴女の
そう一方的に捲し立てて、口は元の肉塊に戻り、やがて消滅した。今のは紛れもなくレディの声だった。猫田や
再び室内を静寂が支配し、誰もが言葉を失っていた。そんな中で、狛は覚悟を決めたように小さく呟く。
「レディちゃん……よし!」
「おい、狛。お前…まさか行くツモリなのか?十中八九、これは罠だぞ!?」
「うん、解ってるよ。でもね、猫田さんが捕まってる以上、そのままにはしておけない。猫田さんと出会って、まだ一年も経っていないけど…今まで何度も猫田さんに助けられてきたんだもん。例え罠でも、助けに行かないなんて私には出来ないよ」
狛の意志は硬く、どんなに言葉を尽くしても無駄な事は誰の目にも明らかである。止めようとしていたルルドゥでさえ、今の狛の表情と言葉を聞いて、二の句が継げなくなってしまっていた。そんな中、神奈も覚悟を決めたようで、狛の肩に手を置いて語り掛ける。
「狛、一人で何て無茶が過ぎる、私も行こう。今の私なら、きっと力になれるはずだ」
「神奈ちゃん!?ダメだよ、危険すぎるよ!」
「狛が一人でいくよりはマシだろう。二人なら、猫田さんとその子のお祖父さんを連れて逃げられるかもしれないじゃないか。危険だと言うなら、尚更、力を併せよう!」
「二人でだって無謀だぞ!?ほ、他に居ないのか?!妖怪とか人間で…」
ルルドゥがそう言う間に、そっとアスラが狛に近づいてきて、狛の手を舐めた。自分も行くと言っているらしい。
「アスラも猫田さんを助けたいんだね。ありがとう、一緒に行こうね」
思えば、猫田が犬神家に居候をするようになってから、猫田とアスラはずっと一緒にいた間柄である。狛が学校に行っている分、もしかするとアスラの方が、猫田と一緒にいた時間は長かったかもしれない。そんなアスラだからこそ、猫田の危機を感じ取って救出に行こうとしているのだ。狛にはその気持ちがよく解るので、危険だと解っていてもアスラを置いて行こうという気にはなれなかった。
とは言っても、まだ二人と一匹、多勢に無勢にも程がある布陣である。せめてもう少し、味方が欲しい所だ。
「他に手伝ってもらえそうな人…あ、そうだ!」
何か閃いた狛は素早くスマホを取り出すと、誰かに連絡を取ろうとしていた。こんな時、狛が頼れる人物は一人しかいない。いつも忙しくて、すぐに連絡の取れない相手だが、今日はすぐに電話に出てくれた。
「連絡がつけばいいんだけど……あ、京介さんですか?私です、狛です!実は――」
狛は焦りながらもなんとか説明を終えると、京介の返答を待った。一方、話を聞いた京介は驚きのあまり言葉を失ったのか、しばらく黙ったままである。やがて、通話が切れてしまったのではないか?と心配になるくらいの時間が経った後、京介は口を開いた。
「解った、俺も行くよ。そうだな…二時間くらいでそっち着くと思う。くれぐれも、それまでに早まった真似はしないでくれ。それじゃあ、後で」
「あ、ありがとうございます!」
通話を終えた狛はホッと胸を撫で下ろしていた。人数は少ないままだが、京介が来てくれればかなり心強い話である。特に猫田は捕まっていて、怪我をしている可能性もあるのだから、傷を癒せる京介の力は願ってもない力だ。
「後はカイリさん達にも話をしてみるか?猫田さんの為なら力を貸してくれるんじゃないか?」
「それなんだけど、うーん……」
神奈の提案に、狛はあまり気乗りがしていないようだった。狛が気にしているのは槐達が使っている狂華種の存在だ。カイリ達くりぃちゃぁの三人娘は、戦力としては申し分ないのだが、槐達に狂華種がある以上、妖怪である彼女達を迂闊に連れて行くのは危険すぎる。
そもそも狛が神野と会ったのは人狼の里での一度きりだが、それでも
もしも、カイリ達が敵に回るような事があれば、それこそ死活問題だ。いくら気絶するほどのダメージを与えれば済むとはいえ、カイリ達のような手練れを相手に何度もそんなことはしていられない。何よりも、カイリ達と戦うような事になるのは嫌だという思いもある。人手が欲しいのは確かでも、そんな懸念を抱えたまま行動するのはリスクが大きすぎるのである。
そんな時、突然インターホンが鳴った。一瞬、京介が来たのかと思ったが、それにしては早すぎる。しかし、他に来客の予定はない。大体、今は夜である。狛は桔梗が帰ってきたのだと思い音霧をソファに下ろして玄関へ向かった。だが、訪れたのは、あまりにも予想外な二人であった。
「はい、桔梗さんおかえりなさ……え!?」
「おう、元気そうだな、狛」
「久し振りね。…また少し、大きくなったんじゃない?」
「ナツ婆に佐那姉!どうしてここに!?」
そこに居たのは、人狼の里で匿われているはずのナツ婆と、槐達から身を隠す為に離れていた佐那であった。特に佐那は、正月に槐達が反旗を翻した後、入院先から秘密裏に抜け出して、自身が所有する県外の隠れ家に避難していたはずだ。居るはずの無い二人が揃って現れたことに、狛は驚いて固まってしまっている。
「私はようやくリハビリが終わったから、そろそろ皆と合流しようと思っていた所だったの。そうしたら、突然ナツ婆が家に来たものだから…流石に驚いたわ」
「ふん。そんくれぇ見つけられるのは当たり前だ」
佐那が隠れていたのは、購入したばかりでまだ誰にも話していない、本当に私的なマンションだったようだ。槐達、調査部にもバレてはいなかったようで、これまで特に襲撃は無かったのに、ナツ婆があっさり見つけて現れたので、佐那は心底驚いたらしい。本当に疲れているその表情だけで、二人に何があったのか、狛は凡そ察しがついた。
「佐那姉の方は解ったけど、ナツ婆はどうして?
「黙って出てきたからな、爺婆共は何も知らんわ。……ハルが」
「え?」
何やら聞き捨てならない話のようだが、ナツ婆が小さく呟いた言葉に、狛は思わず反応した。ハル爺がどうしたというのだろう?
「ハルがな、夢枕に立ちおった。狛を助けろと、わざわざ言いに来たんじゃ。なら、捨て置く訳にもいかんじゃろ」
「ナツ婆……そっか、ハル爺が」
親戚全員と仲のいい犬神家にあって特に狛を気にかけてくれていたのは、兄である拍を除けば、他ならぬハル爺とナツ婆である。二人からすれば直接の孫なので当然なのだろうが、ずっと見守っていてくれるのだと思うだけで、胸が熱くなる。ならば、これ以上不甲斐無い所は見せられないと、狛は改めて気を引き締めるのだった。