「う……」
薄暗い闇の中で、猫田は意識を取り戻した。大型の猫ではなく、人の形でいるようだが、腰から下と肩まで上げられた両腕の肘から先は、柔らかく生暖かい肉の中に埋め込まれてしまっている。
これは、生きた牢獄だ。妖怪か、或いは何らかの術を使って培養した肉なのかは定かではないが、どうやら猫田を捕らえて、その霊力を吸収しているらしい。人型に変化していられる分、霊気はまだ残っているが、それも維持できなくなればその時は死を意味することだろう。
「ちっ……俺としたことが…捕まっちまうとはな。
猫田は独り言ちながら、ここに至るまでの経緯を思い出す。それは三日前、狛と喧嘩をして家を出た後の事である。
桔梗の家を出た猫田は、呼び出しに応じて、一路犬神家の所有する裏山に向かった。目的はもちろん、
「ずいぶんと急いでやがったようだが、もしかして、神の連中が討伐を終わらせたか?……神野や
秘密の合言葉と柏手を打ち、
猫田は深く大きな溜息を吐いてから、目の前にある
「おい!俺だ、来たぜ」
「……鍵は開いておる。入るがよい」
玄関前で声をかけると、屋敷の奥から腹の底に響くような低い声で
(こりゃあ相当お冠だな…八つ当たりされなきゃいいが、まぁ神野じゃあるまいし、大丈夫か)
これが
「っ!?」
猫田は突然の顔合わせに驚き、周囲を見回している。何度見ても、ここは以前にも通された
「どうした?座るがよい」
「…ああ、スゲェな、間取りを変えられるのか。驚いたぜ」
「急ぎ話したいことがあったのでな。茶も出さずに早速で悪いが、本題に入らせてもらう」
猫田が用意された座布団に座ると、ちょうど
「先日、神共の使者が来て、槐という人間を誅するという話になったと言ったのは覚えておるか?」
「ああ、もちろんだ。神の連中が人間を始末しようなんて異例だからな、よく覚えてるぜ。それがうまく行ったんじゃねぇのか?」
猫田はてっきり、それが成功したから故に、功を取られた
「そうではない。結論から言えば、神の連中は討伐に失敗した。…槐という人間は今も健在で、今度は儂らを狙っておる。そう神共から連絡が入ったのだ。昨日の事だがな」
「は?な、なん、だって?神の奴らが…負けた?人間に?槐達が神を撃退したってのか!?そんなバカな!」
猫田は身を乗り出し、
猫田が驚くのは当然である。日本の神々は基本的に長く生きており、それぞれが相応の実力を持っている。また、相克とまでは行かないものの、人と神では力の相性的に人が有利になる事はない。信仰心を人に頼っているという点では、神は人に勝てないが、単純な力という意味では、妖怪以上に人は神に弱いのだ。
狛がルルドゥの神槍を扱いこなせなかったのも、そこに理由がある。
猫田の問いに
「槐という人間を討伐する為に、神が編成した討伐隊は計5柱の神だ。人員を確認した所、いずれも全国から招集された土地神や氏神といった下級神だったようだが、実力は決して低くない。彼奴らは元より前線で戦う役割を持っておるからな。そこらの中級神よりも、戦う力や経験は豊富だったはずだ」
「じゃあ、それがなんで…!?」
そこまで言いかけて、猫田の頭に嫌な想像が過った。もしもその予想が当たっているのなら、神が敗北するのも頷ける。だが、それは最悪中の最悪を意味する事態だ。それだけは外れて欲しいと胸の中で願いながら、猫田は
「お前ももう察しがついているだろう……それをやったのは、神野だ。あやつどうやら、先走って単身で槐とやらを潰しに行っていたらしい。儂らにも秘密で……そして、恐らくだが例の妖怪を狂わせて操るという代物、狂華種と言ったか?それにやられたのだろう……5体もの神を相手にして撃退できる存在など、神野の他にはおらぬ。最悪の事態だ…ッ!」
外でドゴンッ!という爆発音がして、屋敷が、いや、異空間自体が大きく揺れた。ここは
「な、なんだ!?まさか…」
「ちぃっ!奴ら、ここまで来たのか!」
猫田と
「神野ォッ!貴様、むざむざと敵の手に堕ちたのか!?魔王の風上にも置けぬ失態だ、万死に値するぞ!」
「フッ、フフフ、フフフヘヘヘハハハヒャヒャヒャ!
明らかに、神野は正気ではなかった。言葉はたどたどしく、全身から立ち上る妖気も異様に強弱を繰り返していて、尋常な様子ではない。その後ろではレディと八雲が、小さく溜め息を吐いている。
「はぁ…お守りも面倒ね」
「そう言うな、これで当初の予定は完遂される。初志貫徹、ふふ、これも女房の好きな言葉だ」
「ああ、そう……」
レディはウンザリと言った顔で適当な相槌を打った。どうしてまたこの男と組まされているのだろう?どうにもこの鷲崎八雲という男とは相性が悪い気がする。レディはそんな現実を忘れたいとでも言うように猫田へと視線を向けた。ここに猫田が居たのは予想外だが、どうやら狛はいないようである。ならば、今はいい。狛との決着は今ここでではないと決めているのだから。
(狛…アナタを本気にさせる為に、大事な物は全て奪い取ってあげるわ。私だけを見られるように、ね…)
不敵な笑みを浮かべ愛憎入り混じった思いをレディは胸に秘めていく。こうして、神野達の奇襲により予期せぬ戦いが幕を開けたのだった。