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第289話 大襲撃戦

「う……」


 薄暗い闇の中で、猫田は意識を取り戻した。大型の猫ではなく、人の形でいるようだが、腰から下と肩まで上げられた両腕の肘から先は、柔らかく生暖かい肉の中に埋め込まれてしまっている。


 これは、生きた牢獄だ。妖怪か、或いは何らかの術を使って培養した肉なのかは定かではないが、どうやら猫田を捕らえて、その霊力を吸収しているらしい。人型に変化していられる分、霊気はまだ残っているが、それも維持できなくなればその時は死を意味することだろう。


「ちっ……俺としたことが…捕まっちまうとはな。山本さんもとの爺さん達は無事、だろうな…?」


 猫田は独り言ちながら、ここに至るまでの経緯を思い出す。それは三日前、狛と喧嘩をして家を出た後の事である。






 桔梗の家を出た猫田は、呼び出しに応じて、一路犬神家の所有する裏山に向かった。目的はもちろん、山本さんもとに会うためである。神奈に修行をつけて、合格を出したその深夜、猫田の元に山本さんもとの使い魔を名乗る低級妖怪が訪れていた。どうやら火急の用事であるようで、翌日の出来るだけ早い時間に顔を出すようにとだけ伝えて、使い魔は去って行った。


「ずいぶんと急いでやがったようだが、もしかして、神の連中が討伐を終わらせたか?……神野や山本さんもとの爺さんが荒れなきゃいいがな」


 山本さんもとから聞かされた、日本の神による槐軍の討伐作戦…それはいつ実行されるのか、山本さんもとにも解らないようであったが、一両日中には決行されるだろうとの見立てであった。その話を聞いてから8日ほど経っているので、そろそろ終わっていてもおかしくはない。となれば、事後報告を受けた山本さんもとが神への不満で怒りを漲らせている可能性もある。最近行方が解らない神野も、神が先に手を出してしまったと知れば、烈火の如く怒るだろう。そんなものに巻き込まれるのはご免被りたいというのが正直な所だ。


 秘密の合言葉と柏手を打ち、山本さんもとの住む異空間への道を開く。全く持って気は進まないが、無視をすれば何をされるか解ったものではないので、猫田は嫌々その空間に足を踏み入れた。案の定、異空間はピリピリとした緊張感に包まれており、依然来た時とは違って空はどんよりと曇っていて、嵐を予感させる雲行きだ。これはこの空間の主である山本さんもとの機嫌がすこぶる悪いことを如実に表していると言っていい。

 猫田は深く大きな溜息を吐いてから、目の前にある山本さんもとの屋敷へと入っていった。


「おい!俺だ、来たぜ」


「……鍵は開いておる。入るがよい」


 玄関前で声をかけると、屋敷の奥から腹の底に響くような低い声で山本さんもとの声がした。


(こりゃあ相当お冠だな…八つ当たりされなきゃいいが、まぁ神野じゃあるまいし、大丈夫か)


 これが山本さんもとではなく神野であったなら、初手から無言で殴り合いに発展してもおかしくない雰囲気であった。指示の通りに玄関を開けて中に入り、靴を脱いで最初の襖を開けるとそこには無言で佇む山本さんもとの姿があった。


「っ!?」


 猫田は突然の顔合わせに驚き、周囲を見回している。何度見ても、ここは以前にも通された山本さんもとの部屋だが、問題なのはこの部屋が屋敷の一番奥にあるということである。かなり広いこの屋敷は、前回と前々回来た時には、玄関からかなりの距離を歩いたはずだ。それがいきなり直通になっているとなれば、猫田が驚くのも無理はないだろう。


「どうした?座るがよい」


「…ああ、スゲェな、間取りを変えられるのか。驚いたぜ」


「急ぎ話したいことがあったのでな。茶も出さずに早速で悪いが、本題に入らせてもらう」


 猫田が用意された座布団に座ると、ちょうど山本さんもとと向かい合って座る形になる。相変わらず凄まじい迫力だ。本来であれば、山本さんもとは客人に対して礼節を重んじるタイプである。それは日本妖怪を率いる首領としての余裕と自信、何より王者の威厳を持っているからだが、その彼がそれらをすっ飛ばして話を始めるというのは只事ではない。猫田は思わず息を呑んで話を聞く姿勢に入っていった。


「先日、神共の使者が来て、槐という人間を誅するという話になったと言ったのは覚えておるか?」


「ああ、もちろんだ。神の連中が人間を始末しようなんて異例だからな、よく覚えてるぜ。それがうまく行ったんじゃねぇのか?」


 猫田はてっきり、それが成功したから故に、功を取られた山本さんもとが怒りを見せているものだと思っていた。しかし、山本さんもとの口から聞かされたのは予想外の結果である。


「そうではない。結論から言えば、神の連中は討伐に失敗した。…槐という人間は今も健在で、今度は儂らを狙っておる。そう神共から連絡が入ったのだ。昨日の事だがな」


「は?な、なん、だって?神の奴らが…負けた?人間に?槐達が神を撃退したってのか!?そんなバカな!」


 猫田は身を乗り出し、山本さんもとに食って掛かる勢いを見せた。山本さんもとも同じ思いでいるのだろう。表情は暗く、目を伏せて重々しいままである。

 猫田が驚くのは当然である。日本の神々は基本的に長く生きており、それぞれが相応の実力を持っている。また、相克とまでは行かないものの、人と神では力の相性的に人が有利になる事はない。信仰心を人に頼っているという点では、神は人に勝てないが、単純な力という意味では、妖怪以上に人は神に弱いのだ。

 狛がルルドゥの神槍を扱いこなせなかったのも、そこに理由がある。


 猫田の問いに山本さんもとは顔をしかめたまま答えた。言葉の端には苦い思いが滲み出ている。ただ槐達が神を退けたと言う単純な話ではないと、猫田はその時察したようだった。


「槐という人間を討伐する為に、神が編成した討伐隊は計5柱の神だ。人員を確認した所、いずれも全国から招集された土地神や氏神といった下級神だったようだが、実力は決して低くない。彼奴らは元より前線で戦う役割を持っておるからな。そこらの中級神よりも、戦う力や経験は豊富だったはずだ」


「じゃあ、それがなんで…!?」


 そこまで言いかけて、猫田の頭に嫌な想像が過った。もしもその予想が当たっているのなら、神が敗北するのも頷ける。だが、それは最悪中の最悪を意味する事態だ。それだけは外れて欲しいと胸の中で願いながら、猫田は山本さんもとの言葉を待った。


「お前ももう察しがついているだろう……それをやったのは、神野だ。あやつどうやら、先走って単身で槐とやらを潰しに行っていたらしい。儂らにも秘密で……そして、恐らくだが例の妖怪を狂わせて操るという代物、狂華種と言ったか?それにやられたのだろう……5体もの神を相手にして撃退できる存在など、神野の他にはおらぬ。最悪の事態だ…ッ!」


 山本さんもとが吐き捨てるように絞り出した言葉は、猫田の予想通り、まさに最悪の事態であった。だが、この時まだ、


 外でドゴンッ!という爆発音がして、屋敷が、いや、異空間自体が大きく揺れた。ここは山本さんもとが作り出した異界である。地震など起きるはずがない、となれば、この激しい物音は外部から何かがやってきたことを意味する。にわかに屋敷の中の空気が変わり、異様な気配が溢れ出していた。


「な、なんだ!?まさか…」


「ちぃっ!奴ら、ここまで来たのか!」


 猫田と山本さんもとが部屋を飛び出し、玄関から外に出ると、無数の死体や見慣れない妖怪達が屋敷全体を取り囲んでいた。そして彼らの先頭に立っているのは、やはり、神野である。その後ろには七首町で猫田と戦った鷲崎八雲と、レディが並んで立っている。


「神野ォッ!貴様、むざむざと敵の手に堕ちたのか!?魔王の風上にも置けぬ失態だ、万死に値するぞ!」


「フッ、フフフ、フフフヘヘヘハハハヒャヒャヒャ!山本さんもとォ、テメェととと、けケ、決着をつけてやるぜェ…!」


 明らかに、神野は正気ではなかった。言葉はたどたどしく、全身から立ち上る妖気も異様に強弱を繰り返していて、尋常な様子ではない。その後ろではレディと八雲が、小さく溜め息を吐いている。


「はぁ…お守りも面倒ね」


「そう言うな、これで当初の予定は完遂される。初志貫徹、ふふ、これも女房の好きな言葉だ」


「ああ、そう……」


 レディはウンザリと言った顔で適当な相槌を打った。どうしてまたこの男と組まされているのだろう?どうにもこの鷲崎八雲という男とは相性が悪い気がする。レディはそんな現実を忘れたいとでも言うように猫田へと視線を向けた。ここに猫田が居たのは予想外だが、どうやら狛はいないようである。ならば、今はいい。狛との決着は今ここでではないと決めているのだから。


(狛…アナタを本気にさせる為に、大事な物は全て奪い取ってあげるわ。私だけを見られるように、ね…)


 不敵な笑みを浮かべ愛憎入り混じった思いをレディは胸に秘めていく。こうして、神野達の奇襲により予期せぬ戦いが幕を開けたのだった。

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