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第288話 助けを呼ぶ声

 猫田が家を出てから三日目、狛は落ち着かない日々を過ごしていた。


 狛が猫田と出会って一緒に暮すようになってから、一年弱になろうとしているが、連絡なく二日も離れるのは初めてである。氷雨が亡くなった後に、猫田が大雪山へ向かった時くらいのものだが、あの時は数日帰れないと予め宣言してからのことであり、何も音沙汰なく帰ってこないのは異例だ。その直前に喧嘩をしていたこともあって、もしかすると、猫田はこのまま帰って来ないのでは?と、狛はどうしようもない不安に駆られていた。


「……はぁ…」


「狛…」


 そんな狛の隣では、ルルドゥとアスラが心配そうに見つめているばかりである。特にルルドゥは、最後に猫田と話したと言う事もあって、何とも言えない責任を感じているようだ。何か猫田に変わった様子は無かったか?気付けたことはなかったのか?と狛の落ち込む姿を見る度にそう思っている。しかし、どんなに思い返してみても、猫田に変わった様子は無かった。出かけていく後ろ姿に何かの予感めいたものを感じはしたが、それだけだ。とてもその行方を捜す手掛かりにはなりそうもない。


「学校の帰りにくりぃちゃぁに寄ってから帰るから、ちょっと遅くなるね。もし猫田さんが帰ってきたら連絡して。電話の使い方、解るよね?」


「ああ、解った。…狛、無理するなよ?」


「うん、ありがと。行ってきます」


 すっかり元気を無くした狛は、力無くそう言って学校へ向かって行った。ルルドゥは何とか励ましたかったが、どう言葉をかければいいのかわからず、無理をするなとしか言えずにいる。とぼとぼと歩く狛の後ろ姿は、胸につまされる様な思いがするほど寂しげだ。それを見たルルドゥが悲しくなって目に涙を溜めていると、アスラがその顔を舐めて慰めた。アスラもまた、普段は猫田とベッタリだったので寂しいはずなのに、何とも健気である。もう夏が近く気温が高いと言うのに、猫田が居ないだけで、家の中は火が消えたように寒々しい。


「早く帰ってこい…!駄猫だびょうめ」


 そんなルルドゥの呟きは、朝の風に乗って消えて行った。




「猫田さん、どこ行っちゃったんだろう」


 放課後、くりぃちゃぁに寄って話を聞いてみたが、やはり誰も猫田の事は知らないという。猫だけあって元々気紛れな猫田ではあるが、狛のみならず、くりぃちゃぁの仲間達誰一人にも何も言わず、どこかへ行ってしまう事など考えられない。とはいえ、猫田の実力を知る者達からは、猫田の身に何かがあったとも思えないようだ。ある者は狛を悲しませたと憤り、またある者は、狛を心配して励ましてくれた。それでも狛は本調子にはなれず、思いつめた顔で家路に着いている。


 あれから、大寅も学校を辞めて京都へ戻ってしまったりと、狛の周りの環境が変わりつつある。心霊現象の日常化以降、目まぐるしく常識が変わるこの国の中で、自分や、その周囲に居る人達だけは変わらないものだと思い込んでいた。だが、そんな事はないのだ。狛だって、あと一年半もすれば学園を卒業し、就職することになるだろう。今の状況ならその頃には、退魔士も一般的な職業として認知されているかもしれないが、そこまで先の事は解らない。


 そしてずっと一緒にいたメイリーや神奈達も、学園を卒業する頃にはそれぞれの道を選んで歩いていくことになる。そんな当たり前のことさえ、狛はまだ遠い未来の事だと思い込んでいた。しかし、それがすぐ目の前にある現実なのだと、この三日ほどで嫌というほど思い知らされた形だった。


「猫田さん、このまま帰って来ないなんてこと…ないよね?嫌だよ、こんなお別れじゃ……」


 正月から半年が過ぎ、ようやくハル爺を失った心の痛みが少しは落ち着いてきたのだと言うのに、こんな形で猫田を失うのは辛すぎる。気落ちしきってマイナス思考に陥る狛の背中に、誰かの声が投げられた。


「おーい!狛、大丈夫か?」


「神奈ちゃん…?どうしてここに?家に帰ったはずじゃ…」


「自分でも解らないんだが、何か胸騒ぎがして……くりぃちゃぁに行ったんだろう?猫田さんの手掛かりはあったのか?」


「ううん…皆、何も解らないって。猫田さんは強いから、何かあったとも思えないって言うし…一応、何か解ったら連絡を貰うようにお願いしてきたけど」


「そう、か……」


 神奈はその結果を聞いて、狛以上に落胆していた。神奈にしてみれば、狛と猫田が喧嘩をしたのが自分のせいだと思っているので、ルルドゥ以上に責任を感じているようだ。しばらく路上で黙り込む二人だったが、こうしていても仕方がない。狛は神奈を連れて、桔梗の家へ帰る事にした。

 帰る間にすっかり日が暮れて、空には雲がかかり、月はほとんど隠れてしまっている。新月ではないので狛の身体に影響はないが、街灯がないとかなり暗い。今やこの国の夜の闇は、実体を持たぬ魑魅魍魎共の蠢く棲み処である。生きた人間に手を出すほど強い存在はまだそれほどいないとはいえ、注意が必要なのは間違いない。狛が弱気になっている時くらい、自分が支えなければと、神奈は警戒を強めていた。


「…む?待て、狛。あそこに、誰かいるぞ」


「え?」


 神子神社の境内に入る前の順路で、神奈は何かの気配に気づいたようだ。言われて、狛もその存在にようやく気付いた。この感覚と妖気は、妖怪だ。だが、それは酷く弱っているような気配がする…耳を澄ませば息遣いは荒く、妖怪特有の酷く生臭い血の匂いがした。恐らく、弱った身体では鳥居をくぐる事が出来ずに、その前で座り込んでいるのだろう。敵意、とは違うが、しかし、こちらに意識を向けているのは確かなようだ。狛が目を凝らしてもその姿を見る事が出来ないのは、夜の闇が邪魔をしているだけでなく、かなり強力に存在を隠蔽する術を使っているのだろう。


 狛は神奈の前に出て、そのに声をかけた。


「狛、気をつけろ…!」


「…うん、解ってる。……あなた、一体どうしたの?私に何か用?くりぃちゃぁの妖怪さんじゃないよね?」


 狛がそう声をかけると、目の前の存在は荒い息の間に何かを呟いたようだった。初めは聞き取れなかったが、徐々に殺気が感じられて、同時にハッキリとした声が聞こえてくる。


「………狛…お前が…お、お前をっ!!」


「っ!?」


 声が聞こえた瞬間、隠されていたその姿が明らかになった。血塗れのその妖怪は、まだ幼い少年のような年頃に見える。身に纏っているのは狩衣のような動きやすさを重視した着物である。その妖怪の身体から霧が立ち上り、あっという間に霧は鬼の形に変わった。そして、鬼は狛目掛けて、容赦なく拳を打ち下ろしてきた。


「鬼…だと!?」


「…くっ!」


 自らを狙って放たれた拳に、狛はすぐさま反応し、素早くそれを躱した。しかし、ここから反撃するには少し距離があって、あと数歩近づかなければ届かない。狛はそのまま踏み込んで近づくと、次の攻撃が来る前にその妖怪の腹部へと強烈な当身を喰らわせた。


「ごめんね…!」


「あッ…!?」


 絞り出すような声と共に、妖怪の口から黒い靄が抜けていく。妖怪の瞳を一目見ただけで解った、この妖怪は狂華種によって狂わされ、操られている。これまでの経験上、狂華種の影響を受けた妖怪は、意識を失うほどのダメージを受けると身体から黒い靄を吐き出して正気に戻る事が出来る。狛の狙い通り、黒い靄を吐き出した妖怪は、文字通り憑き物が落ちたかのように落ち着いた表情になって、狛の胸に崩れ落ちた。


「狛、無事か!?そいつは一体…」


「大丈夫。だけど、こんな子見た事ないな…とりあえず、一旦家の中に連れていった方がいいかも。私が一緒なら、入れるはず」


 改めて見ると、その妖怪は傷だらけであった。狛に出会う前からこうだったのだろう、そして、狂華種の影響を受けているということは、この妖怪が槐と関係しているのは明らかだ。狛は静かに妖怪の身体を抱き上げると、神奈を連れて家の中に入っていった。



「……うぅ、あ…?ここ、は…あぐっ!?」


 家の中に入ってその妖怪をソファに寝かせ、傷の手当てをしている内に、妖怪が目を覚ましたようだった。少しの間瞳を動かして、焦点の定まらない様子だったが、やがて意識がハッキリしたのか、ガバっと起き上がって傷の痛みに顔を歪めている。


「あ、起きた?大丈夫?一応手当はしたんだけど…ここじゃ神気が満ちてて、怪我の治りが悪いかも。ごめんね」


「い、いや…平気、だ。…ごめん」


「いいんだよ、きっと狂わされてたんだよね。私は犬神狛っていうの。あなたは一体誰なのか、教えてくれる?」


 狛が優しく妖怪の手を握ると、妖怪は涙を浮かべて静かに涙を溢し始めた。見た目通り、まだ子どもなのだろう。狛の隣で警戒している神奈とルルドゥは、訝しみながらその妖怪を見据えている。そうして、ほんの僅かな時間のあと、妖怪は驚くべき言葉を口にしたのだった。


「お、お前が…狛?そうか、私は音霧おとぎり。お爺ちゃんと猫田に頼まれて、お前を呼びに来た。どうか、お爺ちゃんたちを助けて欲しい、私じゃ、私の力じゃ無理なんだ…!」

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