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第287話 別れの始まり

「ふぁ……おう、狛。おはよう」


「…………」


 神奈の修行を終えたあくる日の朝、あくび混じりに猫田が挨拶をするが、狛は唇を尖らせてそっぽを向いたままである。


(こ、コイツ…まだ根に持ってんのかよ……!?)


 猫田は内心で呆れながら、狛の怒りがそこまで長引いていることに驚きを隠せない。その日は、やや緊張感のあるそんな朝の風景から始まった。


「おい、狛、今日は……」


「…行ってきます!」


 猫田はなんとか仲直りをしようとしているのだが、狛の方はこの通りけんもほろろである。取り付く島もないとはこの事だろう。まるで反抗期の娘と父親の関係のようだが、これには世の父親と同じく、猫田も頭を抱えるしかなかった。


 そもそも、何故こんなに狛が怒っているのかと言えば、それは神奈に修行をつけてやる際に猫田がスパルタだったせいである。猫田からすれば悠長に優しく指導してやる時間もなかったし、あのくらいの厳しさは普通だと思っていたのだが、狛にしてみればそれはとても許容できるものではなかったのだ。


「すっかり嫌われたな…大丈夫なのか?」


 家を出ていく際にも、猫田の方を見ようともしない狛の様子に、一連の全てを見ていたルルドゥが呟いた。猫田はドキッと心臓を鷲掴みにされたように驚いて動揺していたが、そこは意地もあるのだろう。かなり強がっているようだった。


「べ、別に大したことねーよ…っ!狛の事だ、美味い飯でも食えば機嫌も直るだろ。それより、ちょっと出てくるぜ。急ぎの呼び出しが入ったんでな」


「お前も忙しないなぁ……まぁ、早めに帰ってこい。狛には伝えておくからな」


「おう、頼んだぜ。じゃあな」


 そう言って、猫田は面倒臭そうに桔梗の家を出て行く。ルルドゥはその背中を見て、何か奇妙なものを感じていた。




「はあぁぁぁぁっ……」


「どしたの?コマチ。デッカイ溜め息なんか吐いちゃって…レアじゃん」


 昼休みの食堂で狛はいつも通りにメイリーや神奈と昼食を摂っていた。最近では珍しく、今日は生徒達からの相談が無い。それだけ狛の用意したお守りと霊符が機能している証拠なのだが、どうにも狛は浮かない顔だ。食事自体もあまり喉を通らないのか、いつものスピードが出ていない。これは中々の重症である。


「この所、私の事情に付き合わせてしまったからな…大丈夫か?」


「あー、うん。それはいいんだけどね……はぁ…」


 狛の表情は、明らかにいいと言えるものではない。何か無理をしているのは明白だ。メイリーと神奈は心配そうにしているが、肝心の狛が口を割らないのでどうしようもないようだ。そんな狛達の元へ、ふらりと背後から現れて声をかけたのは、担任の大寅である。


「お、犬神ちゃん相変わらずよう食べるなぁ。元気なんはええことやな」


「大寅センセー。センセーが学食に来るなんて、こっちもレアだねー!」


「あー、実はわし、今日がこの学校に来るの最後になってもうたさかいな。ちょい思い出作りでもしよかな思たんやわぁ」


「え?さ、最後って…」


 突然の話に、狛達は目を白黒させていた。対する大寅は、あっけらかんとした表情を崩さないまま、空いている席に着いて話し始めた。


「いや、わしは元々代理でこっちに来とっただけやろ?実はちょい地元の方から戻ってこいって言われとってさ。で、ちょうど前任の若桜わかさ先生も復帰するって言うし、皆には急で申し訳あらへんのやけども、あっちに帰る事にしたんやわぁ」


「そうだったんだ……」


 言われてみれば、確かに大寅は事故に遭った本来の担任である若桜の代わりにやってきた教師だった。その正体は、祓い屋で、かつ稲荷の神である宇賀之御魂命うかのみたまのみことの神使なのだが、それを知る者は狛を含めてごく僅かだ。恐らく、地元で呼ばれたというのも神使としての本業が理由なのだろう。この国全土で起こっている心霊現象の日常化が尾を引いている可能性は十分にある。それを思うと、狛は何とも申し訳ない気分になった。

 大寅は、その若さと気安い性格、それにそこそこ見た目もいいので生徒達から評判がいいタイプだ。特に女子の一部はファンクラブとはいかないまでも、それなりに慕われていて、ラブレターを渡したという生徒もいた。もしも心霊現象の日常化が背景にあるのなら、クラスメイト達から大寅を奪ってしまう事になるのは、狛があの時、槐を止められなかったせいだとそう考えたのだ。

 そんな狛の心を見透かしたのか、大寅は箸を動かす手を止めて、狛の目を見て頭を振った。そして、優しい声でまた呟く。


「気にする事あらへんよ、犬神ちゃんのせいとちがう。ほんまなら、もっと早う帰らなあかんかったんや。なんやかんやあって長居してもうたけど、皆のお陰で楽しかってんよ」


 事情を知らないメイリー達は、よく意味が解っていないようだが、狛はその言葉に少しだけ救われるような気がした。同時に、再びこんな事の無いように、槐を止めねばならないと気持ちを強くする。


「まぁ、それに帰るって言うても、わしは京都やさかいね。別に今生の別れになるほどの距離でもあらへんやん。皆、連休や卒業したら遊びに来てくれても構わへんで。その時は、色んなとこ連れてったるで」


 そう言うと、大寅はニヤリと笑って決め顔を見せていた。箸を片手に格好つけるその様子がおかしくて、狛達は大いに笑い、楽しい時間を過ごす事が出来た。ずっと悩んでいた狛も少しだけ気が晴れて、いつも通りとはいかないまでも、午後の授業は問題なく過ごせたようであった。

 そしてその日の帰り道、狛は段々と憂鬱な気分が戻ってきて、再び溜息ばかりが出るようになっていた。


 原因は、猫田と喧嘩したことである。


 狛は基本的に、家族や友人と喧嘩をしたことがない。その場その場で多少怒ったりすることはあっても、後々まで長引くような喧嘩はしない性質だ。何かポリシーがあるというわけではなく、単純に狛の性格上、怒りが長続きしないのとそこまで人に怒った事がないというだけなのだが。


 そんな狛にとって、今回猫田に対してああいう態度を取ったのは、生まれて初めてのことであった。兄である拍にしろ、ハル爺やナツ婆にしろ、そしてよく面倒を看てくれていた佐那も含めて、狛は怒ったり反抗したことがほとんどない。基本的に素直な狛は怒られるような事もしなかったし、何より皆優しく接してくれていたからだ。狛くらいの年齢になると、父親が鬱陶しく思えて来たりするものだが、数年前から滅多に家にいない父に対して特に怒る事も嫌う事も無い。本当に、猫田が初めてなのである。


 そのせいだろう、狛は喧嘩が長引いてしまった時に、どう仲直りをすればいいのかが解らなかったのだ。少々やり過ぎなほど神奈に厳しくしたことは許せないと思ったものの、神奈の事情を考えれば、確かに厳しさは必要だったはずだ。それは解っているのだが、どうにも納得がいかず、あんな態度を取ってしまった。

 実のところ、今朝家を出た直後から、狛は猫田に対して申し訳なくなって落ち込んでいたのである。


「やっぱ、謝った方がいいよね……うぅ、何だろうこの感じ?恥ずかしいような、もどかしいような…うーん、モヤモヤする…!」


 普通なら、子ども同士の内に経験する気恥ずかしさが、狛には未経験である。普段あれだけ素直な狛が、猫田に対してごめんねと言えないのは、それだけ猫田に甘えている証だ。猫田なら言わなくても解ってくれると、無意識のうちに思っているからこそ、謝れないのである。


 そのまま桔梗の家に着くと、玄関で待ち構えていたのはルルドゥとアスラであった。ただいまと言って彼らを撫でるが、どこにも猫田の気配がしない。一体、どこにいるのだろう?しかし、ここで猫田を探すのは何だか癪である。きっとしばらくすれば帰って来るだろうと、狛は敢えて気にしないふりをして、手を洗ったり着替えたりして時間を潰す事にした。


 そんな狛の思いとは裏腹に、どんなに時間が経っても猫田は帰って来なかった。事態が大きく動いたのは、数日経ってからのことであった。

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