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第286話 魂を一つに

 小りんが飛び込んだ神奈の心の中は、深い深い水中のようだった。


 どこまでも続くような深さのそれは、所々がマグマのように赤く光りを放っており、ドロドロとした重さのある流動性を見せている。そこに意識を向けてみれば、それらは非常に強力な破壊の衝動であった。


――殺せ。

――壊せ。

――奪え。

――死ね。


 それらの情動に、小りんは覚えがある。それは文字通り、鬼の精神そのものだ。母から受け継いだ鬼の血と力は、小りんの中にも、同じような悪性の衝動をもたらしていた。


「……おぞましい。これが我らの内に潜むモノの声か、いや…幾度となく私も聞いたものだな」


 小りんは目を逸らし、それらの悪意を見ないようにして、ひたすら下へ、下へと沈んでいく。小りんが奥深くへ沈むにつれて、徐々にその赤いマグマは増えていき、やがて、近寄るのも恐ろしいような、巨大な塊が姿を現していた。


「ここが、神奈の心の底…か?だとしたら、これは…もう……」


 手の施しようがない、端的にそう思った。心の底が鬼の衝動に飲み込まれてしまったのなら、もう手遅れだ。神奈を追い詰めた自分の失策だったと小りんはただただ悔やみ、嘆いている。


「神奈、すまない。…私がもう少し、違う手段を取るべきだった。だが、ああしなければ、私は…いや、顕明連は……」


 小りんの中にあるのは神奈への謝罪の気持ちと、自分が小りんとして生きた人生、その意味である。母、鈴鹿御前より託された顕明連は、父が受け継いだ大通連や小通連よりも強力な神通力をもたらす剣であった。故に、今際の際にあった鈴鹿御前は小りんの身を守る最大の武器として顕明連を託す一方で、顕明連そのものを悪しきもの達から護るようにと、彼女に言い含めていたのだ。小りんは、力をつけてその教えをひたすらに護りつつ、人を愛し、子を産んでその血を繋げた。それが母との絆であり、自身の生きた証と意味だと感じていたからである。


 己の魂の内に顕明連を取り込んだことで、彼女の死後、それは誰にも奪えないものとなった。いつか、その魂が転生するとしても、一個の魂の中に同化した剣を探し出し奪えるものなどいない…はずだったのだ。しかし、偶然なのか、或いは必然か、運命の悪戯のように小りんは蘿蔔神奈として生まれ変わってしまった。かつての己と同じ血筋の子孫にだ、その上、この国は神代のように、人と妖…そして神との境界が曖昧なものへと変貌してしまった。これではもう、黙って魂の中に沈んでいるだけでは、顕明連を守りきる事は出来ないだろう。


 これまでに、何度か神奈という現世の自分に顕明連を貸し与えたのは、その力量を測る為だった。そうして出した結論こそが、今回の結果である。しかし、神奈は小りんの想像を遥かに超えて成長していた。これだけの地力があるのなら、顕明連を託しても良かったのかもしれない。それに気付いても、何もかもが遅すぎる。嘆く小りんの耳に何かが聞こえた気がした。


「……今のは?まさか…」


 改めて足元の光を覗くと、その先に何かが視えた気がする。小りんは手にした顕明連を振るい、マグマのように吹き黙った鬼の衝動に穴を開けた。どうやら、まだその先があるようだ。つまり、ここは神奈の心の底ではない。小りんはすぐにその穴の中に飛び込んでいく。


「ここが、心の底か。静かだ…それに、何故だかとても美しく感じる」


 湖底のように薄暗いその場所には、たくさんの大きな泡が浮かんでいた。いかに他心通と言えど、ここまで心の奥深くに入り込んだ事は無い。見た事も無い風景に心を奪われながらも、小りんが近寄って見てみると、その泡の一つ一つは神奈の記憶である事が解った。覗き込むと様々な神奈の思い出が垣間見える。これらの記憶が、神奈の心を塗り潰そうとする鬼の衝動に抵抗し、押し上げているのだ。


「…まだ、終わってはいなかったんだな。ならば、私に出来る事は一つだけだ」


 小りんは覚悟を決めたのか、印を組み、その手に持った顕明連を手放した。ここは神奈の心の底…言うなれば精神の中枢であり、それは魂そのものである。そこに顕明連を解き放ち、取り込ませたのだ。


「神奈、聞こえているだろう?君にこの剣を託す。そして、君の中の鬼の衝動は私が全て引き受けて消し去ろう。今より君が、顕明連の次なる継承者となるのだ。後は頼むよ…ふ、来世とはいえ、自分に頼むというのは、些か滑稽だな」


 そう呟くと小りんは大きく手を広げ、自分に残った全ての霊力を使って、神奈の心の中にある、マグマのような衝動を一気に押し流していった。小りんの姿は無数の小さな泡と化し神奈の心に溶けて消えていく。最期に「ごめんなさい」と一言だけを遺して。



「あ……っ!?」


 気づけば、神奈は自室のベッドの端に座り、涙を流していた。その手には顕明連が握られていて、何よりとても大切なものが、自分の中から失われたような喪失感が胸の中に広がっている。キラリと光る紫鏡を見ても、もう小りんの姿は映らない。恐らく、先程までいたのは紫鏡の中の世界だったのだろう。いつか訪れた鏡の中の世界なら、小りんと会えたのも納得できる。


「…私は、君に認められたのか?でも、何も嬉しくはない。ただこんなに、こんなに寂しいなんて……!」


 それは本来あるはずの無い出会いであり、別れだ。小りんの魂と神奈の魂は元々一つで、同じものなのだから決して何かを失ったわけではないのに、この喪失感はなんなのだろう。その夜、神奈は一人、思いきり泣いた。涙のせいで、その身体が干からびてしまうのではないかと、錯覚してしまうほどに。





「よし、合格だ。大したもんだぜ、神通力と鬼の力を、この短い間にそこまで扱えるようになるたぁ…義隆の奴が居たら、どんな顔しやがったかね」


 翌日、泣き腫らした目を引っ提げてやってきた神奈は、猫田の想像を大きく超える形で、己の力を使いこなしてみせた。力も身のこなしも、まるで別人だ。これなら、並の妖怪相手なら全く相手にならないだろうし、金剛業鬼という鬼が来ても問題なく対処できるだろう。


 満足そうに呟く猫田の隣で、狛はぎゅっと拳を握り絞めていた。何があったのかは定かではないが、明らかに神奈は心を痛めている。どうすれば慰められるのか解らないのが、親友として悔しい、そんな表情だった。


「神奈ちゃん…」


「狛、心配かけてすまない。でも、ありがとう。大丈夫だよ、私はもう負けない。私には、託されたものがあるんだ」


 そう言って、神奈は静かに空を仰いだ。その顔には、とても強い決意が漲っていて、狛はそれ以上、何も言う事は出来なかった。


 その日の夕方、放課後の帰り道を一人歩く神奈は、ある気配を察知して人気ひとけのない公園へ向かっていた。それは一週間前に味わったばかりの、鬼の気配である。住宅街の片隅にひっそりと存在するその公園は、大した遊具もなく、まるで未整備の林のように木々に覆われている。近隣の住民でなければ、これが公園だと思わず、気付きもしないだろう。

 その奥で、じっと佇むその気配は、神奈の方から訪れた事に驚いているようだった。


「貴様…どうしてここに!?」


「ここに潜んでいたか。そう遠くない内に私を狙ってくるだろうから、近くにいるだろうと思っていたが…かえって都合がいいかもしれないな。ここなら、滅多に人も来ないだろう」


 公園で息を潜めていたのは、あの金剛業鬼である。まさか神奈の方からやって来るとは思ってもみなかったようだが、目の前にいるのが小りんの操る神奈ではなく、自分に手も足も出なかった本物の神奈のままだと気付いてからは、一気に勝ち誇ったような声を上げた。


「ふん!どうやら。追い詰めればまた変わるかもしれんが、そうなる前に殺してしまえばいい。飛んで火にいる夏の虫とはこの事だな!」


 金剛業鬼は、小りんと神奈が別の存在であると感じ取っていたようだ。そして、今目の前にいる神奈は、自分に手も足も出なかった方だと理解している。それはある意味で間違っていないが、肝心の神奈の成長には全く気付いていない。

 神奈は静かに顕明連をその手に呼び出した。清澄な闘志を燃やし、小りんの仇討ちをするかの如く居合の構えを取る。金剛業鬼は一瞬たじろいだが、神奈から感じられる霊力に変化が無い事から、それを付け焼刃の脅しと考えたようだ。ニヤリと笑みを浮かべて立ち上がり、やや前傾姿勢に構えを取った。

 また、小りんによって切り落とされたその腕は、全く別の妖怪から奪い取ったであろう異質な腕がくっついている。何とも歪で禍々しい形だが、元の腕よりも大きく、力は強そうだ。


「ぐふふ…!この通り、ちょうど切り落とされた腕も新しいものに替えが済んだ所よ。今度こそ一撃で貴様を殺し、その剣を奪い取ってやる!」


「やれるものならやってみろ。私はもう、お前には二度と負けない。…これは、私の決意の表れだ。今はもういないあの人への…な」


 神奈がその言葉を言い終わると同時に、二人は動いた。それはまさに一閃、金剛業鬼の目にも留まらぬ速さで神奈は抜刀し、その背後に立っている。


「あ…?」


 甲高い鍔鳴りの音と共に、金剛業鬼の身体は真っ二つに両断されていた。彼は自分が斬られた事さえ気づかずに間の抜けた声を上げ、それが末期の言葉となった。神奈は静かに胸に手を当てている。小りんが自分に剣を託してくれたことは、決して間違いではなかったのだと証明するように、神奈はしばらくの間その場を離れようとはせず、鎮魂の祈りを捧げるのであった。



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