(何か…来るっ!)
小りんの怪しく光る瞳に気付き、神奈は咄嗟にその場を離れた。同時に、突風の如きスピードで小りんの手にした刃が、地面に突き刺さっていた。少しでも遅れていれば、神奈の身体を容易く貫いていただろう。先程の神奈にも負けないほどの、圧倒的なスピードである。
「少し、早すぎるな…!勘で対処するとなると、ミスが怖そうだ」
神奈はボヤキながら、少しでも小りんから離れようと疾走していた。というのも、今の小りんの動きが、神奈に視えたわけではないからだ。あくまで何か仕掛けて来るというヤマが中ったから避けられただけである。相変わらずここがどこかは定かではないが、かなりの広さがあるのは間違いない。神通力によって、暴れ馬のように跳ね回る自分の身体を制御する為には、これくらい気にせず動き回れる場所が適していると言ってもよさそうだ。狛とは違い、神奈は己の勘に頼る事を良しとしない。彼女はこう見えて、実は堅実なタイプなのである。
そんな神奈にとって、自分の速さに感覚が追い付いていないというのは致命的だ。これではろくに攻撃も出来ないし、いつまでも回避がうまく行くとも限らない。少なくとも、小りんはこの速さの中で攻撃が出来るほどに順応しているのだから、このままでは勝負にならないだろう。
「…ふむ、勝ちの目が見えるまで逃げと受けに徹するか。なるほど、現代の侍らしい姿勢だ。……残念ながら平安の時代には、そんな生易しい考えは通用しなかったよ」
しばらく追いかけっこをしている内に、小りんは神奈の狙いに気付いたようだ。神奈は走りながら感覚が追い付くように、慣れるのを待っている。それは裏を返せば、慣れるまで戦いにならないと白旗を挙げているようなものだ。平安より後の時代に生まれた坂東武者達はいずれも勇猛で知られているが、決して平安時代の侍達が実力で劣っているわけではない。彼らは戦ってきた相手が違うのだ。
平安時代は、悪霊に加えて、飢饉や疫病をもたらす疫鬼のような魑魅魍魎が平然と跋扈した時代である。その中でも特に鬼の存在は欠かせないだろう。かの有名な大枝山の酒呑童子に代表される鬼の軍団や、小りんの母、鈴鹿御前もまた平安初期に登場する鬼である。それらの悪鬼たちから京の都を守る為に陰陽師が台頭し、侍達と双璧を成して人外の者達と戦ってきた…そんな時代だったのである。よって、小りんの言う守りの姿勢というものは、彼らには酷く手緩い悪手に見えるのだろう。
小りんは神奈を追いかけつつ、左手で印を結んで何事かの呪文を唱えた。こう見えて、小りんは陰陽術も体得している術者としての一面を持っている。彼女は顕明連のもたらす恩恵がなくとも、一流の侍であり、鬼なのだ。
「なっ、なんだ!?」
進行方向に突然現れた、無数の影…それは式神の一種で、小りんの分身体のようなものである。式神の種類にもよるが、この手の独立した人格を持たない式神は術者が自ら操作せねばならず、何体もの式神を同時に操作するには非常に繊細で高等な技術が要求されるものだ。それを小りんは、走りながらやってのけた。それだけでも、彼女の非凡な才能が窺えるだろう。
「招来――鬼法童子。さて、逃げ回るのはその辺にしてもらおうかな」
小りんは少しだけ走る速度を落とし、刀を握る手に力を込めた。普通ならば前方に大勢の敵を見つければ、その動きを止めるだろう。そのまま囲い込んでしまえば、もう逃げられないと踏んでいるようだ。実際、神奈もまた走る速度を落として警戒していた。戦闘の経験値ならば、やはり神奈は小りんに遠く及ばない…はずだった。
「このままでは囲まれて終わりだ……思い出せ、猫田さんはなんと言っていた…?」
速度を落としたと言っても、まだかなりの速さがある。そして、前方の敵集団までさほどの距離があるわけでもない。そんなピンチにあっても、神奈は冷静に考える余裕があった。たった一週間の精神修養が、彼女にそれだけの集中力と冷静さを身につけさせていたのだ。
『――よく覚えとけ、お前や義隆は普通の人間じゃねぇ、れっきとした鬼の血を引く鬼の末裔なんだ。そんでもって鬼ってのはな、並の妖怪なんぞよりもよっぽど力が強くて……』
「何っ!?」
「――そう…頑丈、なんだっ!」
神奈は叫び、一度落とした速度を再び引き上げた。踏み出した一歩の力で地面が割れるほどの、強力な踏み込みで。一気に速度を上げた神奈は、同時に怪力に任せて集団に飛び込み、強引に蹴散らした。それは正しく鬼の怪力…
鬼法童子と呼んだ式神達は、飛び込んできた神奈に刃を向けたが、それらは一切効果が無かった。額に朱い結晶のような角を生やした神奈の身体は、金剛業鬼のように硬く、それでいて実にしなやかな柔らかさも備えている。影の刃はあえなく弾かれ、間髪入れずに怪力で弾き飛ばされて、掻き消えてしまったのだ。まさに鬼人の一撃である。
「なんと…!?そうか、人の知恵と血で鬼の力を統合しているのか!」
小りんはその様子に思わず舌を巻いた。鬼姫と人の侍の間に生まれた半鬼として、小りんは自らが鬼の血に飲み込まれないように、厳しくその力を律してきた。術者としての業を修めたのも、己の中の鬼を飼いならす為である。元より直系で鬼と人のハーフである小りんは、鬼の血が神奈や義隆よりも濃い為、それはやむを得ない事だっただろう。しかし、同じ血を受け継いでいても、その遠き子孫である義隆や神奈は、ずっと多くの人間の血が混じっている。鬼の血が薄い分、その恩恵を受けつつも暴走の可能性は低いのであった。
それは小りんと神奈の間にある、歴然とした差である。顕明連や術の扱いは小りんの方が遥かに上だが、連綿と受け継がれてきた血と肉体の習熟度は、神奈の方が上なのだ。
「これなら、いける…っ!うおおおおっ!!」
「くっ!?」
神奈は振り向き様に、全身の力とバネを使って再び強烈な一歩を踏み出した。先程よりも更に強い踏み込みによって、地面が爆発したかのように大きく割れ砕けている。あっという間に小りんの元に肉薄した神奈は、全力で大上段から刀を振るった。
「ぐぐぐぐぐっっ!こ、この力、は…!?」
既に小りんは、己の鬼としての力を発揮しているが、完全に力負けをしていた。神奈のように鬼の怪力と神通力による怪力の相乗効果を発揮できないのだから、当然の結果だ。かろうじて刀で受けているが、徐々に刃が下がり、頭のすぐ近くまで押し込まれている。単純な力比べではもう勝てないと小りんはこの時、敏感に察知した。
「オオオオオッ!」
しかし、神奈もまた限界ギリギリの状態であった。いかに鬼の血が薄まっていようとも、その力を全開にしてれば徐々にその感覚に流されていくものだ。その力は諸刃の剣であり、長時間扱えるものではない。義隆は鍛錬を重ねていたからこそ、高次元で纏められていたのである。今日初めて、鬼の力と神通力を合わせて戦った神奈には、荷が勝ちすぎるのだ。
(血が、全身の血が滾る…まるで沸騰しているかのようだ!…気を抜くと暴力に全てを委ねてしまいたくなる。これが、これが鬼というものか!?)
刃を押し込みながら、神奈は己の体の中で荒れ狂う何かが暴れているのを感じていた。今までは頭の中で静かに響いていた小りんの声が、自分の中に棲む鬼の全てだと思っていたが、そうではない。その血に宿る狂気染みた破壊の欲求こそが、鬼の真価なのだ。
「マズいな…!このままではっ…!ぐっく、ぅ!」
小りんは神奈から逃れようと考えているが鬼の力と人の術を同時に扱えない為に、それがうまく行かないようだ。もしこの状況で、鬼の力を抜いてしまえば、立ちどころに真っ二つにされてしまうだろう。神奈に力で圧倒されて、片膝までついてしまっている状況では、もう打てる手は一つしかない。
「ええい、これまでか!」
「ッ!?」
小りんはそう叫んで、その手にした刀へありったけの力を流し込んだ。流し込まれた鬼の妖気によって、ただの刀であったはずのそれが、輝きを変えていく。そして、顕明連が遂にその姿を現し、小りんはその場から消えた。
「ふぅ…!顕明連が与える神足通は、こうして短距離の転移も可能にするのだが、よもや私が顕明連を手にせねば勝てぬとはな……神奈、君は大した女だよ。三明の剣がその手にあれば、我らが母、鈴鹿御前すら上回ったかもしれぬ」
「フゥー…!フゥーッ…!」
荒い息で、小りんを睨みつける神奈の瞳には、もはや理性というものが感じられる状態ではなくなっていた。鬼に堕ちる一歩手前の、危険すぎる有り様だ。小りんは唇の端を噛んで、それを悔やんでいる。
「君にそれだけの力があると解っていれば…いや、待てよ?それだけ鬼の血に侵されていて、何故君はまだ堕ちていない?もしや……!」
小りんは素早く印を組み、再び鬼法童子達を呼び出した。だが、今度は足止めが目的ではなく、別の思惑があるようだ。
「童子達よ、神奈の身体にとりつけ!」
小りんの命を受け、四方から鬼法童子が飛び掛かる。暴走しつつある神奈は、既に神通力の維持が出来ておらず、鬼の力だけで童子を振り払おうとしている。その内の一体が、神奈の身体にしがみ付くと、その身体は重そうな鎖に変化して神奈の自由を奪う。そのまま次々に童子たちは神奈を抑えつけては鎖に変化し、やがて神奈の身体は雁字搦めになってしまった。
「ウウウウウッ!ガァッ!!」
「しばらくは動けんだろう、悪いが、君の心を見せてもらうぞ」
それは他心通という、顕明連によって発現する神通力の一つである。他者の心を完璧に見通すそれを使って、小りんは、神奈の心の奥底へと飛び込んでいくのだった。