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第282話 繋がる縁

「あ、あれ?私…いつの間に帰って……?」


 神奈が気付いた時、彼女は自室のベッドの上に腰かけた所だった。記憶が曖昧で、何時どうやって帰宅したのか、全く記憶にない。よく見ると制服のシャツには大量の血が付着していて、時間が経ったせいか、赤黒く変色している。一体何があったのか、訳が分からなかった。


「これは、血…か?何があったんだ?確か、帰り道で……」


 神奈は額に手を当て、曖昧だった記憶を呼び起こす。じっくり数分かけて考えて思い出したのは、あの恐ろしい鬼の姿である。段々と朧気だった姿が徐々に明確になり、神奈はハッとして机の上の紫鏡に視線を向けた。鏡の中の自分は、見た事も無い程に青白い顔色をして、ポタポタと油汗が流れ落ちている。そこで自覚したのは圧倒的な恐怖であった。


「ああ、私…は……!?」


 全てを思い出し、あと一歩で殺される所だったと知って、神奈は激しく狼狽えた。狛とは違って、これまで神奈は直接命のやり取りをしたことなどほとんどない。強いて言うならば、狛と京介のデート騒動の時に戦った、獣のような死神相手くらいだろう。過去に顕明連の力を借りた対紫鏡戦にしろ、龍点穴での騒動にしろ、神奈はそれほど身に危険が迫るような事態には陥らなかった。それは彼女がまだ未熟で、周囲がそうならないように助けていたからである。


――思い出したか?来世の私は少々気が弱いようだな。


「えっ!?」


 突如頭の中で響く声に、神奈は驚いて飛び上がってしまった。己の前世だという小りんの声は今までに何度か聞いた事はあるが、あれらは全て特殊な状況であったはずだ。まさか自宅で話しかけてくるなど今までにはなかったのである。


――そんなに驚かなくてもいいだろう。あの鬼から助けてやったのだから、驚く前に感謝して欲しいな。…まぁ、狙われたのは私の顕明連なのだから巻き込んでしまったのは私の方なんだが。


 小りんは悪びれもせずにそう言った。ふと神奈が視線を感じた方を向くと、紫鏡の中の自分の像がうっすらとぼやけている。そうしてじわじわと変わった姿は、およそ神奈とは似つかない、時代がかった髪型をした女性の顔である。ほとんど化粧はしておらず、すっぴんなのだろうが途轍もなく美しい。女の神奈から見ても見惚れるくらいの美貌の持ち主だ。


「なっ!?」


――便利だなぁ、その鏡は。魂の内面までも映してくれるのか、ともかく、これで話しやすくなった。そう言えば顔を見ながら話すのは初めてか。…初めまして、我が名はしょうりん。鬼姫である母、鈴鹿御前の娘にして人と鬼の半妖よ。


 鏡の中の小りんはニッコリと笑って、神奈に対して敵意が無い事を伝えている。若干動揺していた神奈も、その笑顔に絆されたのか、いつの間にか気持ちは落ち着いてきて僅かに笑顔を見せる余裕が生まれていた。そしてそこから、神奈の意識が途切れてからの事を聞くことが出来たのだった。





「金剛業鬼、ねぇ…悪いが聞いたことねーな」


 ある程度の話を小りんから聞いた神奈は、狛に連絡をして今日あったことの報告をすることにした。ちょうど猫田も傍にいたようで、神奈の話を聞きながら、聞き覚えのない鬼の名前に首を傾げている。


「そうか、猫田さんにも解らないか……どうしたらいいんだ」


 スマホの前で肩を落とし、神奈は俯いた。小りんの話によれば、腕を切り落とされた金剛業鬼はいずこかへと飛び去っていったようだが、しばらくして傷が癒えればまた襲ってくるだろうとも言っていた。出来れば今度は神奈自身の力で撃退できなければ、安心はできない。小りんと話は出来ても、決して自在に入れ替われるわけではないので、頼る事は難しいからだ。せめて、その鬼の由来や弱点などが解ればと思い、猫田に話を聞いてもらっていたのである。


「…あー、その鬼の事は解らねぇが、少しは力になれる事があるかもしれねぇ。神奈っつったか、お前と狛は明日学び舎が休みだろ?じゃあ、桔梗の家に来いよ」


「え?」


 唐突な申し出に、神奈と狛の声が重なる。猫田と神奈はこれまでにも何度か顔を合わせているが、猫田が神奈に興味を示したのは初めてのことである。鬼と猫又では全く何の関係もなさそうだが、力になれるとはどういうことだろうか。それにしても、今日の神奈は驚いてばかりである。狛達の前ではそうでもないが、剣道部の中ではクールなタイプとして振る舞っていたので、こんな自分を後輩や先輩達が見たらどう思うだろうかと思うと、何だか不思議な気分である。そんな取り留めも無い思考は肉体に同居している小りんには筒抜けだった。


――神奈、君って意外と人の目を気にする性質なんだねぇ。……やはり、


「何?どういうことだ?」


「神奈ちゃん、どうかしたの?…あ、小りんさんと話をしてるのかな」


 ビデオ通話ではないので、神奈の独り言は本当に単純な独り言に聞こえたらしい。神奈は慌てて狛に返事をしつつ、これからは注意深く自分の状態を客観視する事に決めた。考えてみれば、突然自分の頭の中に響く声と会話を始めたら、それはかなり危険な人物だ。異常者と間違われるか、下手をすれば薬物中毒の犯罪者扱いまでされる可能性がある。年頃の少女としては、絶対に避けたい誤解である。

 それっきり黙ってしまったので、小りんが何を考えているのか、神奈には解らなかった。神奈の考えは筒抜けなのに小りんの考えが解らないのは、少々不満である。それは神奈がまだ霊力や魂に関しての修行が足りない未熟さ故なのだが、そんなことは知る由も無かった。



 そして翌日、神奈は朝から言われた通りに桔梗の家にやってきた。ここへ来るのは、神子祭の最終日以来である。既に庭先には猫田と狛が立っていて、神奈が来るのを待っていてくれたようだ。狛は普段と変わらないが、猫田は少し神妙な面持ちで神奈の顔を覘き込んでいる。


「おはようございます、猫田さん、狛。……それで、今日はどういう?」


 ただならぬ猫田の様子に、神奈は早速質問をすることにした。これまで猫田とは何度も会っているが、こんな態度は初めてでどうにも落ち着かないのだ。


「…あー、まぁ、いきなりだが、ちょうどいいか。…狛から聞いたんだけどよ、お前の苗字は蘿蔔って言うんだったよな?」


「ええ、それが…何か?」


「お前の先祖に蘿蔔義隆すずしろよしたかっての、いなかったか?明治頃の…」


「いや、流石にそんな前の話は聞いたことが……実は私の父も母も、実家とは疎遠なんです。どうも、駆け落ちをしたらしくて…なので、私は祖父母の話もあまり聞いた事がなくて…」


 神奈は言いにくそうにそう言うと、誤魔化すように頭を搔いてみせた。神奈には全く非のない話であるが、やはり家族の縁が切れているというのは表立っては言い辛いものだ。生まれた時から常に親族に囲まれて育った狛は、それがとても寂しい事のように思える。狛は何も言わずに神奈の元に行き、慰めるように抱き締めていた。


「そうだったのか。駆け落ちなんて、昔はよくある話だったもんだが…まぁそれはいい。正直な所、鬼の血が混じっていて蘿蔔なんて同じ苗字の人間が、この世にそういるとは思えねーから、間違いないだろう。お前の先祖は、狛の高祖父の宗吾さんと同じ…つまり、俺達ささえの隊士だった人なんだよ」


ささえ、ですか。…以前、少しだけ狛から聞いた事があります。妖怪退治の組織だったっていう……それが一体何か?」


「義隆って奴はな、神通力の使い手だったんだ。鬼の力に神通力で、かなりの腕前を持ってた。お前が強くなりてぇんなら、それが参考になるんじゃねーかと思ってよ」


「それは、凄くありがたいです…!けど、私に出来るんでしょうか」


 狛に慰められた上に、猫田の申し出は願っても無い話あった。だが、霊力の扱いもまだ未熟な自分に、神通力という力が使いこなせるのかは疑問である。素直に不安を口にすると、猫田はフッと笑って神奈の頭を撫でた。


「心配いらねーよ、お前は既に顕明連って刀の神通力を使ってる。コツさえ掴めばそう難しいもんでもねぇはずだ。それに、お前の中にいる前世の魂ってのも、協力してくれるだろうしな」


「そうだよ!神奈ちゃん、私も協力するから、一緒に頑張ろう?なんならその鬼が来た時だって一緒に戦うからね!」


 二人がそう言って協力してくれることに、神奈は心の底から感謝した。そして、あの金剛業鬼という鬼には何が何でも負けるわけにはいかないと決意を新たにする。こうして、神奈の厳しい修行の日々が幕を開けたのだった。

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