ゲコゲコゲコゲコと、平和そうに蛙達が合唱している。夏を前にして、既に蒸し暑さを感じる夕方だが、神奈の額に流れているのは特に冷たい汗だった。
この辺りは住宅街の端で、川辺に近い道だけあって、この時間は人通りも少なく人目につく事はあまりないだろう。だからこそ、鬼はこのタイミングで仕掛けてきたと言う所か。神奈の前に立つ鬼は、鈍い黄色…もしくは黄土色の肌をしていて、非常に筋肉質な体型だ。上半身は裸で、下半身は見慣れない着物を穿いている。鍛え抜かれた力士のように見事な体格であった。
神奈は竹刀袋から愛用の木刀を取り出し、正眼に構えた。この所、狛を手伝って悪霊祓いに勤しんできたが、まともに妖怪と相対するのは久し振りである。果たして、どこまで戦えるのかは解らない。敗北するとは思っていないが、無傷で撃退できるとも思えない。恐怖と緊張感を心に沈め気合で鬼を睨み返す。
「ぬ…木刀だと?」
鬼は神奈が木刀を手にしたことに違和感を覚えたようだ。しかし、僅かな時間の後、その顔を凶悪に歪めた。どうやら舐められたと思ったらしい、激しい憤怒を湛えた形相である。
(く、来る…っ!)
その顔を見た瞬間、神奈は直感で鬼から攻撃が来ることを察知した。鬼は無手だ、先程は何かを飛ばしてきていたが、この状況からなら殴りかかって来るに違いない。その予想は現実となり、凄まじい速さで間合いを詰めて、鬼は右の拳を振るった。
「っ!…てぇいっ!!」
攻撃を予め予測していた神奈は、かなりの速さを持つ鬼の攻撃をバックステップで躱し、今度はそこから強く踏み込んでがら空きだった鬼の左肩に木刀を叩き込んだ。ステップの距離が長いが、剣道で言う早素振りの要領である。それを受けたのが並の人間であれば、肩の骨が折れるか、関節を痛めるだろう。しかし、予想以上の硬さを誇る鬼の身体には、木刀では全く歯が立たない。
鈍く激しい音がして、木刀は弾かれた。普通ならば圧し折れて砕けてしまっただろうが、そうなっていないのは木刀自体に神奈の霊力が通って、強化されていたからである。神奈は驚愕したものの、流石に実戦経験は豊富だからか、すかさず横に跳んで鬼の反撃を受けない距離まで退避した。
「な、なんて硬さだ!?打ち込んだ私の手の方が痺れてくるなんて…っ!」
「ふん!この
金剛業鬼はそう迫るが、渡せと言われてもすぐに渡せるものではない。厳密に言えば、顕明連は神奈の中に眠る前世の鬼、
「…返せと言われても、私には無理だ。だが、そもそもあれは私の前世が親から受け継いだ大事な物だと聞く。貴様が何者かは知らないが、理由もなく渡すわけにはいかないな……!」
そう言い放つと、神奈は強い意思を持って金剛業鬼を睨みつけた。狛ほどではないが、神奈の霊力はかなり高い。そんな彼女の気合と霊力の籠った眼差しを受けても怯まない所をみると、金剛業鬼も相当強力な鬼である事は間違いなさそうだ。その証拠に、金剛業鬼はそんな視線の圧などまるで意に介さずに笑ってみせた。
「確かに、顕明連は古参の鬼姫たる我らが鈴鹿御前様の持ち物…しかし、既に御前は亡くなり悠久の時は過ぎた。加えて、それを受け継いだという娘、小りんもとうの昔に亡くなったのだからいくら生まれ変わりと言えど、人間の貴様が持っていてよいものではないだろう。どうしても渡さぬと言うのであれば、力づくで奪うまでよ!」
そう言うが早いか、金剛業鬼は先程よりも更に素早い動きで神奈に襲い掛かった。神奈は決して油断してはいなかったが、先程よりも上のスピードがあるとは予測しておらず、ほんの一瞬対応が遅れた。その一瞬の隙を突き、金剛業鬼は神奈の前に立って拳を握っていた。
「なっ!?ぐぅっっ!」
神奈の頭の半分ほどもある拳が、神奈の腹にめり込む。木刀で防ごうと構えたにも関わらず、金剛業鬼の剛拳は易々とそれを打ち砕いていた。無惨にも折れた木刀の切っ先が地面に落ちるより前に、神奈は吹き飛ばされてガードレールに激突してしまう。金剛業鬼は、その名の通り金剛…即ちダイヤモンドに匹敵する身体の硬さを誇る鬼である。その彼が手加減もせずに拳を振るったのだ、普通の人間ならば、内臓破裂で死んでしまってもおかしくないほどの威力のはずだ。
現に、神奈は口から血を吐いていた。恐らく胃やどこかの内臓を痛めたのだろう、辛うじて木刀で防いだのが功を奏したようだった。
「グハハ!所詮は人間の小娘だな。やはり、鬼神の剣である顕明連を持つには相応しくないわ。…どれ、どこに隠し持っているのか検めさせてもらおうか」
ずしんずしんと重低音を響かせて、金剛業鬼が神奈に近づく。その間にも神奈はガードレールにもたれ掛かって微動だにせず、俯いたままだった。今の衝撃で意識を失っているらしい。金剛業鬼はその傍らに立つと、口の端を曲げて破顔し、神奈に手を伸ばそうとした。
「むっ!?うおおおおッ!ば、バカなッ?!」
その瞬間、金剛業鬼の腕は切り落とされていた。いつの間にか、俯いた神奈の右手には怪しく光る刀が握られていて、それが金剛業鬼の腕をなますに切り裂き、落としたのだ。
「……我が身に汚い手で触れるでないわ。下がれ、下郎。よもや、我を鬼姫鈴鹿と
「き、貴様ッ!?」
慌てて数歩後退した金剛業鬼を、ゆっくりと立ち上がった神奈が見据えている。その目は人のものとは違って、紅く光りを放ち、纏う霊気の質は先程までは全くの別人である。意識を失った神奈の代わりに、その魂の中で眠っていた小りんが目を覚ましたのだ。
「ふ、久方振りの現世は、些か
神奈の身体を借りた小りんは、口元に残る血を左手で拭っている。その手で腹部に触ると、ぼんやりとした淡い光が生まれて、やがて消えた。
ついでに言えば、神奈の前世でしかない小りんの意識が表に出て来る事も異例中の異例だろう。過去、神奈が己の中の彼女と交信したのは、剥き出しの魂であった紫鏡の中の異界と、龍点穴のような特殊な霊場でだけだったはずだ。
だが、今、ここ中津洲市内にある何の変哲もないただの住宅地で、彼女は目覚めて顕現している。これは日本という国において、現世と冥界の境界が極めて曖昧になっているという何よりの証拠である。
神奈の傷を癒した小りんは、自信たっぷりの笑顔で、再び金剛業鬼を見据えた。いかにダイヤモンドと同等の硬さを持つ金剛業鬼と言えど、顕明連の切れ味には耐えられない。それは、たった今切り落とされた腕を見ても明らかだ。勝利を確信していた金剛業鬼は、苦々し気に小りんを睨み返し、そのままどこかへと飛び去っていった。
「引き際は心得ていたか。まぁ、あの様子ではまだ諦めてはいないだろうな。傷を癒してからまた来る…そんな所か。さて、我はどう対処すべきか……」
金剛業鬼が飛び去った方向の空を見つつ、小りんは手にした顕明連の背で肩を叩いている。いつの間にか鳴りを潜めていた蛙達の合唱は再開したが、戻り切らない日常は、神奈の身に大きな試練の訪れがある事を警告しているようであった。