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第276話 狼のキス

 八花と戦う猫田が苦戦を強いられているその頃、狛は社長室の扉を開ける所であった。緊急事態ということもあって、ノックをしている余裕はない。狛は急いで社長室のドアを開けた。


「すみません、失礼します!……あっ!?」


 ドアを開けた狛の目に飛び込んできたのは、血を流して倒れ込んでいる直繁と、その前で立ち尽くす光重の姿であった。光重は狛がドアを開けた事にも気付いていないのか、ぼんやりと立ったままだが、彼の右手は血に染まっている。それが直繁の血であることは、一目瞭然だ。


「み、光重さん…あなた……!」


 狛が声をかけると、ようやく光重は狛に気付いたようだ。ぎこちなく動く古い人形のように、ゆっくりと、それでいて少し不自然に揺れながら、光重は振り返る。その目からは赤い血の涙が流れ、いつも自信に満ち溢れていた表情は消え失せて、悲しみと狂気が綯い交ぜないまぜになった不気味な顔つきを見せている。


「あ、ああ……オヤ、ジ…お、おおおおお、おれオレ俺おれオレれれレれ…!」


 まるで壊れたスピーカーのように、光重の口からはもはや言葉とは言えない何かが発せられるだけであった。すると、光重はガタガタと身体を大きく震わせ揺らし始め、次第にその姿が変貌していく。光重の着ているスーツの下から、たくさんの腕が伸びてきてその身体に追い縋るような形で絡まっている。しかも、変貌はそれだけでは止まらず、光重の身体は異常な程膨れ上がって、あっという間に3メートルはあろうかという巨体に変わっていた。


「な、なんなの…!?一体」


 光重の変化が進む度に、彼の身体から放たれる妖気と彼に纏わりつく恨みの念が増していく。人が怪異へと変わっていく瞬間を目の当たりにして、狛は思わず息を呑んだ。やがて、その身体にはたくさんの腕が絡まり、また盛り上がった全身の肉と複数の腕は蟹のような形に落ち着いたようだ。怪物へと変化した光重は、狛の姿を瞳に捉えて急激な反応を示している。


「お、おおおおお…!コ、ま…!おおおおレのののののの、オン、ナぁぁぁぁァッ」


「ヒッ…!?」


 これまでどんな怪物に出会っても、ここまで狛が恐れをなした事はない。そんな狛が恐れて怯むほどに、光重は邪悪で醜悪に変貌を遂げていた。ついさっきまで、光重は普通の人間だったはずだ。大量の恨みの念が憑りついていても、こんな怪物ではなかった。このわずか数時間の内に、光重の身に一体何があったのか、狛には解らなかった。


「ガルルルルルッ!ガァッ!!」


 怪物と化した光重が狛に狙いを定めた直後、アスラが飛び出して猛然と光重に飛び掛かっていた。シルエットこそ蟹のようだが、その実は膨れ上がった肉である。アスラの爪と牙はそれらを容易に貫いてダメージを与えている、今のところはアスラが優勢だ。


「ギャアアアアアアッ!じ、じじじじじじじジじ自ジじ邪魔ダァぁァァッ!!」


 痛みを堪えきれず、暴れ回る光重。社長室はそう広くないので、彼が暴れる度、本棚や作業机はいとも容易く破壊されていった。アスラは器用に光重の腕や身体を避けながら、ヒットアンドアウェイで攻撃と回避を繰り返している。


「あ、ルルドゥ!?」


 それまで気付かなかったが、よく見ると応接用のガラステーブルの上に、ルルドゥが無造作に置かれていた。だが、明らかに様子がおかしい。決して微動だにせず、声を発することもない。光重達の前だからかとも思ったが、ここまで変わってしまった彼らの前で隠すのも違う気がする。目の前で光重が変化したのがよほど怖かったのか、ルルドゥの目は恐怖に満ちて、大粒の涙を溢していた。


「待ってて!今助けるからねっ!」


 狛はすぐさま駆け寄って手を伸ばし、ルルドゥを拾い上げた。だが、その瞬間、予想だにしない事態が起こった。


「きゃっ!?うぅ、ああああああっ!!」


 手にしたルルドゥの身体から、突如として電撃のような光が溢れ出し、狛の身体へと流れ込んだのだ。あの時、黒萩こはぎがルルドゥに仕込んだものがこれである。狛の霊力に反応して発現するこの術は、ルルドゥの動きを抑える呪縛と、狛の身体を麻痺させる激しい電撃が仕掛けられていた。そうとは知らずルルドゥに触れてしまった為に、狛はモロに電撃を食らって昏倒してしまう。その上、ルルドゥは未だ呪縛によって動けないままである。


「ッ!?ギャンッ!!」


 狛が倒れた事にアスラは気を取られ、光重の攻撃を避ける事が出来なかった。肥大化した豪腕による一撃を受け、アスラは軽々と吹き飛ばされてしまう。壁に叩きつけられたアスラの首輪から、その身を守る勾玉が一つ砕け散り、衝撃でアスラもまた意識を失ったようだ。


「ん、んんんんんーっ!!」


 呪縛によって喋れないルルドゥは、悲痛な唸り声を上げて狛とアスラを交互に見つめている。このままでは全滅してしまうのは明らかだ、だが、ルルドゥは身動きが取れず、狛もアスラも意識がない。今日が新月の前夜でなければ、狛は黒萩こはぎの術を受けても、なんとか耐えきれただろう。或いは、戦いになる事を見越して、九十九つづらを着込んでいれば結果は違ったはずだ。しかし、狛の身を守るはずの霊力は極端に低下しており、相談を受けるだけのはずだったので九十九も着ていない。人狼の弱点を見越した黒萩こはぎの、恐るべき策略に狛は嵌まってしまったのだ。


「フゥーッ!フゥーッ!!」


 興奮冷めやらぬ様子の光重が、変異して重そうな身体を引きずって狛の元に近づいてきた。歪な形に変わった眼で、狛の身体を舐め回すように見ると、より興奮の度合いを強めている。既に光重の邪魔をするものは何もなく、彼の願望を妨げるものなど無い。今の光重にあるものは異常な程の性欲の発散と、暴力によって他者を害そうという凶悪極まりない欲求のみである。それらはまさに、彼がこれまで虐げてきた人々に行っていた暴虐な行為そのものであった。


(こ、このままでは狛がっ…!?ううぅ、わ、我のせいで……っ、誰か!誰か助けてくれぇぇっっ!!)


 声を出せないルルドゥが、胸の中で大きく叫ぶ。その時、本来なら誰にも届かないはずのその声に呼応するように、ビルの外から狼の遠吠えが大きく響き渡った。


――ウオオォォォォーーーーーン!


 すると、社長室の窓が一つ割れて、外から黒ずくめの男が飛び込んできた。サハルとザッハークとの戦いの時に猫田と手を組んで狛を助けに来た、あの黒い狼に変身する人狼だ。


(な、なんだ!?アイツは…!アイツから、神の力を感じるぞ……?一体、何者なんだ!?))


 ルルドゥは彼を初めて見るので、彼が狛を助けに来たことは知らない。ただ、この中で唯一の神であるルルドゥだけは、黒い人狼の男から自分と同じ、神の気配を感じ取っていた。正確には神そのものではなく、その使徒という所だろう。

 男は正しく電光石火のスピードで走り、光重を蹴り飛ばすと、そのまま素早く狛の身体を抱き上げた。同時に、傍らに落ちているルルドゥを拾い上げ、印を切ってルルドゥにかけられた呪縛を解いていく。実に鮮やかな手並みだ。


「は…!しゃ、喋れる!?おい、お前は一体……」


「狛、起きろ…起きてくれ」


「う、うぅ……」


 ルルドゥの問いかけを無視して、男は狛に声をかけている。しかし、強烈な電撃で痺れた狛はまだ意識を取り戻しそうには無かった。そこで彼は、信じ難い行動に打って出た。


「ダメか。……すまない、先に謝っておく」


「あ、ああああああっ!?」


 ルルドゥの絶叫をBGMに、男は狛の唇に口づけをしたのだ。これには、流石に半覚醒状態だった狛も目を覚まし、カッと目を見開いて驚きを隠せずにいる。同時に男のその口から、大量の霊力が狛に注がれた。狛の鼓動が大きく鳴ったのは、キスのせいか、或いは注がれた力のせいなのかは解らない。


 その一瞬は永遠のようにも、刹那のようにも感じられた。そして後に狛は気付く、またしても、意識の無い内にキスをされてしまったのだと。

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