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第275話 恨みの化身 八花

 化け猫を前にして、猫田は怒りを隠さずに構えた。猫田自身も、かつては同じ化け猫という妖怪であったが故なのか、その瞳にはいつもよりも容赦のない敵意の色が浮かんでいる。対する化け猫は酷く歪んだ笑みを絶やさずに、怒る猫田を見返していた。余裕綽々よゆうしゃくしゃくに、まるで本気で相手にしていないとでも言いたげな様子だ。


 次の瞬間、猫田はあっという間に大型の猫に変化して、すれ違い様にその爪で化け猫を引き裂いた。余りにも速すぎて、化け猫は身動ぎする事も出来なかったはずだ。しかし、それをやったはずの猫田は大きく舌打ちをして、顔をしかめている。


「ちっ!」


「アア…とても速い、わ。それに、大きくて強い……のね。イイわ、とっても」


(コイツ、まるで手応えがねぇ。…まやかしか?それとも……)


 猫田の爪によって引き裂かれたはずの化け猫の身体は、蜃気楼のように揺らめいて、すぐに元通りになってしまった。ただ、実体がないというよりも、水を相手にしているような感覚である。


「ウフフフフ……」


「舐めやがって、次も同じようにいくとは…なにっ!?」


 そう言い切る前に、猫田の左前脚が大きく裂けた。攻撃された感覚は全く無く、目の前の化け猫は笑っているばかりで動いてすらいない。猫田は驚愕して一歩後ろへ飛び、距離を取ったが何をされたのか解らないため、それ以上は対処のしようがない。するとその間に、化け猫の身体はどんどんと大きくなって、やがて猫田と同じサイズの姿へと変貌してみせた。


「野郎…!」


「クスクス…」


 化け猫が自分と同じ大きさに変わった姿を見ても、猫田は驚いてはいない。その外見よりも、化け猫がどんな力を持っているのか?今の攻撃はなんだったのか?それを知る方が先決だ。猫田にこれだけの傷をつけるというのは、相当な力が無ければ出来ない芸当である。下手をすれば、一方的にやられる可能性もあるだろう。迂闊な真似はできない。


 そもそも、猫又と化け猫の違いは非常に曖昧なものだ。どちらも猫から派生した妖怪であり、力のある妖怪達と言っていい。その違いを強いて言うならば、その誕生する理由が異なるということだろうか。猫又は歳経て長く生きた猫が霊力を持ち、妖怪へと転じたものだが、化け猫の場合はその多くが恨みによって変化している事がほとんどだ。実際、猫田も家族を殺した人間への復讐という、極めて強い恨みによって化け猫になった。猫田が復讐を果たし恨みを晴らした後に猫又になれたのは、本来、そうなれる素養を持っていた事と、あの白い猫と出会って憎しみの心を浄化されたからである。


 猫田はまだ距離のある内に、化け猫の力を見極めようと考えていた。しかし、それを見透かしているかの如く、化け猫は猛然と猫田に飛び掛かってきた。


「ちぃっ!」


「アハハッ…!」


 不気味な笑みを浮かべて向かってきた化け猫は、猫田の首元に噛み付こうと狙っているようだった。幸い、動きの速さはさほどでもないので、猫田はその攻撃を見切って躱し化け猫を飛び越えるように身を翻して跳ぶと、返す刀でその爪を化け猫の背に突き立てた。

 ドゥッ!という鈍く貫く音がして、化け猫の背中に猫田の爪が食い込む。普通、猫同士の喧嘩は素早いパンチの応酬になるものだが、化け猫は敢えてその牙で噛みつこうとしてきた。マズルの長い犬ならばともかく、猫の身体で噛みつく攻撃は隙が多いものだ。その隙だらけな行動を見過ごす猫田ではない。だが、またしても、猫田の攻撃は効果を発揮しなかった。


「…っ!?」


 確かに化け猫の身体を貫いたはずの爪は、不思議な感触を猫田にもたらしている。水の塊に爪を立てたような、とても軽い抵抗だ。猫田はそのまま化け猫の身体を飛び越えて、少し離れた場所に着地した。


「ウフフ…」


「ぐ、あっ!?…ば、バカな!」


 着地と同時に、猫田の背中に激痛が走った。先程攻撃した化け猫の背中と同じ場所に、鋭い痛みが現れたのだ。背中なのでよく見えないが、明らかに爪を立てられた感覚がする。そこで猫田は確信した。原理は不明だが、この化け猫は自らへの攻撃を相手にはね返しているのだと。


「くぅ…!」


「…気付いたみたいね?これは鏡鳴魂きょうめいこんといって、私への攻撃を正確に相手へ返す業よ……クスクス」


「その技…テメェは、一体…?」


「そう言えば、名乗ってなかったわ、ね。…私は八花ヤハナ。昔は『怨み返し』なんて呼ぶものもいたわ。皆、死んでしまったけれど…ウフフ」


「怨み返し…そうか、テメェが…」


 ちりんと鈴を鳴らして、八花は笑っている。そして、猫田はその異名に聞き覚えがあった。古くは江戸の時代、妖怪達の間で噂になっていた謎の妖怪…それが怨み返しと呼ばれた怪異の存在である。怨み返しがどういう妖怪だったのかは、実はほとんど伝わっていない。何しろ、人であろうと妖怪であろうと、出会ったものは例外なく死ぬという災害級の怪異だったからだ。実在するかどうかすら怪しいものだったが、辛うじてその異名だけが伝わっているのは、死に際に怨み返しという言葉を遺して死んだ妖怪が複数いたからである。


 苦痛に歪む猫田の表情を楽しんでいるのか、八花はうっとりとした微笑みを浮かべて、猫田を見つめている。自分に向けられた相手の力を正確に相手へ返す――そんな事が出来るのならば、確かに怨み返しと戦って生きて帰れるものはいないだろう。だが、攻撃をはね返されるなら、自分から攻撃をしなければ済む話である。猫田はそう考えて、その場で警戒しつつ考えを巡らせた。


「…自分から攻撃をしなければいい、そう思っているでしょう?クスクス…そうよね。皆、そうするわ。でも、ね」


 猫田の行動が予想通りであるかのように、八花は笑って、その紫色の瞳を怪しく光らせた。すると、傍に浮いていた人魂の一つが大きく、そして激しく燃え盛り、やがてそこから複数の人間の男達が飛び出してきた。


「こ、コイツら、は…っ!?」


 猫田はそれらの姿に、激しく動揺する。その男達は、かつて猫田が復讐を果たした野盗どもだった。全身から血を流し、苦痛に歪んだ顔で次々に猫田へ襲い掛かってきた。


「くっ!?」


 猫田はすぐに距離を取ろうとしたが、背中と左前脚の傷が予想以上に深く、素早い動きを封じられてしまっていた。そうしてあっという間に猫田に殺到した野盗どもは、その身体を抑えつけ、手にした刀や槍で猫田の身体を刺し貫いていく。


「ぐぅっ!う、っ!?こ、このっ!」


 猫田は尾を振り回して男達を蹴散らしたが、その隙を突いて八花が接近しており、八花は易々と猫田の身体にその牙を立てた。


「がっ!?」


 八花はじゅるじゅると音を立てて、嚙み付いた首元から猫田の血を吸っている。全て吸い尽くすほどの勢いではないが、かなりの量を吸ったのは間違いない。猫田は堪らず尾を振り下ろし、八花を叩き潰そうとした。だが、それは難なく躱されてしまい、猫田は翻弄されるばかりであった。


「フフ…ご馳走様。ああ、美味し……やっぱり同族の血は滾るわ、ね」


「っ…!く、そが…っ!」


 再びやや離れた場所に立ち、八花は恍惚とした顔で血の余韻を味わっている。流石に血を失い過ぎたせいか、猫田はふらつき、肩で息をしている有り様だ。そんな猫田を横目に、八花は舌なめずりをして、口の周りに着いた血を舐めとっていた。猫田はそんな八花を睨み、戦う意志を失ってはいないようだった。


「フフフ…まだやるつもり?いいわ、どうせアナタも死ぬ。私を戦う相手は、必ずそうなるの……クスクスクス」


「く……!」


 濃密な死の気配を纏う化け猫、八花。その恐るべき力を前に、猫田は苦戦を強いられている…

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