「はぁっはぁっ…!いたか?」
「ううん、どこにも…!」
病院の周りを猫田と手分けして探してみたが、ルルドゥはどこにもいなかった。そもそもルルドゥは神気をまとっているので、その辺に落ちていればすぐに解るはずだ。それが感じられないということは、何かに封じられたか、或いはルルドゥ本人が神気を隠してしまっているかだろう。
どちらにしても、気配から辿るのは難しい。どうしたものかと思案していると、アスラがスンスンと匂いを嗅ぎながら歩き始めていた。
「アスラ…?匂いで辿れるの?」
狛の問いかけに、ついて来いと言わんばかりに振り向いてから先導するように歩いていく。狛はアスラの心が読めるので、何が言いたいのかはすぐに解った。アスラには心当たりがあるらしい。二人は顔を見合わせて、アスラの後をついて行く事にした。どちらにせよ他に手掛かりはないので、ここはアスラを信じるしかない。
時刻は夜7時を過ぎて、街は仕事終わりを楽しむ人達で溢れ始めていた。人混みの中で匂いを辿るのは難しい、狛も嗅覚が優れるようになったが、これだけの人がいると特定の匂いを辿るのは至難の業だ。こう人が多いとむしろ、はぐれないようにアスラの後をついて行くので精一杯である。
(今日はやけに身体が重いな…それになんだか、色んな力が落ちてるみたい。なんでだろ?)
狛は俯きながら、自身の体調の変化に戸惑っているようだ。非常に体が怠く、自慢の鼻もあまり働かない。ふと見上げれば、空にかかる月はほとんど隠れてしまっている。今夜は月相で言う所の『明けの三日月』…つまり、新月の前夜である。かつての空港テロ事件の時がそうであったように、狛は人狼化した代償として、新月の日になると極端に能力が低下する身体になってしまった。それは狗神走狗の術を使っていなくても同様で、新月の日には昼間でも著しく霊力が衰えてしまうのだ。
そして、今夜はその前日前夜である。狛の身体は、その影響を受ける度合いが強くなっていた。以前よりも人狼化が一段と進んだことで、新月に近づけば近づくほど、身体能力が低下していると言う事に狛はまだ気付いていない。
「ここって…鍋縞商事の……?」
そんな中、アスラによって辿り着いた先は、先程までいた鍋縞商事のビルであった。ビル内に明かりが灯っているのでまだ社員は残っていそうだが、何故ここでルルドゥとはぐれてしまったのかが解らない。とにかく迷っていても仕方がないので、狛達は正面からビルに入る事を試みた。考えてみれば、ビル内なら好都合である。何しろ狛達は特定のルートしか通っていないので探すのも楽だし、もしかすると受付に落とし物として届けられている可能性もある。時間的に正面の入口が空いているかが微妙だったが、近づいてみれば普通にドアが開いて狛達を受け入れてくれた。
「受付は……流石にこの時間じゃ誰もいないみたい」
「とりあえず、今日通った所をもう一度歩いてみようぜ。…しかし、
猫田も狛も、ルルドゥが自分から離れて、単独で情報収集しようとしたなどとは微塵も思っていない。功を焦ったルルドゥのミスだが、事実を知った二人がどれほど怒るかは未知数だ。
とはいえ、二人が通った道はそう長くも多くもない。玄関ホールと、社長室のある最上階に向かうエレベータの中と社長室だけだ。二人と一匹は目を皿のようにして周囲を窺いつつ、玄関ホールを抜けて、夕方使ったものと同じエレベータに乗り込んだ。だが、そこにもルルドゥの姿は無い。
「猫田さん、私達が帰る時に乗ったの、このエレベータだったよね?」
「ああ、間違いねぇな。しかし、この中でもねーか…てっきりここから出られなくなってベソでもかいてると思ったんだが……」
猫田の予想は当たっていた。実際、エレベータを操作するボタンに手が届かなかったルルドゥは、しばらくの間ここで泣いていたのだから。そのものズバリ、ドンピシャである。普段の狛ならば、このエレベータの中で
エレベータが最上階に着きそのドアが開くと、二人の耳元で、ちりんという鈴の音が聞こえた。かなり近い、すぐ傍で鳴ったような感覚である。その音が聞こえた途端、猫田は全身に怖気を感じて、正面を睨みつけていた。
「猫田さん…?」
「狛、社長室だろ?先に行け。…アスラ、狛を頼むぜ」
猫田の言葉に、アスラは当然だと返事をするように鼻を鳴らした。愛らしい仕草だが、アスラ
「猫田さん…?ごめん、私、今ちょっと……」
「気にすんな、どうやら、コイツは俺に用事があるみてーだ。それより、早くルルドゥを見つけてやってくれ」
「うん、解ったよ。…猫田さんも、気をつけてね!」
タタタと、小走りに廊下を進み、狛は社長室へ向かっていく。その背中を確認した後、エレベータ前のホールで何もない空間を睨みつけていた。
「…おい、出て来いよ。ずっと俺達を見てやがったのは知ってるが、いよいよ直接お出ましなんだろ?」
――ちりん。――ちりん、ちりん。――ちりん。
虚空に向かって猫田が喋ると、やがてゆっくりと周囲の空間が歪み、滲んだようにして景色が変わっていった。鈴音が鳴る度、見慣れたオフィスビル内の景色は次第にドロドロと溶け落ちて、やがてモノトーンの何もない空間に変わる。異界なのは間違いないが、この心象風景は何を意味しているのか解らない。
そして、それは現れた。いくつもの人魂を浮かべて歪んだ空間の形が、大きなグレーの猫へと変化していく。
「
目の前に現れた化け猫は、ニタリと大きく口角を上げ、白い歯を見せて笑っていた。およそ猫とは思えない表情だ。ビロードのような、グレーで美しい毛並みは滑らかそうな光沢を放ち、輝いている。だが、化け猫の纏っている妖気は、そんな長所を容易く打ち消すほどに邪悪で禍々しい圧を感じさせていた。この悪意に満ちた妖気の波長には覚えがある、これは……
「…恨み、か。復讐するつもりか?まさかこんな所で
猫田は深く頷いていた。自分自身、化け猫になったのは家族の復讐の為である。それ自体を否定するつもりは全く無い。ただ、復讐は一歩間違えれば、闇の底へと転落しかねない危ういものだ。猫田も、復讐を遂げてなお憎悪の念が消えなければ、人に仇なす凶悪な妖怪へと堕ちていただろう。そうならなかったのは、運が良かっただけである。
その意味では、あの光重に付き纏っている恨みの念を、わざわざ消してやる必要もないと猫田は考えていた。あの男は間違いなく外道であり、クズに分類される人間だ。恨まれても仕方のない人間と言ってもいい。そう言う悪性そのものという人間も世の中には数多くいて、その為の正当な復讐は、果たされてしかるべきだと思う。
問題なのは、人間の魂が穢れやすく、非常に脆いという点である。
復讐という大きな闇に囚われると、人の魂は往々にして、その形を維持できず妖怪や悪魔に変異したり、地獄に引きずられてしまうのだ。狛はそれを嫌っている。真っ当に生きた人間の魂その行き着く先が無明の闇であると言う事が、狛には悲しく、耐えられないのだろう。その気持ちは、当然猫田にも理解できた。だからこそ、猫田は狛の制止に従って、光重を害さずにいたのである。
「クスクス…フフフ…クスクスクス…」
「何がおかしい?」
「カワイソウに…あの子は毒牙にかかりに行った……もうアナタは助けられない…クスクスクス…」
「何だと…?まさか!?」
猫田はハッとして狛の走った方を見たが、ここは既に異界の中である。目の前の化け猫をどうにかしない限り、外には出られないだろう。
「フフフフ…これでまた、あの男への恨みが溜まる……地獄に落としても足りない程の、恨みの渇きが…クスクス」
「テメェ…!?」
猫田はハッキリと理解した。目の前にいるこの化け猫は自分とは違う、全くの別物だと。これが仕組まれた罠だと知った猫田は、強く敵意を露わにし、化け猫と対峙するのであった。