目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第273話 邪な企み

 女に無造作に捕まれたまま、ルルドゥはビル内を移動していた。逃げ出したい所ではあるが、何故かこの女は自分の隠形の術を見破っている。となると、そう簡単に逃がしてはくれないだろう。狛や猫田すら欺く術を看破されたことで、ルルドゥは恐れを抱いているようだ。


(ど、どうやって逃げれば…最悪の場合は槍を使って戦うか……?)


 ルルドゥ最大の武器である槍は、いつでも出し入れ可能なので、今この場でも使う事は出来る。だが、それを使えば大事おおごとになるのは避けられない。ただでさえ大人しくしていろと言われたのを破っている手前、迂闊な事をして狛や猫田に叱られるのはもっと恐ろしいらしい。現実と感情の板挟みになって、ルルドゥはひたすら身動きが取れずにいた。


 しばらくどこかを移動した後、やがて女の足が止まった。コンコンコンと三回ノックをすると中から男性の返事が聞こえる。そうして、女はゆっくりとドアを開けた。


「失礼します。こんにちは、鍋縞さん」


「おお!これは黒萩こはぎさん、ご無沙汰しております。ささ、どうぞこちらへ。……今日はどうされましたか?定期の訪問にはまだ少し早いかと…」


「仕事で近くまで立ち寄る機会がありましたので、せっかくなのでに…息子さん、相変わらずのようですね」


 ルルドゥを持った女――黒萩こはぎは挨拶もそこそこにツカツカとヒールを鳴らして室内に入り、ソファに座ると直繁を睨んだ。黒萩こはぎが言っているのは、光重の素行の事だ。先程、ルルドゥが気付いたように、光重に憑りついた恨みの念の影響で、鍋縞商事内には雑霊などが入り込んでいる。それを処理していたのが、黒萩こはぎ達なのであった。

 実のところ、これまで鍋縞商事や直繁、光重が安泰でいられたのは、そういった力添えがあったからこそである。元々、直繁は狛達の祖父、阿形の知人であったのだが、その縁で槐とも懇意であった。犬神家と離れても槐達に資金面での問題が無かったのは、彼らのようなパトロンの存在があった為だ。


「お恥ずかしい限りで……せがれの悪癖には、私もとんと手を焼いております。しかし、狛さんに見て頂くようになってから、少しは我慢が出来ているようです」


「そうですか、それは何より。まぁ、あの子は頑丈ですから、いざとなればよ」


 そう言って、黒萩こはぎは静かに息を吐いた。直繁が思っているほど、光重は我慢出来ているわけではない。彼は常に、狛の身体をどう弄んでやろうかと妄想して自分を慰めているだけで、内面の欲望は噴火する直前のマグマのようにドロドロと溜まり切っているのだ。黒萩こはぎはそれを理解しているからこそ、こういう発言をしているのである。


(なんだ…今、狛と言ったか?コイツら、狛に何かしでかそうというのか?…ぬぬぬ、許せん!)


 ルルドゥは黒萩こはぎと狛の関係を知らないので、状況が掴めていない。ただ、二人が狛に何がしかの悪意を持っていることだけは解る。ルルドゥからみて、狛達との出会いこそ最悪だったが、一緒に暮したり、くりぃちゃぁを紹介してくれたりといったこれまでを経て今は好意に変わっている。その狛を害そうと言うのは到底看過できない話であった。

 そんなルルドゥの怒りは、黒萩こはぎの傍らに置かれていた彼の存在を強める結果となった。必然的に隠形の術は効力を薄れさせ、ルルドゥの姿が直繁の目に留まる。


「おや?その人形は……」


「これがどうかなさいましたか?」


「いえ、流行っておるのですかな。その人形と同じものを、狛さんの連れた犬が背負っていたような気がしまして」


「これを……狛が?…なるほど」


(し、しまった…!隠形の術が!?)


 ルルドゥは慌てて怒りを鎮めようとしたが、既に遅かった。彼の隠形の術はあくまで認識を阻害する程度のものだ。ある程度の注意を向けられていない相手でなければ正しい効果は発揮できない。今のように注目されていては意味が無いのである。

 今の会話で、黒萩こはぎはルルドゥが狛の所有物…或いは関係者であると認識したようだ。それでなくとも狛は神仏や妖怪の類いと交流を持っていると知っているので、ルルドゥが何らかの意図をもって送り込まれた存在だと解ったらしい。


(ずいぶん拙いけれど、スパイのつもりかしら?あの子もそんな搦め手を使うようになったのね。…となると、狛は鍋縞一家を疑っている?やはり、そろそろ縁を切る頃のようね)


 黒萩こはぎは決心したように、スーツの内ポケットから黒い宝石を取り出して、ガラステーブルの上に置いた。オニキスを思わせる黒い輝きは、しっとりと濡れたように光沢を放っていて、何も知らず、また力を持たない人間にはとても美しい宝石に見えるだろう。


(なっ…なんだ、アレは!?禍々しい……うう、神である我を圧倒するなんてっ…き、気分が悪くなってきた…!)


 しかし、ルルドゥから見たそれは、毒そのものを纏った陰鬱な闇の結晶である。これこそ妖怪達を狂わせる石、狂華種…その派生品であった。


「ほほう、これはまた美しい宝石ですなぁ。黒萩こはぎさんの名に相応しい」


「ふふ、ありがとうございます。これは私達の新しい商品…有り体に言えばパワーストーンのようなものです。生憎とまだ試作品なので、これ一つきりですが、お守りとしては十分過ぎる効果があるでしょう。これを息子さんにお渡しください。きっと役に立つと思いますわ」


 黒萩こはぎはそう言うと、おもむろにルルドゥに手を伸ばして、小さくしゅを唱えた。たったそれだけで、ルルドゥは全く身動きが取れず喋る事さえ出来なくなる。


(うっ!?か、身体が動かない?!声も…ど、どうなっているのだ!?)


 焦るルルドゥの内心を見透かしたように、黒萩こはぎは不敵な笑みを浮かべ、彼をそっと直繁の方に差し出した。


「それと、これを狛に…実はこれ、狛の持ち物なのです。どうやらここに落としていったようで……鍋縞さんの方で返しておいて下さい」


「おお、そうだったのですか。解りました、そのように致しましょう。ありがとうございます、このようなお守りまで譲って頂いて…これで狛さんとせがれがうまく行けば、いよいよ我々は犬神家と縁戚になれるのですなぁ。感無量です」


 直繁が、桔梗に渡りをつけて狛と接触しようとした最大の理由――それは息子光重と狛を引き合わせること、つまり、見合いが目的であった。表の犬神家は、いくつもの会社や病院を経営する大企業だ。直繁は先代の阿形の頃から、その財産と地位を狙っていた。阿形の娘、あめを手に入れることは出来なかったので、彼は狛に目をつけた。その為に槐達と手を組み、力を貸してパトロンになっていたのである。

 見合いと言っても、光重は既に30を過ぎている。16歳の狛の相手としてはあまりにもトウが立ちすぎているのだが…直繁のような年代の男性には、男女など無理矢理にくっつけてしまえばどうとでもなるという、古い価値観が生きていた。女という生き物は、一度抱いてしまえばもうその男から離れられなくなる…そんな考えだ。現代的価値観からはかけ離れた思考だが、かつての時代にはそれが当たり前のように根付いていた考えでもある。確かに、女が若く未熟であるほど通じた情は強くなるが、多くの場合、一度抱いた女に執着するのは男の方だろう。結局の所、男と女はコインの表と裏、似たり寄ったりなのだ。


 そんな直繁の思考を、黒萩こはぎはよく理解して利用しようとしている。同じ女としては唾棄すべき愚案でも、鍋縞家というパトロンを都合よく動かすにはうってつけだ。ましてや、今の狛は敵対する相手である。黒萩こはぎにとって、大事な家族は槐ただ一人であり、狛がどうなろうとも関係はない。多少哀れに思う同情心は湧いても、そこまでであった。


「狛をどうにかするなら、明日が良いでしょう。何しろ、明日は


 そう言って笑った黒萩こはぎの顔は恐ろしい程に美しく、そして冷酷に見えた。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?