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第271話 束ねられた犠牲

 それから数日、狛達は何度も鍋縞商事へ通うことになった。その度に、狛は人の恨みを打ち消すように注意をし恨みの念自体も少しずつ祓ってもいたのだが、相変わらず光重は狛の言葉をまともに受け取るつもりはなく、ただただ狛をいやらしい目つきで視姦しているだけだった。何度猫田の手が出そうになったか解らない程だが、何とか狛が取り成して抑えている。それでも、鈴の音の正体は掴めず、この関係を終わらせる事は出来なかった。


「ああー、イライラする!あの野郎、いつか絶対とっちめてやる!」


 怒る猫田の隣で、狛はずっと何かを考え込んでいた。ちなみに今は、光重が仕事の急用で席を外している状況だ。光重の父直繁は、今日は同席すらしていない。これまでの間にもあったが、直繁は頻繁に会社を離れて外出する事が多いようだ。かなり精力的に活動するタイプの社長らしい。たまに狛達と顔を合わせると、含みのある笑みを浮かべるので何とも薄気味が悪い。


「なぁなぁ狛、どうかしたのか?何か気になるのか?」


 光重が席を外しているので、いつもは黙って荷物のフリをしているルルドゥが、狛に声をかけた。一応、心配してくれているらしい。それに気付いた狛はふっと表情を緩めて、ルルドゥの頭を撫でてやった。


「んー、ちょっとね。何か引っかかる気がするんだけど、何だかわからなくて……」


「そういや、こないだもそんな事言ってたよな?一体何なんだ?」


 何なんだと聞かれても、それが解れば苦労しない。狛自身にも解らないからこそ悩んでいるのである。当然、猫田の質問にも狛は曖昧に答える事しか出来なかった。そのまましばらくすると、社長室のドアが開いて光重が戻ってきた。何やら機嫌が悪そうで、明らかに苛立っている様子だ。


「あー、スンマセンね。ちょっと急用が出来たもんで、今日はこの辺で。早く鈴の音が消えるといいんすけどねぇ」


「解りました。それじゃあ、私達はこれで。……光重さん、気をつけて下さいね」


「…は?何をです?」


「前にも言いましたけど…あなたにはたくさんの恨みの念が憑いているので、心を乱すとその隙を突かれやすくなりますから」


 狛がそう言うと、光重は明らかに怒りを露わにしてみせた。だいぶ精神的に余裕がなくなっているような、そんな雰囲気である。


「ちっ…!はぁ、そんな事、アンタに言われなくてもね…まぁ、とにかくまた明日来てくださいよ」


「はい、それじゃ失礼します」


 狛達が部屋を出て行った後、光重は頭を搔きむしって、革張りのソファを蹴り上げた。狛達の前では我慢していたようだが、いよいよ鬱憤が限界まで溜まってきているのだ。


「あああああああ、くそ!いつまでも鈴の音がちりんちりんちりんちりん…うっせぇーんだよ!どいつもこいつも…俺を苛立たせやがってよぉ!」


 余りにも強く搔きむしっているせいで、光重の頭からは血が流れ始めていた。光重にしか聞こえない鈴の音に混じって、にゃあんという猫の声が聞こえる。まるで、少しずつ狂っていく光重を楽しんでいるような、そんな鳴き声であった。


 エレベータを降りてすぐ、狛達の耳に聞こえてきたのは、あの高齢女性の声である。相変わらず興奮した様子で受付嬢と話し合っていて、とても穏当な空気とは言えないようだ。ちょうどすれ違う社員達の噂話も聞こえてきている。


「…おい、また来てるぜ、あの婆さん」


「あれだろ?こないだ自殺したっていう若手の……」


「ああ、竜造寺って奴な。可哀想な奴だったよ、バカの二代目に目つけられて昼間っから…」


「おい、滅多な事言うな…!まぁ、しょうがねぇよなぁ。下手に逆らったら俺達までクビにさせられちまうし」


「でもよ、あの二代目、サンドバッグがいなくなって相当カリカリしてるらしいぜ。次の生贄は誰になんのかね?――」


 通り過ぎて行った彼らの会話から、光重があれほどの恨みを買った理由を察する事ができた。ある程度の想像はしていたが、聞くに堪えない話である。狛と猫田は顔をしかめて何とも言えない気分にさせられた。


「…今の、あの光重って奴の事だろ?やっぱあの野郎どうしようもねーな」


「うん……」


 流石の狛も、それ以上言葉が出ないようである。とはいえ、恨みの念に引っ張られて死んでもいいとは言えないようだ。それは何も光重の事を思っての事ではない。人を呪わば穴二つの言葉が示す通り、恨みで他人を死においやることは魂の穢れを呼び寄せることにもなる。既に死んでしまっていても、恨みが強すぎて成仏できなくなる可能性があるし、まだ生きた人間の場合は尚更、良くないものを招く恐れもあるのだ。

 もちろん必ずしもそうなるとは限らず、また正当な復讐という事もあるので一概には言えないが、やはり本人が改心して罪を償わせる方が、誰も傷つかずに済むだろう。出来ればそうなって欲しいと狛は願っているのだった。


 狛と猫田が受付に近づいていくと、高齢の女性は警察を呼ばれる寸前であった。どうやら、先日のガードマン達はいないらしい。


「あのー、どうしました?」


「あら、あなたは…」


「お客様、何度も申し上げますが、これ以上は警察を呼んでのご対応になります。お引き取り下さい。……全く、ガードマンが急に体調を崩したから…」


 最後は小声で、狛にはよく聞き取れなかったがその前の警察を呼ぶというのはハッキリと聞こえた。狛は慌てて女性を外へ連れ出すことにする。


「け、警察!?あ、と、とりあえず一旦外に出ましょ?失礼しますー!」


「え?あ、ちょっと…!?」


 そうして、慌てて外へ出てきた三人と一匹は近くの小さな公園で話をすることにした。ベンチに着くと、狛は猫田に頼んで飲み物を買ってきてもらうことにする。


「ふぅ、ごめんなさい、急に。えっと…竜造寺さん、ですよね?」


「こちらこそ、ごめんなさいね、何度も…あら?私、自己紹介したかしら?」


「あ、いえ、噂話というか…ごめんなさい。あの会社の人が話してるのを聞いちゃったから……」


「そうだったのね……いいのよ、きっとあの会社の人達からはよく思われていないでしょうし。それにしても、あなたは高校生よね?どうしてこんな所に?」


「えっと、私は犬神狛と言います。その、心霊アドバイザーというか、実家がお祓いとかをやってまして…その縁でこちらに」


「まあ……」


 そう言って頭を下げると、高齢の女性もまた、頭を下げて自己紹介をしてくれた。彼女の名前は竜造寺香耶りゅうぞうじかやといって、やはり自殺した若手社員、竜造寺七郎りゅうぞうじななおの実母だそうだ。狛は七郎と面識はないが、実のところ彼のは見えていた。自傷した手首から痛々しい血を流し、苦痛に満ちた念が印象に残っている。何故それが七郎のものだと解ったのかと言えば、それが最も新しいものだったからだ。


「あの子は、私と主人が歳を取って、遅くに出来た子だったから宝物のように育ててしまったの。おかげで優しい子に育ってくれたけれど……他人の悪意というものに不慣れだったのかもしれないわね」


「そんなこと、ないと思います、けど……その、旦那さんは?」


「あの人は去年亡くなったの、病気でね。あの子は父親の事が大好きだったから、それもあって、耐えられなかったんでしょうね。私がもっとしっかりしていれば……」


「そん、な……そう、ですか」


 狛はなんと言えばいいのか解らなくなった。七郎の優しさは決して罪ではないし、他人の悪意に触れずに育つことも悪ではない。むしろ、それらは誇らしいことだ。人の世は綺麗なものだけではないというのに、そういったものに慣れず生きて来られたのは、むしろ香耶達、親の育て方が素晴らしかったと言ってもいいはずである。そんな人間の魂が、恨みによって人を傷つけ、魂を穢れさせようとしている。それは断じて正しいことではないだろう。


 強い恨みは時を経ても簡単に消えることはないが、新しいものは見ればすぐに解る。特に七郎の場合は、まだ亡くなってから四十九日も終わっていないので、恐らく本人の魂そのものが現世に残っているはずである。今ならまだきちんと成仏させて、あの世に送ってやることも出来るかもしれない。それが今となっては、七郎という青年の魂を救う唯一の手段だろう。


「あの…!」


 狛はそこで言葉を詰まらせた。まさか、あなたの息子が恨みの念を募らせていますと言う訳にもいかない。だが、一人残された悲しい母親に、何か伝えるべき事があるのではないか?そんな板挟みで、何も言えなくなってしまったのだった。

 香耶はそれを、狛の若さゆえ、人生経験の無さゆえ言葉を失ったのだと解釈したようで、悲しい笑顔を浮かべて、狛の頭を撫でた。


「ありがとう。こんな見ず知らずな私の話を聞いてくれて…息子の為にも、前向きに生きないといけないわね。でも、どうしても、息子を追い詰めた人に一言でいいから謝って欲しかったの…それも、難しそうだけれど」


「それは……いや、でも、きっと話せば…」


――ちりん。


 狛がそう呟いた時、どこからともなく、鈴の音が聞こえた。それは耳元で鳴っているような、それでいて離れた場所から聞こえる様な、不思議な音色だった。


「今のは……?あ、香耶さんっ!?」


 狛が一瞬気を取られた次の瞬間、目の前にいた香耶は音もなく倒れ込んだ。慌てて確認するが、彼女は既に息をしていない。人工呼吸と心臓マッサージをしながら大声で周囲の人達に助けを呼び、救急車を要請する。しかし、その数時間後、七郎の母――香耶は帰らぬ人となってしまったのだった。

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