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第270話 怨みの鈴音

 桔梗から伝えられた場所は、駅前に程近い、大きな高層ビルであった。ビルには看板が着いていて、大きな文字で『鍋縞商事』と書かれている。なるほど、桔梗の言っていた通り、鍋縞氏はかなり仕事の出来る人間のようだ。


 猫田とアスラを連れてビル内に入る時は少し緊張したが、特に何も文句は言われなかった。どうやら桔梗から話が通してあったらしい。流石である。なお、アスラの背中にはリュックに偽装したルルドゥが仰向けにくっついている。


「これ、結構恥ずかしい…かも」


 少し顔を赤くして、狛が呟いた。ある程度説明は行き渡っているのだろうが、ビルに入ってから視線をしっかり感じる。それはそうだろう。豪華なオフィスビルにそぐわない犬連れの女子高生とホスト風の男、事情を知らないものからすれば異様な集団だ。

 そんな思いがけない羞恥プレイの後、案内されたのは、最上階にある社長室であった。中には、ひげを蓄え頭の禿げた老人と、肌を真っ黒く焼いた強面の中年男性が座っていた。


「やあ、どうも!ようこそおいで下さいました。犬神家のお嬢さん、やっとお会い出来ましたな」


「あ、はい。犬神狛です、よろしくお願いします。こっちは助手の猫田です」


「…どうも」


 狛達が挨拶をすると、老人はにこやかに笑ってみせた。あまり人が悪そうには見えないが、底の知れない雰囲気ではある。桔梗が警戒していた理由も解らなくはない、そんな気がした。一方、その隣にいる中年の男は、いかにも鼻持ちならない様子で狛と猫田を品定めするような、何とも不躾な視線を向けている。特に狛に対しては、明らかに性的な意味合いを込めたものだ。不快感を覚えながらも、狛はそれを表に出さないように努めていた。


「儂は鍋縞直繁なべしまなおしげ、こっちは息子の光重です。よろしくお願いします」


「はい。それで、今日はどういった…?」


「ああ、そうでした。イヤ実は、ここにいるせがれの光重が妙な事ばかり言っておりましてねぇ。…こら、自分で説明せんか」


「あ?おう…なんつーか、鈴の音がね…聞こえるんですよ。ちりんちりんって、小さい音なんですけどね。それが酷く不気味で……これ、何とかならないですかねぇ?」


「えーっと……」


 何とかならないかと言われても、聞いた限りだとそれは医療の領分な気がする。とはいえ、流石に病院へは行かれましたか?とも言えず、狛は困惑しながら光重の霊視を始めた。


(うわぁ…この人、凄くたくさんの人から恨みを買ってるみたい。魂の影がいくつも見えるよ…でも、鈴か…そういうのは見えないかな)


 じっと見つめる狛の視線を勘違いしたのか、光重は満更でもなさそうに見つめ返している。その瞳には明らかに情欲の熱が宿っていて、何ともいやらしい目つきだ。狛は霊視に集中しているので気付いていないようだが、隣に座る猫田は敏感に感じ取り、隠しきれないほどの怒りを溢れさせていた。

 それをそっと制して、狛は静かに語り掛ける。


「失礼ですが……光重さんは、人から恨まれるような経験はありませんか?」


「は…?な、なんなんだ、お前!?失礼だろ!」


「すみません、でも、大事なことなので」


 唐突に指摘され、光重は怒鳴ってみせたが、狛は全く怯んでいない。正直なところ、これでもだいぶオブラートに包んだ言い方なのだ、見たままを伝えれば、光重は更に動揺するだろう。霊視で視ている光重の身体には夥しい程の人間の腕が絡みついていて、一つ一つから強い怨念が感じられる。恐らく、彼らは既に亡くなっているのだろう。光重が直接手を下したとは思わないが、彼が追い詰めて死に至らしめたのは間違いない。はっきり言ってこれだけ恨みを買っている人間を、狛は見た事がないほどだ。強いて言うならば、プレイボーイだった同級生の追手門くらいだが、彼の場合は女性からの執着が主であった。光重にまとわりついているのは男女問わずの怨念なので、性質が全く異なるのである。


 その時、一切気圧されることなく光重の目を見返す狛を、隣で黙って聞いていた直繫が笑顔で褒めたたえた。


「いやぁ、流石は阿形さんのお孫さんだ、大したものですなぁ。光重、お前の負けだ。今後は、あくどい遊びは控えるのだな」


「お、親父…!?」


「素晴らしい御慧眼ですが、倅の言う鈴の音というのは解りましたかな?」


「いえ…今の霊視では、そこまでは……」


 狛の霊視では、そこまでは見通せなかった。怨みの形には決まったものなど無く、まさに千差万別だ。これだけ膨大な恨みを買っているとなると、どれが原因かを特定するのは難しい。その狛の答えを聞いて、直繁はこれまでとは違うゾッとするような笑みを浮かべていた。


「そうでしたか…では、どうでしょう?何度か通って下さるというのは。もう少し時間をかけて視て頂ければ、きっとお解りになるかと」


「え?いや、それは……」


(ちっ…このジジイ、それが目的か?)


 腹の中で悪態を吐く猫田を余所に、狛は思わず返答に詰まってしまった。桔梗からは今日だけと聞いているし、そもそもこれ以上過度な接触は許さないだろう。だが、それを理由に断るのは桔梗と鍋縞老人との関係に水を差す事になるかもしれない。それは狛の望む所ではないし、桔梗も本意ではないはずだ。少し逡巡しゅんじゅんしてから、狛は意を決したように答えた。


「……解りました。では、しばらく通わせて頂きます」


「おい…!」


 止めようとする猫田を再び制して、狛は光重を見つめる。彼の身体にしがみついている怨念は相当な数だ。本人は気にも留めていないのだろうが、このまま放っておけばどういう結果になるかは考えるまでもない。例え光重がどんな悪人であろうとも、狛は黙って見過ごせるタイプではなかった。そんな狛の想いを知ってか知らずか、直繁はまたニヤリと笑って狙い通りの展開になったことを喜んでいるようだった。


――ちりん。


 その時、どこからともなく鈴の音がして、猫田は周りを見回した。しかし、どこにも鈴の音が鳴るようなものはない。隣に座っている狛を見ても、特に気にする様子もないようだ。猫田は訝しむ気持ちを抑えて、時が過ぎるのを待った。そして、話し合いを終えて、社長室を出て、一階へ向かうエレベータに乗ってからのことである。


「狛、さっきの話、なんで引き受けたんだ?言っちゃ悪いがあの若い方の男、相当なクズだぞ。人の恨みがびっちり張り付いてやがった…あれでまぁよく無事に生きてられるもんだぜ」


「ん、私も同感。よっぽど生命力が強くて、本人が気にしない性質なんだろうね。そもそも、あんまり私達の事も信用してないみたいだし…」


 狛の見立て通り、直繁はともかく、光重は霊や人の恨みつらみなどを一切信用していない人間であった。昨今の心霊現象が多発する事態も何らかのトリックや嘘だと考えているし、そんなものがあるはずないと思っている。仮にあったとしても、自分はそんなものには負けないという謎の自負があるようだ。それは幼い頃から、他人を抑えつけ不当に傷つけたり追い詰めてきた人間特有の歪んだ万能感である。彼にとって他人は踏みつけて当然のものであり、そうすることで多くの利益や快楽を得てきた。しかも、それで痛い目に遭った事が無いのだ。

 だからこそ、弱い人間の恨みなど全く気にせず、好きなように生きていられるのである。厄介なのは、好きなように生きている分余計な悩みなども無い為、生命力に溢れていることだ。この手のタイプは、本当に追い詰められる寸前まで行かないと、自分の罪に向き合う事はできないだろう。

 狛としては、彼を善人にしようと思っているわけではない。ただ、どこかで自身の行いを見直してくれないものかと考えている。自分がそのきっかけになれれば…という思いがあるようだった。


「じゃあ、尚更、何で引き受けたんだよ?」


「うーん、罪を認めて、償ってもらえればそれが一番なんだけど…何かね、あのお父さんの方…えっと、直繁さん?あの人、何か気になるんだよね」


「気になる?」


「うん、何て言えばいいのか解んないけど…何か隠してる気がする。どっちかって言うと、それが気になるかな」


「ふむ。まぁ胡散臭ぇジジイではあったけどよ。……ん?なんだ?」


 二人の会話が終わる頃にちょうどエレベータが一階に到着すると、受付の辺りで騒ぎが起きているようだった。初老と思しき高齢の女性が、必死の形相で受付にすがっている。


「お願いです!上司の方に会わせて下さい!せめてあの子の墓前で謝ってくれるだけでいいんです!」


「ですから、アポイントの無い方とはお会いできません。お引き取り下さい。」


「そんな!何度電話をしても取り次いでくれないじゃないですか!?お願いします!」


「何度言われても無理なものは無理なんです、お引き取り下さい。あまりしつこいと、どうなっても知りませんよ!」


 受付嬢は強く拒絶すると、片手を挙げて何かを呼ぶ素振りを見せた。すると、奥からガードマンと思しき男性が二人やってきて、高齢の女性を捕まえて無理矢理に外へ連れ出していく。それを目の当たりにした狛達は、慌てて女性達を追った。そして、玄関前で投げ捨てるように放り出され、倒れ込んだ女性の元へ駆け寄ってガードマンを睨みつける。


「お婆さん!……だ、大丈夫ですか!?なんて酷い事を…!」


「…ふん」


 二人のガードマン達は、狛の睨みに怯むことなくビルの中へ戻っていった。助け起こされた女性は、よろよろとふら付きながら立ち上がり、涙を流している。


「お嬢さんごめんなさい、ありがとうね。…もういいわ」


 そう言って、女性は狛の手を優しく振り払うと、ゆっくりとどこかへ歩いて行ってしまった。狛は追いかけたかったが、その背中からははっきりとした拒絶の色が浮かんでいて、とても追いかける気になれない。そんな女性を見送る二人の傍で、ちりんという鈴の音が鳴っていた事には、誰も気付いていないようだった。

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