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第268話 化け猫

「おい、竜造寺ぃ!テメェまた書類にミスがあるじゃねぇかぁっ!やる気あんのかこの野郎!小学生のガキだってこんなミスしねぇぞ!」


 強面の男が、竜造寺と呼ぶ若い男を怒鳴り飛ばしている。また始まったかと他の社員達は呆れたり、バカにしたような笑いを浮かべるだけで彼を助けようとする者はいなかった。


「そ、そんな…鍋縞なべしまさん。僕はちゃんと……」


「ああ!?じゃあ、俺が間違ってるってのか?ふざけんじゃねーぞコラ!ちょっとこっち来いオラ!」


「や、止めて下さい!勘弁して下さい、すみません!」


「うるせぇ、いいから来るんだよ!」


「や、嫌だ…誰か、助け……っ!」


 強面の男――鍋縞なべしまは、抵抗する竜造寺の襟首を掴んでオフィスの奥へ連れ込んでしまった。その後のオフィス内には、何かを殴る音と竜造寺の悲鳴が断続的に響いている。これが、この会社、鍋縞商事では見慣れたいつもの光景であった。


「う、っぐ、ゲェ…オエエエエエ!」


 竜造寺七郎りゅうぞうじななおは、鍋縞からの暴行を受けた後、必ずトイレで吐くのが日課となっている。言葉の暴力と殴る蹴るの暴行に加え、最近では性的な暴行まで追加されてしまった。華奢で若い竜造寺は、その名前とは裏腹にとても儚く美しい人物である。幼い頃から女性と間違われるほど線が細く、また病弱だった彼はこの会社に入社してからずっと、鍋縞による社内イジメの標的にされているのだった。


「もう、嫌だ……死にたい…なんで僕がこんな目に…」


 既に肉体は限界を迎え、この所の心霊現象が多発する事態によって精神すらも危うい状態である。この会社に入ってたった一年働いただけだが、もう彼には仕事を辞めようという考えさえ出来ないほどに憔悴し、心身ともに疲弊しきってしまっていた。竜造寺をイジメているのは、鍋縞光重なべしまみつしげという、社長の息子である。他人を傷つけることを厭わない、極めて冷酷で狡賢い性格と、持って生まれた強い身体で、鍋縞はやりたい放題に生きてきたらしい。

 もし社内イジメを理由に退職を願い出ても、何のかんの理由をつけて退職を認めないに違いない。何しろ鍋縞は社長の愛息子であり、今までに彼がやってきた悪事のほとんどを許容してきたのだ。竜造寺が入社してくる前までは、大人しい女子社員がターゲットにされており、彼女は散々暴行を受けた事で精神を壊して退職していったのだ。その際も、社長は息子光重の悪行を許して不問にし、金と脅迫で事件をもみ消していた。逆に、その時イジメを訴えた他の社員は例外なく首にされてしまったというから始末に負えない。誰も竜造寺を助けようとしないのも、そう言った事情を見聞きしているせいもあるのだろう。


 フラフラと覚束ない足取りで、自宅に向かう。竜造寺は毎日、痛む身体を引きずって家路に着くのだ。時間が決まって深夜なのは、無理矢理仕事を押し付けられて残業を余儀なくされているからである。朝の出勤も早く命令されているせいで、ろくに睡眠時間も取れていないどころか、食事すらままならない有り様だ。このままの生活が続けば、彼の命はそう長くないだろう。

 厄介な事に、こうした死相を感じさせる人間には、それを好む悪霊達が憑いて回るのだ。昨今の心霊現象が多発するこの国では、それは決して珍しいことではなくなっていた。


「身体が……重い……あぁ…」


 毎晩自宅に着く頃には、彼の両肩にその生気を狙う雑霊達がびっしりと圧し掛かっている。玄関の扉を開けて室内に入ると、そのまま倒れ込んでしまう所までがルーティーンだ。


「にゃあん」


 ちりん、と鈴を鳴らして、倒れ込んだ竜造寺の頭の先で飼い猫が一鳴きした。すると、雑霊達は蜘蛛の子を散らしたように消えていく。そうして、身体が軽くなった竜造寺は少しずつ動き出し、辛うじて着替えたり最低限の僅かな食事を摂った後、泥のように眠りにつくのだ。だが、この日だけは、何やら様子が違うようである。


「もう…終わりにしよう……これで、楽に…なれ、っ…!うう、ふっぐ、うう、うぅぅ!」


 そう呟いて、竜造寺は涙を堪えつつ鞄から一枚の封筒とスマホを取り出し、テーブルの上に置いた。そしてネクタイを首に直接巻くと、その先をドアのノブに巻きつけて首を括ったのだ。確実に死のうと考えたのか、包丁で手首を深く切った上で……その様子を、飼い猫がじっと見つめている。全身グレーの美しい毛並みを持ったその猫は、飼い主である竜造寺が事切れるまでただひたすらに見つめ続け、やがて彼の呼吸が完全に止まると、鈴のようによく通る声で長く鳴いた。その夜、隣室の住人はぴちゃぴちゃと何かを舐める音を聞いたという。






「――だからよ、いいかお前ら。くれぐれも危ねー場所に近づくんじゃねぇぞ。解ったか?」


 深夜、広めの空き地の中心で人型になった猫田が誰かに話しかけている。夜中なのでそんなに大声でなくとも十分聞こえる声量だ。そんな彼の周りにいるのは、中津洲市内を根城にする野良猫や飼い猫達の集団であった。近々駐車場になる予定の空き地なのでそこそこの広さがあるのだが、猫達の数はそこを埋め尽くす勢いだった。


 京介から維美統市いみすまるでの騒動を聞いて、かれこれ一週間ほど経つ。京介の予想した通り、かなり厳重な報道規制がかかっているようで、小さいながらも一つの街が潰れたというのに、世間では大きな話題になっていない。ただ、狛や猫田の元にも幻場まほろばから連絡は入っていて、近く自衛隊の内部で大きな動きがあるようだ。

 人造の神などという常識の埒外な代物が出て来て数万人という犠牲者が出たとあっては、政府としても心霊現象に無関心でいる訳にはいかないのだろう。とはいえ、一般の警察や通常装備の自衛隊では、妖怪を始めとした魑魅魍魎とまともに戦う事は出来ない。経を唱える寺の僧侶が対抗できるのは精々雑霊程度で、昔と違って僧兵という存在もいないので、妖怪相手に物理的に立ち回るのも不可能だ。そうなってくると、結局は退魔士などの特別な人材に頼るしかないのだが、当然ながらこれまで普通の職業としては認められていなかっただけに彼らも数はそう多くない。そもそも退魔士の育成には霊的な才能に頼らざるを得ない所がある為に、量を確保するのは難しいのだ。だからこそ、幻場まほろばは自衛隊に新装備を用意しようと考えたのである。

 しかし、その計画も槐の配下、緋猩の襲撃によって頓挫してしまった。こうなると多少怪しくても、国は民間の人材に頼らざるを得ないだろう。全てが槐達の目論見通りに動いている気がして、何とも面白くない。改めて、国は今後、一体どういう手を打とうとしているのか、気になる所だった。


「うんうん、飼い主が居る奴は飼い主が危ねー所へ行きそうになったら止めろ。ちょっとくらい引っ搔いたり噛みついても構やしねぇ。じゃなきゃ、程々にいたずらするんでもいいぞ。あくまで程々にな」


 中津洲市内に住む猫達のボスである猫田は、たまに猫達を集めて深夜の会合をしている。昼にやってもいいのだが、昼だと飼い主の手前、飼い猫は外に出られなかったりするし、一か所で大量に集まると人目につくので夜の方が無難なのだ。それでもこれだけの数の猫が集まっていると、鳴き声だけでもかなりの音量である。どうしても外に出られない飼い猫もいるので、完璧に全ての猫が集まっているわけでもないのだが。


 今回の議題は、心霊現象の多発に伴う、注意喚起であった。動物達は霊や妖怪の存在を敏感に感じ取る事が出来るが、さほど対抗する手段があるわけでもない。妖怪達の中には、獣を喰らうタイプも存在するので、ボスとして直々に猫達へ警戒を呼び掛けているのである。自分達の身は自分達で守る…そんな基本を徹底しなければならないほど状況の変化が早いということだろう。


 そんな集会も終わりに近づく頃、ちりん、と綺麗な音を鳴らして空き地の外を歩いているグレーの猫がいた。猫田はまだ遅れて来た者がいたのかとそちらを向いて声をかける。


「おう、お前もこっちに来いよ。これからどういう所に近づいちゃいけねーのか教えてやるからよ」


 しかし、グレーの猫はそんなものには興味がないとばかりに、身を翻して夜の闇に消えていった。あまり見覚えのない猫である。ボスとして、一通りの仲間の事は覚えているはずだが、今の猫に関しては、猫田の記憶になかった。街の外から流れてきたのだろうか?それにしては首輪に鈴が付いていたし、毛並みもずいぶんと綺麗だった。野良生活ではああはならないだろう。


「…おい、今の奴、誰か知ってるか?」


 猫達に聞いてみるが、皆知らないと鳴くばかりだ。猫は犬と違って個人主義になる傾向が強く、余り強固な横のつながりも持たないし、情報交換も密ではない。知らない猫がいるのは当然だが、それにしてもこれだけの猫が集まって誰も知らないと言うのは奇妙ではある。


(気のせいか?何となく妖怪っぽい匂いがしたような……まさかな)


 そんな風に、少し気になった猫田も、猫達から早く話の続きをと催促されてそれ以上詮索する気にはならなかった。その猫の事を思い出したのは、数日後、狛の元に依頼者が現れてからである。

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