その鬼は、筋骨隆々とした身体の割に頭部には骨しかないという奇怪な姿をしていた。赤レンガのような色味の肌で上半身のみが子妖怪の影から浮き出していて、それだけで5メートル近い大きさだ。眼窩の部分には目玉がないが、少し小さな怪しい光が目の代わりに浮かんでいる。また、その鬼から放たれる妖気は霧状になって、鬼の身体に纏わりついていた。
「コイツ、一体何者なんだ?……はっ!?」
その鬼の威容に思わず見入ってしまった猫田だったが、直後に飛び込んできた一撃によってその油断は掻き消えた。本能的に飛び避けなければ、まともにその大きな拳を喰らっていただろう。猫田が跳んで避けた後には、拳以上の大きさのクレーターが出来てしまっている。打ち下ろされた拳はその見た目以上に、とんでもない威力である。
しかも、それは巨体に見合わぬ速さにより、連続で襲い掛かってきていた。その全てを回避している猫田は流石だが、地面はどんどんと穴だらけになっていて、猫田はそれを横目で確認して冷や汗を垂らしている。
「ヤベーぞ、このままじゃ庭が穴だらけになっちまう…!ここにまた家を建てるって言ってたのに、こんなになっちゃあ狛に泣かれちまうぜ。仕方ねぇ…!」
猫田は何度目だか解らない攻撃を回避した後、両手を顔の前で叩いてみせた。パンッ!という乾いた音が響いた刹那、猫田を中心として、犬神家の本家跡地をすっぽりと覆い尽くす範囲が異界に変わる。以前、猫田が作った異界は草原だったが、今回は少し趣の違う野原である。これもまた、猫田の心を表しているようだ。
「ガキだからって手加減はしてやらねーぞ。まぁそんな鬼が憑いてんだし、気遣う必要もねぇよな!」
猫田は大型の猫の姿に戻り、風を纏って突撃する。子妖怪は泣き止んでいて今は意識を失っているようだが、彼を守護する鬼はそんな事などお構いなしに、猫田を迎え撃とうとしていた。鬼は拳を握り、猛スピードで迫る猫田の顔面に岩石のような攻撃を繰り出す。タイミングはピッタリで、普通ならば回避など出来ず、カウンター気味に痛烈なダメージを受けただろう。しかし。
「遅ぇーんだよっ!」
猫田はそれを見切って、直前で大きくジャンプしてその攻撃を躱してみせた。そして、そのまま飛び降りるようにして、右前足の爪を引き立てる。だが、鬼も大したもので、その動きに何とか食らいついて、左腕で猫田の爪を受けた。バリバリと轟音を立てて猫田の爪が鬼の左腕を引き裂くと、鬼は身の毛もよだつ悲鳴を上げた。
「ギャアアアアアアッ!!」
「ちっ、防ぎやがったか!」
本来であればその身体を直接寸断してやるつもりだったのだが、腕で防がれた分、傷は浅い。無事な右腕での反撃を予想して、猫田は素早く鬼から距離を取った。と同時に、それまで猫田がいた場所へ闇雲に拳が振るわれる。間一髪だが、今のところは猫田に有利な攻防と言えた。
「グウウウウウッ…」
「おーおー、やっぱり回復しやがるか。そのガキから妖力を供給されてりゃそうなるよな。だが、それもいつまでもは続かねぇだろうよ」
鬼の肘から先の引き裂かれた腕が塵のように掻き消えると、再び腕が生えてきている。鬼の身体は一応実体ではあるようだが、半ば妖力で構成された仮初の肉体のようだ。魔界に棲息する肉体を持たない悪魔などが現世に降臨する際、己の魔力を使って肉体を構成した『魔体』というものがあると、猫田は聞いた事があった。恐らく、それと似たようなものだろう。
そして、この鬼は確かに強敵ではあるが、猫田からすれば決して負ける様な相手ではない。ここまでに見た動きの未熟さからして、戦闘経験が圧倒的に不足しているようだ。ただ大振りで拳を振るうだけの鬼などに、後れを取る事など無いだろう。
(つっても、このまま再生されまくるのも面倒だ…首を狙って一発で仕留めてやるか。いくら鬼でも、頭を潰されて生きていられるわけがねぇからな!)
作戦を決めた猫田は、距離を取ったまま鬼と子妖怪を中心として素早く右回りに走り始めた。猫田の狙い通り、鬼はその動きに翻弄されて猫田の動きを追いかけてばかりである。それを見た猫田は自らの狙いが上手くハマりつつあることを確信した。気付かれない程度に緩急をつけて、タイミングを計れなくすることも忘れない。完全に鬼の動きから余裕が消えた瞬間を見計らって、猫田は斜め右の背後から一気に距離を詰めて飛び掛かった。
「もらった!」
鬼はその動きに全くついていけておらず、不意を突かれた形だ。次の瞬間には猫田の爪が鬼の後頭部から食い込んで、頭部全体を四つに切り裂いていた。
「へっ!これで終わ……っぐぁ!?」
しかし、猫田の予想を裏切って鬼は動きを止めていなかった。その頭を破壊した事で勝利を確信し、油断していた猫田の身体に鬼の強烈な左拳が突き刺さったのである。猫田の身体には霊気をたっぷり含んだ分厚い毛皮があって、打撃でも斬撃でも、そう簡単にダメージを通す事はない。だが、鬼の拳はそんなガードを易々と打ち砕いて、猫田の身体に大きなダメージを喰らわせたのだ。会心の一撃が決まった後の油断と、逆に不意を突かれる形となった反撃により、猫田は思っていた以上のダメージを受けている。
何よりも不運だったのは、鬼の一撃を受けた場所が猫田にとっての弱点と言っていいポイントだったことだろう。
かつて、猫田がまだ妖怪となる前、飼い主一家を野盗に襲われ、皆殺しにされた過去がある。その際、猫田も飼い主を助けようと抵抗し、野盗によって瀕死の重傷を負わされている。それは猫田が化け猫として生まれ変わった要因の一つなのだが、多くの妖怪変化にとってそれらの傷は、己を構成する因果の一つである。それ故に重要な意味合いを持つことがあるのだ。大怨霊平将門の
不運にもそこは猫田が生身の猫だった時に受けた、最後にして最大の致命傷であった。野盗に蹴り飛ばされ、壁に激突して動けなくなっていた猫田の右脇腹を、野盗が執拗に踏みつけた場所なのである。そこへの強力な打撃は、猫田に対して凄まじい効果を発揮した。全身が痺れるような痛みに塗れて呼吸すらままならず、意識を失いそうになる。それでもなんとかその場を離れようとしたが、猫田の後ろ足を何かが引っ張っていた。
「な…!?なんだ…っ?」
猫田が振り向いてみると、鬼の身体を薄く覆っていた霧状の妖気が集まり、手の形になって猫田の足を掴んでいた。幸い、頭を失った事で鬼本体は猫田を見失い、追撃こそ来ていないがすぐに状況を察知して攻撃してくるだろう。猫田が思っていたよりもずっと、この鬼は強敵だったのだ。
「っの、野郎…!」
猫田はすぐさま尻尾から
「くそ…殺すつもりはなかったが、やむを得ねぇ…!?」
そう、手加減はしないと言っていたが、それでも猫田には子妖怪を殺すつもりはなかった。彼を守護している鬼さえ倒してしまえば流石に逃げていくだろうと思っていたので、本体である子妖怪を狙う事はしていなかったのである。しかし、このままでは間違いなく鬼の猛攻をまともに受けることなる。いくら猫田でも、これ以上の攻撃を受けるのは厳しい。
猫田は覚悟を決めて、魂炎玉から猛烈な吹雪を生み出した。
「グァッ!?ウガアアアアッ!!」
炎ではなく吹雪を使ったのは、狙いが正確でなくても問題ないからである。また、炎と違って即死させることもない。この状況ではうってつけの攻撃と言えるだろう。握り込んでいた尻尾の先から突如として氷を伴う嵐が巻き起こり、鬼はたまらずその手を離した。本体である子妖怪は意識がないようだが、氷嵐に巻き込まれたせいであちこちが凍傷にかかり、氷で傷ができている。
「よしっ!」
その機に乗じて猫田は鬼達から離れ、再び向かい合って対峙した。どうやら、あの鬼はどれだけ攻撃しても倒しきるのは不可能のようだ。ならば、子妖怪を攻撃する他手段がない。猫田は妖怪同士の戦いにいつの間にか甘さを持ち込んでいた自分を恥じた。そして拍動する激痛と共に、かつての化け猫となった記憶が蘇り、それによって心を凍らせるように研ぎ澄ましていく。
「……殺すぞ」
ゾッとするほど冷たい声で猫田が呟く。あまりの殺気に目の前の鬼でさえ、たじろいでいる……それが合図だった。猫田は瞬時に間合いを詰めて、その爪で鬼ではなく、子妖怪の方を貫こうと突き立てた、はずだった。
「そこまでだ、猫又よ」
その爪を防いだのは、
「
「お主の言い分もあろうが、ここは退いてくれ。孫娘には、儂からきつく言い含めておく。…すまんな」
他ならぬ