くりぃちゃぁのスタッフルーム、その奥に普段は倉庫として使われている小さな部屋があった。倉庫と言っても、ギッチリ荷物が詰め込まれていたわけではあない。ほとんどが予備の食器や、トイレットペーパーなどの備品であり、嵩張る物は多くなかった。それらを廊下へ運び出し、準備を進めている。
玖歌は緊張した面持ちだが、考えているのは身の危険よりも予てから探していた友人を見つけられるかもしれないという、希望への緊張だった。
「言われてたものは大体揃ったよ、運良く学校用の机と椅子もあったし……玖歌ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫よ。それよりごめんね、狛。面倒な事頼んじゃって」
「私は平気だよ、ミカちゃんを探すの協力するって約束したもんね」
狛と玖歌は互いに心配しあったのがおかしくて、軽く笑い合った。これから、天願様を呼び出す儀式を始めようというのだ。無事で済むかどうかは、わからない。
こっくりさんなどで子どもが呼び出すものに、さほど危険はないと言ったが、それは術者が子どもであるからだ。仮に霊的な才能に優れた大人が行えば、危険度はグンと上がるだろう。仮にこっくりさんで何かが呼び出されたとしても、多くの場合は狐やその他の動物霊か、その辺をうろついている浮遊霊などの雑霊が関の山だ。そういう意味では、天願様の異常性はそこにある。
何せ天願様は、正体不明の何かを呼び出す儀式ではない。
「……よし、準備はいいわね。それじゃ、狛。悪いけど、そこの端っこに立っていて」
玖歌はそう言うと、椅子に座り、机に置かれた紙の上で水晶のペンを握って呪文を唱え始めた。
「天願様、天願様、おいで下さい…どうか私達に、大いなる知恵をお貸し下さい。天願様、天願様、どうか…」
玖歌の呟きは室内に響き、狛は警戒を絶やさずにそれを見守っていた。いい加減な儀式とは違い、これは間違いなく正式な召喚だ。その肌に感じられるプレッシャーが、狛にこれから何かが起こる事を教えている。
天願様を呼び出すには、必ず用意しなければならないものがあるらしい。それは学校で使う机と椅子、五十音が書かれた紙、そして水晶で出来た何かである。水晶製であれば品物は何でもいいらしいのだが、子どもが用意するのは少々難易度の高いそのアイテムが天願様の拡散を抑えつつも、本当に何かが起こりそうな真実味を与えているようであった。
この倉庫に置いてあった学校用の机と椅子は、数十年前に使っていた生徒がいじめを苦にして自殺し、その血で汚れてしまったという曰くつきのものだ。血汚れは綺麗に拭き取られていて、見た目には何の問題もないのだが、何故か使っていると机から声がするとの怪現象が後を絶たず廃棄される寸前であったという。念の入り込み具合から付喪神になる素養が見受けられたので、土敷が買い付けて保管していたものである。
唱えられた呪文の後、しばらくすると、にわかに玖歌が握る水晶のペンから微かな光が放たれ始めた。いよいよ天願様が呼び出されるのだろうか?玖歌のごくりと息を呑む音が、狛の耳にも聞こえている。
玖歌が天願様を呼び出すと言った時、狛達は表立って反論は出来なかったが、どうにも嫌な予感は消えてくれなかった。玖歌は、天願様の逸話が変化するスピードが速すぎる為、一番最初に持っていた逸話である『どんな質問にも答えてくれる』という性質は消えていないはずだと主張したがそこには問題がある。現在、天願様は呼び出した者をどこかへ連れ去ってしまうという逸話があるからだ。しかし、危険を問う狛達の質問に玖歌は自信をもって答えた。
「確かに、天願様は質問者をどこかへ連れ去ってしまうと言うわ。でも、
そう言われては、反論は難しい。玖歌の言う通り、連れ去られた人間がどうなるかまでは、逸話の中には伝えられていない。それは単に逸話を改変して広めた者が、連れ去られてしまった後の事を想定していなかっただけのようにも思えるが、そうであるならば確かに生き延びるチャンスは十分にあるだろう。
その上で玖歌が問題としているのは、連れ去られた後、天願様とコンタクトを取れるかどうかである。連れ去られた後、もしも、天願様と話をする機会があればいいが、その後にどうなるかはハッキリ言って解らない。最悪、どこかの異空間に飛ばされて、天願様と接触できない可能性もあるのだ。玖歌が狛に協力を要請したのは、その場に立ち会うことで、もしも玖歌が居なくなった後に天願様が残った場合、ミカの居場所を聞いてもらう為であったのだ。
「そろそろ…来るわね……」
玖歌の手にした水晶のペンは、眩しい程の光を放つようになっている。光の量に合わせて、そこから感じられる存在がどんどん明確になっていくようだ。部屋の隅でそれを見ている狛も、その圧力に思わず身構えてしまっていた。それは間違いなく大物の怪異の気配で、かなり強力な妖気が光と共に溢れている。やがてその光はプリズムのように複雑な、いくつもの輝きに変化していった次の瞬間、室内は一際大きな閃光に包まれた。そして光が落ち着いた時、ガタンと椅子が倒れる音がした。
「おい、どうした二人共、何の音だ…?開けるぞ」
異変に気付いた神奈がドアを開けると、そこには倒れた机と椅子があるだけで、玖歌と狛の姿は何処にも見当たらなくなっていた。
「……え?!」
玖歌が目を開けると、そこは見渡す限りの草原であった。こんな場所には見た事はもちろん、行った事もない。どうやら、成す術もなく連れて来られてしまったようだ。
「……やるじゃない。全く抵抗出来ないどころか、感知することすら出来ないなんてね」
玖歌は少しだけ苛立たしさを露わにして、後頭部を搔いている。油断をしたつもりはない、確実に天願様が来た事を理解していた上で出来る限りの警戒もしていた。それでもこの様である。想定していた事とは言え、少々…いや、かなり癪なのは否めなかった。
それにしてもここはどこなのだろう?ぐるっと周囲を見渡してみても、辺りは何処までも続く青々とした草原だ。太陽は見えないが、空は青空でとても明るい。どうやら昼であるのは間違いなさそうだった。
「それにしても、あの一瞬で?……ああ、そうか、ここまでが天願様の逸話なのね。どれだけ抵抗しようと無駄だったってことか」
玖歌が気付いた通り、天願様の逸話は呼び出した者が連れ去られるまでが確定しているものである。つまりこの結果は、天願様を呼び出した時点で確定しているのだ。もしこれが仮に、天願様を呼び出した者が死ぬという逸話だったら…当然、抗う事も出来ずに命を奪われる事になるだろう。そうなれば、逸話はこれ以上広がる事もなくなるだろうが、やはり凶悪なものになるのは避けねばならない事態である。
玖歌はしばらく考えて、やがて少しずつ歩き出していった。ここがどこなのかはともかく、ここに居ても天願様と接触する事はできなさそうだし、一刻も早く、くりぃちゃぁに帰らなければならない。
「狛はうまく天願様に接触出来たかしら……?まぁ、店に戻れば解るわよね」
玖歌は逸る気持ちを抑えて、あてもなく草原を歩く。どこを向いても同じ景色なので、方向感覚が狂いそうだが、とにかく動いてみなければ始まらない。移動する事が無駄なのか、或いはどこかにヒントがあるのか?今はまず動いて情報を得るのが先決である。
しばらく歩いていると、どうもどこかから誰かが、玖歌の動きを見ているような気がする。すぐに気付けなかったのは、その視線がどこから向けられているのか解らなかったからだ。まるで、全方向から見られているような、奇妙な不快感があった。
「何なのかしらね…嫌な感じがするわ。闇雲に動くのは危険かも……」
そうして立ち止まった瞬間、玖歌の頭上に影が現れた。それは空を覆い尽くさんばかりの大きさで、たちまち周囲は闇に包まれてしまう。咄嗟に空を見上げてみれば、その影の正体はすぐに解った。
「う、ウソ!天願、様?そっか、本当は……!」
影の中心で何かが動いていた。玖歌が気付いた天願様の正体、それは天を覆うほど巨大な瞳である。……即ち、