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第253話 現実への浸食

 狛が恋音れのから話を聞いたのは、翌日の昼休みの事である。相変わらずパンの山に埋もれている狛の昼食風景だが、五月の半ばに差し掛かってくると新入生も慣れたもので特にざわつきも起こらなくなった。ただ、最近の心霊現象多発に関連したせいか、学園七不思議の新たな一つ『泣きながらパンを食べる女子生徒の霊』という噂が生まれかけていたのだが、狛はそれを知る由もない。

 ちなみに狛がパンを食べながら泣いていたのは、玖歌が学校を辞めると聞いたせいだ。わんわんと大泣きしつつ、ひたすらにパンを食べる姿は、騒動の事がなくても妖怪に視えたかもしれない。


「え!?また夢を見たの?」


 流れるようにパンを口に放り込み、咀嚼して飲み込みながらも、狛の言葉は一切淀みなく聞こえている。実は狛の食事量は、今年に入ってから増加の一途を辿っており、昨年に比べると1.5倍ほどのパンを食べている。少しだけ背は伸びているが、他には特に体重も出っ込み引っ込みも変わっておらず、まるで手品のようだと一部から羨望の眼差しと、同時に嫉妬の視線を受けているのだが狛はやはり気付いていないようだ。


「は、はい。でも、狛先輩から貰ったお守りが効いたみたいで…本当に助かりました。ありがとうございます」


「ううん、どういたしまして。でも、どんな夢だったのか詳しく聞いてもいい?」


 まだ終わっていないかもしれない、と言いかけたが、怖がらせる必要もないので、あえてそこは言わないでおく。一緒に食事をしている神奈とメイリーもそこは気になるようで、昼食を食べながら静かに頷いていた。かたや恋音は狛がどうやって喋っているのか解らなくて少々困惑気味なのだが、詳しくと言われては黙っている事も出来ず、ゆっくりと口を開いた。


「はい……その、昨夜は闇の中で声の主に追われていて、必死に逃げたんですけど最後に追い付かれてしまってしまったんです。そうしたら、『捕まえた』って言われて…もうダメって思った所で、狛先輩のお守りが熱くなって、猫の鳴き声がして…それで飛び起きました。その後寝直せたんですけど、もう怖い夢は見ませんでした」


「……そっか、よかったね。もしまた何かあったらいつでも言ってくれていいからね?」


「はい、あ、ありがとうございます。それじゃあ、失礼します」


 そう言って、恋音は立ち上がると深々とお辞儀をして、食堂から去っていった。去り際に少し恥ずかしそうにしていたのは、時を追うごとに狛の食べっぷりが注目を浴びて、一緒にいると視線を受けるからである。そんな彼女の背中を眺めつつ、狛は静かにパンを食べ進めていた。


「狛のお守りはやっぱりすごいな。でも、どうかしたのか?気になってるみたいだが…」


「うーん、神奈ちゃんは感じなかった?恋音ちゃん、やっぱり何かに憑りつかれてるんだと思う。前は解んなかったけど、今日は何ていうか……残り香みたいなのがあったんだよね」


「えー?でも、お守りのオカゲで無事だったんでしょー?ダイジョウブなんじゃない?」


 メイリーには霊感が全くないので、狛や神奈のように何かを察する事ができない。その為、恋音の話を聞いて、もう問題はないと思い込んでいるようだ。しかし、狛が今の恋音から感じたものは、どこか胸騒ぎを覚えるような奇妙な感覚であった。その正体は解らないものの、まだ何も事態は解決していないのだと狛は密かに感じている。その感覚が正しかったと知ったのは、数日後のことであった。



 食堂で恋音に報告を受けた日からしばらく経った日、教室に入って席に着いた狛の元に、メイリーが駆け寄ってきた。息を切らせ、汗で髪が額に張り付いてしまっている。一体何があったのかと狛は驚くばかりである。


「こ、コマチ!大変だよ、恋音ちゃんがっ!」


「え?ど、どうしたの!?」


「いいからちょっと来て!お願い!」


 凄い剣幕で引っ張られて、狛は何がなんだか解らないままに教室から連れ出された。クラスメイト達は驚いた様子だったが狛を連れて行ったのがメイリーだったので、それ以上深く考えるのを止めたようだ。

 そうしてグイグイと引っ張られて連れて来られたのは、校舎裏の木陰になっているスペースである。そこに恋音が体育座りで蹲っていた。近寄ってみると、小さく鼻をすする音が聞こえている。どうやら泣いているらしい。狛はメイリーから手を放して恋音に駆け寄った。


「恋音ちゃん!大丈夫!?」


「あ……狛、先輩…どうして……?わた、し、怖く…て…!」


「大丈夫、大丈夫だよ!私がついてるからね。何があったのか、教えてくれる?」


 涙を流して嗚咽する恋音の肩を抱いて、狛は優しく背中を撫でてやった。その内に少し落ち着いてきたのか、恋音は大人しくなり時折言葉を詰まらせながらも話してくれる気になったようだ。


「わ、私…もう大丈夫だ、と思ってたのに……昨夜、またあの、夢を見て……せ、先輩のお守りが助けてくれたん…すけど、起きたら手、手が……」


「…手?ごめんね、少し見せてね」


 何かを察した狛は、恋音の左手を優しく掴み、袖をめくった。すると彼女の腕にはくっきりと何者かに握られた痕が残っていた。それは黒く変色していて痛々しく、無惨なものだ。狛は目を見開いて驚き、息を呑んだ。


「ごめん、少し触るね。痛かったら教えて?」


 狛がそう言うと、恋音は黙ったまま頷いてみせた。どうやら、自分に起きている事を直視したくないらしい。無理もないと感じた狛は、本当にそっと、注意を払って優しくその痕に触れてみた。

 ピクンと恋音が身体を動かしたが、特に痛みがあるわけではないようで黙ってされるがままになっている。そこから感じられたものは、霊気や妖気とも違う、独特の感覚がした。狛の頬に一筋、汗が流れ落ちる。これは、予想以上に厄介な事態かもしれない、そう思った狛は恋音を刺激しないように優しく声をかけた。


「これは、怖かったね……大丈夫、私がなんとかしてあげるから。前も言ったけど、私の知り合いにこういう事に詳しい人がいるんだ。だから、きっと大丈夫だよ」


 再び背中を摩りながら言った狛の言葉で、恋音はようやく泣き止み、笑顔をみせてくれた。泣き腫らした目は真っ赤に充血していて、とてもそのまま授業に出られる様子ではない。狛は恋音を立ち上がらせて、身体についた土などを払うとそのまま保健室に連れて行くことにした。



 結局、恋音はしばらく保健室で休んだ後、家族が迎えに来て早退する事になったらしい。何かショックな事があったようだとは伝えたが、その原因までは伝えられていない。世間が心霊現象に対して大きくその考えを変えつつあると言っても、まだ受け入れがたい人間も大勢いるのだ。それは特に大人達に顕著であり、恋音の親や教師達にそれを伝えても解ってもらうのは難しいだろう。ましてや、あの痕は普通の人間には見えていないようだから尚更だ。


 狛は恋音が帰った後、神奈とメイリーに後の事を頼んで自分も早退する事にした。狛の目から見ても、恋音に関しては一刻の猶予もない。渡したお守りは一応効果を発揮しているようで、あれが無ければ彼女はもっと酷い事になっていただろう。そして、放っておけば近い内に、お守りも役に立たなくなるのは明白であった。


 狛は学校を出ると、すぐに帰宅せずくりぃちゃぁへ向かう事にした。京介と連絡が取れれば一番いいのだが、京介は厄介な仕事を抱えているようで、この所中々連絡がつかない状態だ。であれば、頼りになるのはショウコしかいない。


「こんにちは!ショウコさんいる!?」


 くりぃちゃぁに着くや否や、狛は大声で挨拶をしてショウコを探した。すると、奥から驚いた様子の猫田が出てきて、狛に答えた。


「狛…?お前、学び舎はどうしたんだ?ショウコの奴なら今日は来てねーぞ。呼べば来るだろうけど、どうかしたのか?」


「そっか、今日は来てないんだ…ごめん、猫田さん。急いでるからすぐにショウコさんを呼んで貰っていい?」


「そりゃ構わねーが、事情を話せよ。何があったんだ?」


「この間話した恋音ちゃんが、また夢の続きを見たみたいなの。今度は腕に捕まれた痕が残ってて……もう私のお守りじゃ防ぎきれないから、アドバイスが欲しいの!」


 狛がそう言うと、猫田は顔をしかめて、店の奥に入って行った。恐らく、土敷に話を通すつもりだろう。しばらくして猫田と一緒に土敷がコーヒーを持って出てきたので、軽く挨拶を交わして空いているテーブル席に着く。ハマが淹れてくれたコーヒーは香りも素晴らしく、一口飲んだだけで心が落ち着くようだ。


「ショウコならもうすぐ来ると思うよ。でも、一体どうしてショウコなんだい?」


「あの子に憑りついたのがなんだか、今日ようやくわかったんだ。てっきり悪霊か妖怪だと思ってたんだけど…」


「どっちも違うのか?んじゃあ、後は一体何がいるんだよ」


 猫田が訝し気にそう言うと、狛は少し躊躇いがちに口を開いた。あまり口にしたくない相手だというのは解ったが、狛がここまで焦るのは珍しい。やや時間をあけてゆっくりと語った狛の言葉に、二人は声を失うのだった。


「恋音ちゃんに憑いていたのは、たぶん、神様だと思う……」と。

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