目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第252話 夢の出来事

「…あー、疲れたぁ。学校終わりで10件立て続けに仕事はキツイよ……お腹空いた…」


 狛はそう言うと、フラフラと歩いてソファに倒れ込んだ。なんとか着替えを済ませているだけ、まだ少し余裕がありそうだが、狛の腹の虫は凄まじい勢いで絶叫している。早く何とかしなければ、目についたものを片っ端から食らってしまう鬼のようになってしまうだろう。猫田が狛にくりぃちゃぁから持ち帰ってきた食事を出してやると、狛は物凄い勢いでそれをかき込んでいった。


「それで?そのコーハイって奴はどうなったんだ?」


 猫田が言っているのは恋音れのの事だ。帰り際に聞いた話が中途半端だったので、気になっていたらしい。狛は箸の動きを遅らせながら、顔をしかめている。


「それが、よく解んなかったんだよねぇ……一応、霊視してみても悪いモノが憑いてるようには見えなかったんだけど…念のためにお守りを渡して、何かあったら必ず連絡してね、って伝えておいたよ。…あーあ、私がもっと上手に霊視出来ればなぁ。っていうかお兄ちゃんやハル爺が居てくれれば……」


 そう呟くと、狛は食べる手を止めて俯いてしまった。相変わらず、拍は人狼の里で匿われて、意識不明の昏睡状態のままだ。あの時、ただ霊力を大量に失ったわけではなく、雷獣の放った超特大の稲妻と、引火して誘爆した火災から他の家族を守る為に一部ダメージの移譲までも行っていたらしい。身体の怪我はこの数か月で完全に治療を終えているが、今もって意識が戻らないのはその反動によるものというのが、医者である長老の一人、こんの見立てであった。


 霊視を最も得意とした拍であれば、あの短い時間であっても狛が見た以上の事が解ったに違いない。元々、狛は霊媒としての素質の方が勝っていて、霊視はあまり得意ではないのである。そして、槐の手にかかって亡くなったハル爺は、そんな拍に次ぐ霊視の使い手であった。そのどちらかが無事であったなら、槐達の目論見を未然に察知して防ぐこともできただろう。その意味で、槐が正月、まず真っ先に犬神家へ反旗を翻したのは悔しいが彼らにとっては最善手だったと言わざるを得ない。


「……まぁ、あんまり落ち込むな。ハル爺だって、お前が泣くことなんか望んでねぇだろ」


「うん……」


 最近では、猫田もすっかり人間の慰め方が板についてきたようだ。もっとも、それは狛に対してだけであって、他の人間にはまだうまく気を遣えないようなのだが。もしかすると猫田自身、氷雨の事もあって、改めて身近な存在を失うことへの理解が増したということもあるのかもしれない。


「しっかし、夢の中で…ねぇ。夢っつーとやっぱり、枕返しか?」


 猫田がまず思い浮かんだのは、夢に関する妖怪の名であった。そもそも枕返しとは、人が寝ている間に枕の表裏を引っくり返したり、寝ている人間の足と頭の位置を逆さにしてしまうという悪戯をする小鬼の一種だが、一方で魂を抜き取ってしまうような危険な行為をするケースがある。これは人が夢を見ている間、その魂が身体から抜け出て夢の世界へ旅立っているという伝承から生まれた逸話によるものだ。

 そんな逸話があるせいか、枕返しは眠っている人間の魂をある程度操る能力があるらしい。とはいえ、基本的には悪戯をするだけで、人にそこまでの害を与える様な事はしない、比較的大人しい妖怪である。

 ただ、狛から聞いた話からすると、どうも枕返しが悪戯をしているとは考えにくい内容であった。猫田の知る限り、彼らは人間の夢の中身にまで手出しをすることは少ない。枕を引っくり返す事の意味は猫田にも不明だが、少なくとも夢見を悪くさせて人を苦しめるような遊びをする妖怪ではなかったはずだ。


 また、悪夢と言えばそれを食べる獏という妖怪もいる。厳密に言うと獏は妖怪ではなく霊獣であり、神の眷属に近い存在だし、そもそも悪夢を食べるのが獏で、人に悪夢を見せる様なことはしない。どちらも思い当たる部分からは外れているので、猫田はしっくり来ていないようだった。


「俺も土敷に聞いてみるか。なんだかんだアイツなら、俺の知らない妖怪の事も知ってるからなぁ」


「あ、土敷さんと言えば、くりぃちゃぁの方はどう?」


 狛はそちらも気になっていたと言いたそうに、くりぃちゃぁの様子を聞いていた。日本全土で心霊現象が当たり前になってしまった事から、人の世に隠れて生活する妖怪達にも変化の波が押し寄せている。特に人間のフリをして生活している妖怪達は、いつ自分達の正体が人間にバレてしまうか、心配でたまらないらしい。くりぃちゃぁだけでなく、ひっそりとそうやって暮らしている妖怪は案外多いようだ。土敷は、そう言った妖怪達の息着く場所としてくりぃちゃぁを作ったのだが、最近では匿いきれないほどの妖怪達が助けを求めて集まって来るのだとか。

 それでなくとも、コンカフェを経営するくりぃちゃぁの面々は人間と接する機会が多い為、人間達に正体がバレることを恐れていた。それもあって、ここ数日は店を休業状態にして、流れてきた妖怪達の対処を優先しているのだった。


「あー、アイツらは元が人間好きな奴らだからなぁ……休業で暇になったってボヤいてるよ。ストレス溜まってる奴も多いし、今度、顔出してやってくれ。お前が行けば、アイツらはきっと喜ぶだろうから」


「そっかぁ、そうだよねぇ……うん、今日もご飯ご馳走になっちゃったし、近い内にお店へ行くね」


 槐の襲撃以来、狛があまりくりぃちゃぁに顔を出さなかったのは、狛の関係者と見做されて槐が余計な手出しをしないようにとの配慮だった。しかし、既にカイリの姿は槐達に見られているし、トワとショウコも同様だ、そんな気を遣う時期はとっくに過ぎている。それに何より、あの日以来、槐達の動向はようとして掴めていないのだ。であれば尚更、気遣いは無用だろう。


 狛は再び食事を再開し、とても幸せそうな表情に戻っている。そんな顔を見れば、きっとくりぃちゃぁの仲間達も喜ぶだろうと猫田は満足そうであった。そこでふと気付いて、猫田は気になった疑問を狛にぶつけてみた。


「そういや、お守りをやったって言ってたが、何をくれてやったんだ?お前、最近学び舎と家の他は仕事しかしてねーだろ」


「ああ、お守りの中身?ふふ、猫田さんの毛だよ。ちゃんと祈祷してあるんだから」


「はぁ!?い、いつの間に……っていうか、俺の毛ってお前…」


「こないだ猫田さんのブラッシングしたらたくさん毛が抜けてたから、何かに使えないかなーと思って。…ほら、猫田さんの匂いがしたら、ほとんどの妖怪は寄ってこないでしょ?その上しっかり祈祷もして私と猫田さんの霊力が籠ってるから、雑霊だって近寄れないよ!」


 胸を張って豪語する狛を見て、猫田は完全に呆れている。確かに狛の言う通りの効果は期待できるが、まさか自分の抜け毛をそんな風に利用されているとは夢にも思わなかった。ちゃっかりしているというべきか、狛の妙な発想を目の当たりにして、猫田はそれ以上何も言えなくなってしまったのだった。





 その日の夜のことだ。狛から貰ったお守りを大事そうに首から下げて、掛尾恋音は静かに眠っている。時折、寝返りを打ちながら眠る姿は安らかで、とても悪夢にうなされているようには見えない。そんな恋音の夢の中で、彼女は自分を追い立てる何かから懸命に走り、逃げていた。


「はぁ!はぁ!なに、なんなの!?」


 暗い闇の中で走る彼女の目には、一体何が追いかけてきているのか、見る事が出来ない。しかし、それは恋音よりも遥かに速いスピードで走っていて、捕まるのは時間の問題に思える。とにかく逃げなくてはならないと、息を荒くして走りながら、恋音は助けを求めていた。


「誰か!誰か…助けてっ!」


 しかし、そんな悲痛な叫びも空しく、走る彼女に追い付いた何者かがその手を掴んで喋った。


「ツカマエタ…」


「ヒッ!?」


 その瞬間、胸元に異常な熱を感じた恋音は咄嗟にそれを視た。そこには狛が渡したお守りが光を放っており、それは恋音の心を恐怖から護ってくれるような感覚がする。


「ニャアアアアアアアッ!!」


 同時に甲高い猫の叫びが辺りに響くと、恋音の手を掴んでいたものはたちまち消え去っていった。その瞬間に、恋音は飛び起きてまだ暗い室内を見回している。部屋のどこにも猫の姿は見当たらないが、間違いなく自分を救けてくれたのが猫であると恋音は確信している。


「た、助かっ…た……?」


 そう言って、ぎゅっと首から下げたお守りを握り締め、恋音は涙を流していた。手の中のお守りは不自然なほど温かく、熱を帯びているのだった。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?