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第247話 狼の牙

「もう!次やったら本気で怒るからねっ!?」


 狛はそう言って、走りながら猫田を睨みつけている。猫田は別に悪気があったわけではないのだが、流石に体のあちこちをくすぐられたような感覚を与えられるのは我慢ならなかったようだ。狛の突き刺すような鋭い視線を受けて、猫田は渋々謝罪させられるはめになった。


「理不尽だ……」


「なぁに?」


「なんでもねぇ、俺が悪かった!」


 謝りたくはないのだが、正直な所、狛を本気で怒らせると主に食事関連で酷い目に遭うのは経験済みだ。以前、狛の楽しみにしていた甘味を我慢できずに食べてしまった時は烈火の如き怒りを買い、「そんなに甘い物が好きならずっと食べていればいい」と、二日間、全ての食事に生クリームをたっぷり絞った食事を食べさせられた。あの時は狛の怒りを甘く見ていたので、初手で謝らなかったのも良くなかったのだろう。二日目の晩、刺身に生クリームがトッピングしてあるのを見た瞬間に土下座をして謝った事は二度と忘れない思い出である。

 それ以来、猫田は狛を怒らせた時はすぐに謝ることにしている。狛はなんだかんだ言っても優しいので、ちゃんと謝れば許してくれるからだ。


「……二人共、気を引き締めてくれ。そろそろ龍点穴とやらが近そうだぞ。強い霊気が流れてきている」


 カイリの言う通り、狛も猫田も、風穴の奥から尋常でない霊気を感じ取っていた。まるでうねる様に濃密な霊気の流れは、マグマが溢れる火山の火口を目前にしているかのような、強いプレッシャーを感じさせた。ここが日本最大級の龍点穴だと、囀り石が話していたのも頷ける。そして、ちょうど気合を入れ直した所で、狭い通路は終わり、三人はとても大きな空間に出た。


「な、何ここ?地底なのに…なんて広さなの……!」


「…こりゃあ、ただの空間じゃねぇぞ。龍点穴って奴の影響か?空間が捻じれて歪んでやがる!」


 猫田の見立ては正しい。辿り着いたその空間は、さながら大型の野球場ほどのサイズの広さがある。よく何個分と比較されるアレだ。龍点穴を封じていた地底湖の水が抜けるにつれて、その影響から空間が異常に拡張されているようだ。言うなれば、異界化に近い状態だろう。

 そして干上がった湖のあった場所の中央に、槐と黒萩こはぎが立っていた。


「来たか、狛。ずいぶんと早かったな。まさか奇門遁甲の陣をも打ち破るとは、いつまでも甘えた小娘と侮り過ぎたか」


「槐叔父さんっ!」


 異常な空間であるが故か、光などないはずの地底にあって、槐までの距離が見通せる程度の明るさはあるようだ。よく見ると、槐の足元にはわずかな水が溜まっており、その下には薄っすらと蒼白く輝く光が見えた。


「あの光ってるのが龍点穴か?やべーぞ、もう辿り着いてやがるじゃねぇか…!」


「相手は二人、どうにか出来ない数ではないな。一気に攻めるか」


 猫田とカイリがそう呟くと、槐は不敵な笑みを浮かべて乾いた拍手をしてみせた。


「素晴らしいな、猫田と…そっちの女妖怪は見覚えがないようだが、いいをしている。奇門遁甲の陣を破ったのはお前達の判断か?狛に仲間を殺す決断が出来るとは思えんからな。ククク…いい仲間を持ったものだ」


「野郎っ…いつまでも舐めてんじゃねぇっ!」


 猫田は瞬時に大型の猫に変化して、槐に飛び掛かった。疾風の如き速さで駆け抜け、鋭い爪で槐を引き裂こうとしたが、その爪は届かない。


「何っ!?」


「結界くらい用意してあるさ。猫田、お前は直情径行が過ぎるな。また結界にぶつかって、情けない姿を晒すか?」


(猫田さん、下がって!)


 槐が言っているのは、二人が初めて出会った時の事だ。犬神家が妖怪達に襲撃され、槐の結界から飛び出そうとした猫田がそれに阻まれて、のびてしまった。あれは完全に猫田の失態である。猫田は挑発されてカッとなったものの、呪血縁じゅけつえんで繋がっている狛の心の声に従って、後方へ飛んだ。


「ちぃっ!」


「ほう?挑発には乗らんか。…ふふ、そのまま楽にしてやったものを」


 嘲笑う槐の傍にいつの間にか、口から上が無い複数の狗神が現れ、獲物を噛み裂かんと牙を鳴らしている。狛の指示通りに引き下がらなかったら、全身に噛みつかれて、手痛いダメージを受けていただろう。猫田はさらに数歩後ろへ飛び、槐達から距離を取った。


 三対二と言いたい所ではあるが、槐の従えている狗神の数は10匹だ。もしかすると、もっと増えている可能性もある。となれば、数的優位はほぼ無い。むしろ、負けていると言ってもいいかもしれない。それでも、狛やカイリ、そして猫田は当然ながら退く気も負ける気もない。むしろ、より闘志を燃やして槐と対峙している。


 狛とカイリが駆け寄って、猫田に合流すると、それまで槐の隣で静かに立っていた黒萩こはぎが動き出した。


「…槐様、準備が整いました」


「速かったな、よくやった、黒萩こはぎ。だが、せっかくだ。もう少しコイツらと遊んでやるとしよう」


 槐は余裕たっぷりの態度で狛達を見下している。カイリのことは知らないとしても、猫田や狛はもはや、日本の妖怪や退魔士の中でも屈指の実力者と言ってもいい。そんな者達を前にして余裕綽々としていられる槐の態度にカイリは違和感を覚えているようだ。


(今の結界といい、確かに腕はありそうだがこの状況で笑える余裕があるのか?…この男、何かまだ手札を隠しているかもしれない)


 一方、頭に血が上っていた猫田も先程の狛の声と、冷静なカイリの意識が相まって次第に落ち着きを取り戻していた。普段の猫田は冷静な部類なのだが、時々妙に怒りっぽい所があるのは、精神の根っこの所で強い怒りと憎しみを抱いた化け猫だった部分が残っているのだろう。


「テメェずいぶんと余裕じゃねーか、俺達相手に遊ぶ暇があるとは思えねぇがな?」


「ふん、相手は子どもと猫だぞ?本気になる大人がどこにいる。て遊んでやるのが相応だ」


「私を無視するか、いい度胸だな。だが、私からすればお前も小僧と変わらん……さっ!!」


 カイリは薙刀を構えて一足飛びに槐へと向かう。猫田と人狼化した狛も後に続き完璧な連携が槐を襲った。


「速さは良い。だが、それだけだな」


 槐はそう言うと、右手で印を組み、呪文を唱えてみせた。すると、たちまち彼の左手には棒状に固められた霊気が現れる。槐はそれを巧みに操って、カイリの薙刀による初撃を打ち払っていた。


「なっ?!」


。妖怪であっても…な!」


 槐は初撃を容易く打ち払い、カイリの体勢を崩すと霊気の棒を手の中で滑らせ、間髪入れずに突きで反撃をする。喉を狙った突きだったが、カイリは流石の反射神経によって身体をわずかにずらし、その一撃を肩で受けることとなった。更にその後ろから飛び掛かってきた猫田には十匹の狗神を差し向け、隙を突いて眼前まで迫っていた狛の拳を結界で防ぐ。槐はたった一人で、狛達三人を捌ききっていた。


「ぐ…っうぅ!」


「ぐああっ!」


「はははっ!三人がかりでその程度か!……むっ!?」


「はああああああっ!」


 カイリは弾き飛ばされ、猫田は撃ち落されたが、狛の攻撃はまだ終わっていない。真っ向から殴りつけた狛の一撃は結界に防がれはしたが、狛はそこに更に霊力を注ぎ込み、力業で結界を破ろうとしている。


「無駄だ、狛。俺の結界を破ろうなぞ、例え妖怪共が100匹束になっても……なにっ!?」


「あああああああっ!」


 狛の気合と共に槐の結界にはヒビが入り、そして脆くも粉々に砕け散った。まさか破られるはずがないと高を括り、油断していた槐の身体をそのままの勢いで狛の拳が狙う。


「バカなっ!!」


 槐は咄嗟に霊気の棒で狛の拳を受け止めたが、結界を打ち砕いた狛の拳を受け止めきれるものではない。槐は瞬時に策を変え、狛の拳の勢いを利用して後ろへ飛び退った。ただ避けただけではない、猫田に差し向けた狗神達に指示を出し、狛を背後から急襲させている。


「せいっ!」


 狛は槐に躱されたのを見計らい、後から一列で迫ってきた狗神達を後ろ回し蹴りで迎撃しそれは見事に成功した。文字通り、一蹴だ。


「狛ッ…!」


「ふぅっ…!私だって女だよ?槐叔父さん」


 挑発に皮肉で返す狛の笑みに、槐は苛立ちを隠さない。二人の睨み合いは、更に激しい戦いを予感させるものであった。

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