「神奈ちゃん!」
既に狛を抑えている猫田の力はすっかり抜けていた。狛は慌てて神奈の元に駆け寄って、傷の手当てに使う霊符を左手に貼り付けた。痛々しい傷口は隠れたが、あっという間に霊符は血に染まっていく。だが、ぼんやりと霊符が光を放ち始めたので、すぐに傷口は再生が始まるはずだ。ただ、霊符による治療はあくまで応急処置である。
「大丈夫?もう、無茶し過ぎだよ!」
「狛、ごめん。必死だったんだ、私も……」
「神奈ちゃん。…ありがとう」
狛が神奈を抱き締めて礼を伝えると、神奈は目を瞑り、幸せそうに顔が綻ばせていた。実際に、神奈の心の中は多幸感で一杯である。神奈の背後でそれを見ていた
――ははぁ、来世の私はそういう…まぁ、そこは人それぞれか。それはそうと、急いだ方がいい。さっきも言ったが時間の余裕はないよ。連中はもう龍点穴に辿り着いている。
「あなたは何が起こっているのかを知っているのか?」
カイリがそう尋ねると、
――私はこんなナリでも、六神通の力が残っているのでね。あくまで
言われてみれば、狛にも前世はあるはずだが、それが表に出て来ることはない。神奈の前世
「そうだね、早く行かなきゃ…神奈ちゃん、動ける?」
「いや、すまない。血を流し過ぎたようだ、少し休まないと動けそうにないな。すまない、先に行っていてくれないか?必ず追いかけるから…」
「そんな…でも、神奈ちゃんを一人にはしておけないし……」
この状況下で、戦えない神奈を一人残していくのは確かに危険である。狛が戸惑っていると、不意にショウコが口を開いた。
「あらあら、なら私が残って
「二人?」
狛が聞き返すと、ショウコはやや陰のある笑顔になってトワを見つめた。美しい笑顔なのに、何故か恐怖を感じる。狛も神奈も、寒気を感じるほどの圧が込められているようだ。
「トワちゃん。あなたも動けないわよねぇ?黙ってても解るのよ」
「……ショウコ姐にはお見通しか。悪いね、正直言って、すぐには動けそうにないよ。酷く身体が重いんだ…まったく、とんだ足手纏いになっちまったよ」
ショウコに看破されて、トワは観念したのか、その場にどっかりと胡坐をかいて座り込んでしまった。よく見ると顔色も非常に悪く、生気が抜けてしまったかのように見える。ただ、足手纏いになってしまったとは言うが、トワには何の落ち度もない。奇門遁甲の陣の対象にされたのは完全にランダムである。対策をしていなかった以上、トワでなければ他の誰かが罠にかかったはずだ。
「生命力を吸い取られて、術に使われていたんだから仕方がないだろう。…仕方がない、ショウコ、二人を頼んだぞ」
カイリはそう言うと、神奈が投げ捨てた薙刀を拾った。刃先には神奈の血がベッタリと着いていて、相当深く突き刺さったのがよく解る。カイリは神奈を可愛がっていたので、より腹に据えかねるものがあるようだ。
「ええ、任せて頂戴。カイリこそ、狛ちゃんと猫さんの足を引っ張っちゃだめよぉ?」
「…ふふ、誰に物を言っている」
そのショウコの一言で、カイリは肩の力が適度に抜けたようだった。彼女達の中で、実はカイリとショウコが一番長い付き合いである。かつては沼御前として、人や妖怪を相手に暴れ回っていたショウコと戦い、彼女を打ち負かしたのが諸国を旅していたカイリであったらしい。それ以来、二人は友人関係となり、ショウコは暴れることもなくなったのだそうだ。そんな付き合いの長い二人だからこそ、ささくれ立っていたカイリの心をショウコはたった一言だけで解きほぐす事が出来る。狛はそんな二人の関係が素晴らしいものにみえて、一瞬、状況を忘れてしまうほどに見入ってしまっていた。
「おい、話が決まったんならそろそろ行こうぜ。手遅れになったら洒落にならねぇ」
猫田が声をかけると、狛はすぐに気を取り直して立ち上がった。だが、そこである事に気付く。
「そうだ。神奈ちゃんが来れないとなると、またさっきの術をもう一度かけられたらどうしよう?」
「それなら心配要らない、奇門遁甲の陣は対策が容易な術なんだ。それを使用してくる相手だと解っていればどうにでもなる」
そう言って、カイリは指先を軽く切って血を出し、その血で小さく梵字のような文字を書いた。その後同様に、狛と猫田の額にも同じものを書いていく。そして書き終わった後に小さく呪文のようなものを唱えると、梵字は薄っすらと輝いて消えた。
「…これでいい。さぁ、行こう」
「え、今のは?」
「簡単に言うと、私達を集団ではなく一個の存在として誤認させる
「そんな事が出来るんだ。カイリさん、すごい…!」
カイリがやってみせたのは
「
「君は元が猫だからな。感覚が我々とは違うんだろう、直に慣れるさ」
ソワソワと落ち着かない様子の猫田だが、何故かそれは狛にも伝わってきた。人間で言う共感覚性を、より強くしたものと言えば解りやすいかもしれない。
「…ちょっと、ヤダ。猫田さん、変な感じがするよ。もぞもぞしないで」
「俺は何もしてねーだろうが。ああ、背中が痒くなってきた…これだから嫌なんだ」
「ヒッ!?」
猫田が背中を搔くと、狛の背中まで同じ場所を搔かれている感触がする。狛はビックリして奇声を上げてしまった。一方、そんな二人の様子を見て、そこまで強く結びつくとは思っていなかったカイリは訝しがっていた。
「おかしいな、そんなに強く感応するはずがないんだが…とにかくそこは我慢してくれ、急ごう」
「うぅ…何か落ち着かないなぁ……」
「猫と犬は違う生き物ってこったろ…ああ、クソ、今度は喉が痒い」
「ちょっと猫田さんもうやめてっ!ひゃああああ…!」
どうやら猫田は、魂の共感にアレルギー的なものがあるらしい。喉や顎の下を搔くのは犬や猫のお決まりのポイントだが、狛はその微妙な感覚が特に苦手なようだ。走りながら猫田が身体を搔く度に、狛は身もだえている。
すっかり緊張感の薄れた二人を連れて、カイリは溜め息交じりに風穴の奥へ走るのだった。