「そんな……それじゃあ、その奇門遁甲の陣って術を破るには、トワさんを…!?」
狛は最後までその言葉を口にしなかったが、今しがたカイリが説明した通りの術ならば、トワの命を犠牲にしなくてはならないことになる。カイリは苦虫を嚙み潰したような顔をして俯いていた。
「残念ながら…奇門遁甲の陣は他に解除する術はないんだ。こんな外法を平気で使ってくる相手だとは思ってもみなかった…私の落ち度だ。まさか、今のこの時代に、こんな術を使うヤツがいるなんて……」
かつて、奇門遁甲の陣を生み出したのは、とある一人の陰陽師だったという。安倍晴明や芦屋道満のような稀代の天才術師ではなく、歴史の影に埋もれた名もなき陰陽師であったようだが、彼は生来、呪いというものの扱いに優れた人間であった。
元々、陰陽師という存在は、陰陽寮という当時の役所に仕えた役人であり、彼らは呪術の他に占いや星読みなどを行って社会の動きを補佐する人々である。場合によっては検非違使と協力して罪人を取り締まることさえあったようだ。それ故か、陰陽師達には厳しい規範が課せられていた。
当時は現代的な人権意識など無い時代ではあったが、それでも無法者相手に何をしてもよいという事は無い。奇門遁甲の陣の嫌らしい所は、対集団用の術であるということだ。例え相手が咎人であっても、わざわざ仲違いを狙い、
術の効果そのものは弱くとも、それがもたらす精神への負担や仲間を死なせなければならないという罪悪感は非常に大きい。特に、陰陽寮全盛の平安時代などは、現代よりも個人の力がとても弱く、横の結びつきが強い時代であった。無法者達であっても、一蓮托生といった繋がりを持って生きる者達も少なくは無かった…いや、むしろ無法者だからこそ、身を寄せ合って力を併せなければ生きていけないという事もあっただろう。その繋がりを引き裂き、か弱い個の集まりへ変えてしまうのが、奇門遁甲の陣だったのである。
そんな外法や邪法と蔑まれた奇門遁甲の陣ではあったが、禁忌の術として、一部の術者達に受け継がれてきた術でもある。そんな術を、
「ちっ、胸糞悪い術を使いやがる…!」
元々人間であり、また貴族でもあったカイリだけでなく、ショウコや猫田、そしてトワ本人も妖怪達には珍しく強い仲間意識を持っている。そんな彼らにとっても、これはまさに忌避すべき外法であった。そして、それまで黙っていたトワが静かに決意を口にする。
「……もういいさ、あたしの為にこれ以上時間を使う事はないよ。あたし一人の犠牲で先に進めるなら、それに越したことはないじゃないか」
「トワさん、なんてこと言うの!?ダメだよそんなの!絶対ダメ!」
「狛…ありがとう。アンタくらいのもんだろうね、人間なのに、妖怪であるあたしらをそんなに想ってくれるのは。でもね、相手はこんな術を平気で使うような奴らだ、このまま好きなようにさせたらこの国がどうなっちまうか、今更だけど骨身に染みたよ。人の世が滅茶苦茶になっちまったら、くりぃちゃぁの仲間達だってただじゃ済まない……だったら、あたしは犠牲になったって構わない。何としても、その槐って奴の悪巧みを阻止しなきゃ…そうだろ?ショウコ姐、カイリ」
「ああ、私も正直、相手を甘く見ていたが、よく解った。敵は外道だ、この借りは必ず…!」
「……トワちゃん、今までありがとうね。楽しかったわぁ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、皆!どうしてそんな……猫田さん、何で止めるの!?放してっ!」
「狛、堪えろ。トワの覚悟を無駄にすんな…っ!」
覚悟を決めてしまった三人娘達が淡々と話を進めていくことに狛は恐怖し、どうにか止めさせようと食い下がる。猫田がそんな狛を抑えた隙に、トワはカイリから薙刀を借り、その刃を自らの胸に向けた。
「じゃあね。皆、後は頼むよ……それと、ごめんね、狛」
「いや、嫌だよ…!こんなの…っ。トワさん、止めてぇっ!」
「っ!!」
次の瞬間、血の滴る水音と肉を切る鈍い音が響き、誰もがその光景に目を疑った。トワの胸を貫くはずの刃に、神奈が左手を差し込んで止めていたからだ。
「か、神奈!?何をしている?!」
「く、うぅっ…!カイリさん、他の皆も考え直して下さい。私も…狛と同意見、です。ここで誰かを犠牲にして進むなんて…間違って、ます…!」
「神奈ちゃん!手が…猫田さん、お願い、放して!」
狛は懇願しているが、逆に猫田の手には更に力が入って動けない。カイリもショウコも、そしてトワ本人も神奈の予想外の行動に驚愕して動きを止めていた。
「神奈……?」
「トワさん、私に任せてもらえませんか?私なら、呪いを断ち切れるかもしれません…!」
「なんだって?」
そう言うと、神奈はトワの手から薙刀を奪い取って投げ捨てた。強引に引き抜いた左手からは大量の血が流れ、どんどんと血の気が引いていく。だが、それを気にしている暇はない。神奈がこれまでのやり取りを黙って見ていたのは、己の身の内から聞こえる声に耳を傾けていたからである。
以前、紫鏡となった雲外鏡の世界に魂を取り込まれた時、神奈は己の血に眠る祖先の鬼に導かれ、『神剣・
――ふふふ、よく止めた。私の忠告を聞いてくれて助かるよ、来世の私。
「前世の鬼、か…あの時以来いくら呼びかけても返事をしなかった癖に、突然だな」
神奈の姿に、全員の目が釘付けになっていた。半透明だが神奈の身体と折り重なるようにして、見た事もない、しかし、神奈によく似た顔の古めかしい狩衣を着た女性の姿がそこに現れたからだ。その額には、神奈が力を発揮する時と同様に鋭い角が生えている。これが神奈の前世であり、古参の鬼姫の娘、
「これが、神奈の前世……しかし、何故急に…?」
――私は普段、神奈の魂の中で深く眠っているのでね。ここのように強い霊場でないと、発現できないのさ。まぁ、前世の意識がいつまでも表出するのは間違っているのだから、それはいいんだが。……そんなことよりも、だ。
重なって見えていた
「あの…どうしたの?」
狛が声をかけると
――君達は感じないのか?今まさにこの先で起ころうとしていることに。このままでは本当に、取り返しのつかないことになるぞ。……そうさせないために、私は出てきたんだ。さぁ、神奈、再び顕明連を手に取れ。顕明連が与える六神通の一つ、神足通ならば、邪な呪いだけを断ち切る事が可能だ。
「……行きます!」
神奈の気迫と共に、顕明連の一閃が走る。同時に、トワにかけられた呪いのような術の形がぷっつりと途切れた。一見すると何も変わっていないように見えるが、先程まで二つに分かれていた風穴の先が、一つだけになっている。
音も無く、何ら感じられることなく変わった光景を見ていると、まるで狐につままれたようだ。
――いい腕だ、流石は来世の私だな。